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灼熱の氷  作者:
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ほんのりR気味な描写がございます。

苦手な方はご注意ください。

重苦しい音を立てて風がエミリアとダニエルの間を通った。一瞬息をするのも苦しいと感じるような強い風だ。

2人の頭上を薄暗い雲がどんどん過ぎていく。空気は湿り、そこら一帯を雨を予感させる匂いでいっぱいにした。

去っていくマグナスの後姿をエミリアはただじっと見つめていた。どんどん小さくなりやがて屋敷の中へと消えていく背中には、言葉では表せないほどの重い「何か」が圧し掛かっているようにも見える。

その何かがエミリアには分からないし、きっとマグナスもエミリアに分かって欲しいとは思っていないだろう。

ほぼ二週間ぶりに会った夫は相変わらず何もかもが完璧だった。冷たい雰囲気でさえマグナスを飾る装飾品となる。

久しぶりの再会にも妻に優しい言葉一つくれない夫――いや、優しい言葉が欲しかったのではない。ただ、出ていく前と変わらないマグナスの態度で、エミリアを少しも恋しく思っていないことが分かって悲しいのだ。

ここ二週間でエミリアの周りは忙しなく変わっていった。教師やミセス・タリスに教わり、完璧とは言えないまでもある程度貴族のマナーは身につけたと思っているし、ドレスも伯爵夫人に恥じないフランス式の流行のドレスを揃えた。

似合っているかどうかは別としても特訓の成果は確かに現れていると言っていいだろう。

ダニエルの乳母であるナタリーとは未だ打ち解けられていないが、他の使用人は段々とエミリアを信用し始めている。あのダニエルの一件が大きなきっかけとなったのは間違いないだろう。

せっかく見つけた指輪をマグナスに取られてしまったダニエルは暫く唇を尖らせてエミリアのドレスの裾を掴んでいたが、やがてレックスと一緒になって綺麗に刈られた芝生の上を走り回り始めた。

あの日から随分ダニエルは変わったと思う。エミリアの前では時々笑ってくれるようになったし、一生懸命言葉を繋げてくれるのもとても嬉しい。夜寝るときはエミリアの片手をしっかり掴んで離さないし、レッスンが終わるまで部屋の外で待っていてくれた時はおもわず抱きしめてしまった。

今ではダニエルのベッドで寝ることが多くなり、レッスンの間はダニエルの為に部屋の隅に椅子が置かれるようになった。

そんな息子の変化にマグナスは気付いていないのだろうか――?

向こうから手に一輪のマーガレットを持ったダニエルが走ってくる。頬は子供らしく紅潮し、安定しない芝生の上で転ぶのではないかとはらはらしたが予想以上に地面を踏みしめる足取りはしっかりとしていた。

エミリアは腰を屈め、腕を広げてダニエルを待った。飛び込んでくる体温の温かさや太陽のような香りを抱きしめる。

ダニエルの小さなふっくらとした手がエミリアの髪に触れ、摘んできたばかりのマーガレットを髪に挿した。彼は自分と同じエミリアの髪色を気に入っているのか、最近頻りに触ってくる。

エミリアが同じようにダニエルの髪を撫でると嬉しそうに口元が綻んでいく。


「そろそろお屋敷に戻りましょう、ダニエル。雨が降りそうだわ」







*






マグナスは手の中の指輪を見つめた。精巧なデザインは一目で高価だと分かる。

蓋の裏には――今は文字が霞んで読めないが、マグナスは一字一句間違えずに覚えている――こう書いてあった。


<永久の愛の証に>


手の甲が白くなるまできつく拳を握る。

胸を燻っているのは自責の念なのか、後悔なのか。いや私が何をしたというのだ。

マグナスはもう一度指輪を見つめた。甦るのは苦い思い出だけ。しかし例えあの頃に戻れたとしても、マグナスにはどうしようもなかったことだ。

窓の外にはずっしりとした灰色の雲が太陽を覆い隠していた。束の間の晴天は嵐を呼ぶ。今や先ほどまでの太陽は見る影もなく、風が窓ガラスを揺らし庭の木を薙ぎ倒さんばかりに強く吹いている。懐中時計を取り出すと帰って来てからまだ1時間と経っていないことが分かった。

エミリアとダニエルはもう部屋の中に戻ったのだろう。二人がいた場所にはもう何もなかった。

その時ドアをノックする音が聞こえ、マグナスは急いで指輪を引き出しの中に閉まった。小さな木の箱の中で指輪が固い音を立てる。

とっさにネルソンだと判断したマグナスは相手が誰かも確かめずに入ることを許可してしまった。

重厚なドアの隙間から金色の髪が見えた時には心の底からそれを後悔したが。


「お邪魔して申し訳ありません」

「構わない。入りなさい」


おずおずと一歩を踏み出す彼女はもうあの貧相な家庭教師ではなかった。

首元を覆っていた忌々しいドレスは姿を消し、代わりに着ているのは胸元が開いた流行のドレスだ。ほっそりとした肩に浮き出た鎖骨、胸のすぐ下で絞られた細身のドレスは小柄な彼女によく似合っている。淡く光を放つ髪には白いマーガレットの花が一輪飾られており、マグナスはあの初夜の時と同じような渇きを覚えた。

まだ胸の開いたドレスに慣れていないのか、彼女はマグナスと目が合いそうになるとさっと視線を落とす。僅かに頬が赤くなっているのは羞恥からなのだろうか。


「なにか用でも?」


胸の奥で荒れ狂う感情を抑えつけ冷静にそう聞く。持てあました両手は不自然に机の上に置いてあった手紙――それもはっきり言ってどうでもいい――を整理し始める。

それも、まるで今までそれらに熱心に目を通していたかのように。


「その…ダニエルのことでお話がございます」

「ダニエルの?」


てっきりさっきの指輪について聞かれるものだと身構えてたマグナスは少しだけ恰好を崩した。だがエミリアの目は真剣そのものだ。

何かを決意しているかのように結ばれている唇に胸の前で固く組まれた両手。これではまるで私が彼女を取って食うみたいではないか!

内心で妙な苛立ちを覚えながら、マグナスの手は手紙の返事を書く為に忙しなく便箋の上を動く。スペルを間違えようが、ピリオドに余計な力が入ってしまい大きな染みができようがどうでもいい。

どうせこの返事は相手に送られるものではないのだから。


「ダニエルはどうしているんだ」

「疲れたようで、部屋で休んでおります。今日はレックスとたくさん走り回りましたから」

「走り回っただと?」


エミリアの発言の所為で今度は"r"がひどく不格好になった。

だがダニエルが走り回るような子供だとは思いもしなかったのだ、驚いて当然だろう。


「最近はよく笑うようにもなったんです。言葉もたくさん覚えました。彼は学ぶことも好きなようです」


正直に言ってマグナスはこれ以上ないほど驚いていた。自分や優秀な使用人たちが3年間頭を悩ませていた問題を、エミリアはたった2週間で打破してしまったのだから。

やはり彼女を妻にして正解だった。多少は希望に添えない部分もあるが、一番の条件である良き母の部分については文句の言いようがない。他のどの女性であってもエミリアほどの成果を出すことは叶わなかったであろう。


「素晴らしい。君には感心させられる」

「ありがとうございます。私、ダニエルが大好きです。ですから彼の母になれてとても嬉しく思ってるんです」


エミリアの笑顔を見たのは、初めてであった。

それは文字通り、花の綻ぶような笑顔で途端にマグナスの胸を締め付ける。彼女の初めての笑顔の理由がマグナスが与えたどれでもなく、息子だとは少々面白くないが、悪くはなかった。

不自然な心臓の高鳴りは、今にも部屋に響きそうだ。自分を落ちつかせる為に軽く咳払いをするも、どことなくぎこちない。


「それで?君の話というのはそれだけか」

「いえ、あの…実はもう一つお願いがあるんです」


今度は眉を顰めざるを得なかった。エミリアのお願いは金も時間もかからないが、マグナスが知るどれよりも厄介だ。

視線を上げじっと彼女がその"お願い"を口にするのを待った。


「あの…少しでいいのです。もう少し、ダニエルを見てください」


またも不可解な"お願い"だ!

勿論エミリアが言っているのはダニエルともっと向き合えということぐらいは分かる。だがそうしたところで一体何になるのだ。

この3年間、マグナスは出来るだけダニエルと関わらないようにして生きていた。それが今更どう向き合えというのだ。現に息子もマグナスを恐れている。マグナスが父にいい感情を持っていなかったのと同じように。

父は偉大であったが決して尊敬の対象にはならなかった。

だがここでそう言ったとしてもエミリアには理解されないだろう。マグナスは頷くと嘘を吐いた。


「分かった。努力しよう」

「ありがとうございます!きっとダニエルも喜ぶと思います」


それはどうかなとは口に出さなかった。せっかく終わった話をまた蒸し返す必要もないだろう。

マグナスは再び手紙に視線を落としたが、エミリアが出ていく気配がない。訝しげに思って再度顔を上げると、彼女はまだ何か言いたそうにこちらを見ていた。

マグナスの視線に気づき、はっとしたエミリアは急いで口を開くが言葉にはならかったようで頼りない吐息だけが零れていった。


「まだ、何か?」


仕方なく思いながらもマグナスが先を促す。


「その、マグナスは何か悩みごとがあるのではないですか?」

「何故そう思う」

「それは…いえ、根拠などはないのですけど」


段々と小さくなっていく声にマグナスの顔に苛立ちが滲む。それにエミリアは気付かなかった。


「私たちは夫婦、ですけれど…その、最初にマグナスが仰ったように恋愛関係ではありません。ですから私、思ったのです。友人関係だったら築けるんじゃないかって。お互いを知って、悩みごとも打ち明けてば上手くやっていけ――」


やっとマグナスの表情に気付いたエミリアは言葉を失った。冷たい目に射抜かれ、体が硬直する。

そこで初めてエミリアは悟ったのだ――触れてはいけない線を越えてしまったのだと。


「だったら今すぐに君を抱いて差し上げようか?」


マグナスの灰色の瞳は今や炎のように燃え上がりエミリアから体温を奪っていく。声色は優しいのにひどく恐ろしい。

体中の神経が逆立ち、おかしいほどに体が震える。

マグナスが椅子から立ち上がり一歩エミリアに近づく靴音が、まるで死刑宣告のようにも聞こえた。一歩、そしてまた一歩。


「い、嫌…いやです…来ないで」

「私を知りたいのだろう?男女を深く知るにはこれが一番だと思うがね」


エミリアの言葉を無視し、ゆっくりとだが確実に彼女を追い詰めていく足音。怖くて堪らないのにその目から逸らすことができない。

やがて後退していたエミリアの体は遂に壁へと到達してしまった。マグナスがエミリアの顔の両脇に手をつき完全に逃げられなくするまでに、数秒はあった筈なのに逃げることさえ出来なかった。

まるで地面に根が張ったかのように動かない足。今にも崩れ落ちそうなのにそれも出来ない。

マグナスの指がエミリアの髪を梳く。固く目を瞑り怯えた顔をするエミリアの頬に舌を這わせる。重なった唇はあの夜よりもずっと冷たい。

あの時は少なくともマグナスはエミリアに熱を感じていた。だが今は違う。彼に宿るのはエミリアを憎いと思う気持ちだけ。


「何も考えなくていい。そうすれば痛みなど感じる余裕もないだろう」


マグナスの言葉が千本の矢になって胸を貫く。胸が痛い。どうしようもなく悲しい、苦しい。

エミリアの感情はそのまま涙となり絶え間なく頬を流れていった。それと同時に首筋にかかっていた息が遠ざかっていく。


「……これ以上私に関わらないでくれ」


マグナスが放ったのはたったそれだけだった。


エミリアが去っていった扉を見つめ、マグナスはひどく自分を責めた。いつもきらきらと輝きを放つ彼女の瞳から零れる涙は、こんなにもマグナスの胸を締め付ける。

自分で彼女を傷つけておきながら、同じ分だけ自分も傷ついている。

マグナスの事情などエミリアは何も知らないのだ。だが彼女が言った"友情"という言葉はどうしてもマグナスの怒りを抑えられなかった。

椅子に体を預け天井を仰いだ。同じ模様が並ぶ高い天井はこうして歴代の当主たちの憂いの溜め息を吸い込んできたのだろうか。

いつもそうだ。後悔するのは全てが終わってしまった後。許しを乞おうにもその対象は勝手にマグナスの前からいなくなる。

彼がそうであったように。

記憶の中の彼は決してマグナスを責めない。だが、一生マグナスを苦しめ続けるだろう。


「私を許せ――レオ」


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