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灼熱の氷  作者:
15/27

13


エミリアは疲れきっていた。肉体的にも、精神的にも。

中流階級に生まれた者なら一度は貴族の生活に憧れるだろう。彼らは仕事をすることを恥じと考え、浪費こそ美徳と考える。社交シーズンになれば連日パーティに追われ、常に流行のドレスに高価な宝石を身につける。

勿論結婚相手も家柄や財産を基準に選ばれ、その後の生活もほぼ保証されたことになる。つまりのところ借金まみれになったり、スキャンダルを起こしたりしなければ一生遊んで暮らせるのだ。

そんな堕落した生活などと強がる一方で、華やかな貴族の女性に憧憬を持つのは当たり前のことだろう。エミリアだって幼い頃はきらきらと輝くドレスを着る女性になりたいと思っていたものだ。

だがそんなもの所詮夢物語だということを、エミリアはここ数日で身を以て知った。

貴族の一員であるということは決して楽なことばかりではないのだ。

まず、3日間続けてフランス人の仕立屋が伯爵家に訪れ、夜会用のドレスを4着と昼間用のドレスを3着作ると言っていた。もうすでにたくさん持っているというのに。

しかもその後に来た裁縫師が得意げに持ってきたドレスの中には肌が透けて見えるものもあり、エミリアは顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。出来るならばシュミーズドレスは着たくないが、これが流行なのだと断言されてしまっては受け取らずにはいられない。

これを着た時マグナスがどんか顔をするのか少しだけ見てみたい気持ちもあったが、恐らく片眉一つ動かしはしないだろう。

何しろ結婚してから見た、マグナスの表情と言えばあの不機嫌そうに歪んだものだけだったからだ。


一日の半分がドレスの採寸で終わったかと思えば、次はダンスのレッスンが始まる。いずれ必要になるだろうと付けられたのだが、エミリアは数日で一気に基本を覚えなくてはならなかった。

ダンス教師の言うとおりに足を運びながらエミリアはほんの2か月の平和な日々を思い出した。平凡で単調な毎日がとても恋しかった。

昼間はレティシアの家庭教師をして気の合うメイドたちとのささやかなお喋りを楽しみ、夜はレティシアが寝付くまで傍にいて明日のことを思いながらベッドに入る。

今は一日中屋敷で働く人たちに傅かれ、気ままなお喋りすらすることも無くなっていた。思えば初日の夜以来、ダニエルともゆっくり過ごしていない。一日中疲れを引きずっている所為で、食事の時間すらダニエルの方をまともに見ていないんじゃないだろうか。

これじゃいけない。そう思ったエミリアはダンスのレッスンを早めに切り上げてもらい、急いでダニエルの部屋に向かった。

彼には乳母のナタリーが付いているが、お世辞にも懐いているとは言い難い。ナタリーは自分のすることに口出しは無用とばかりにエミリアを睨むし、元家庭教師が伯爵夫人になったことが気に食わないようにいつもエミリアに対してつんとしている。

もしダニエルと遊ぶことに嫌な顔をされても放っておけばいい。私はここの女主人なのだ。そう自分に言い聞かせ、歩く速度を速める。

2階へと続く専用階段を上ると奥にあるダニエルの部屋の前に、なぜか数人の使用人がおろおろとしているのが目に入った。そこにはミセス・タリスやネルソンの姿もあり、心配そうに部屋の中を覗いている。

部屋に近づくと中からダニエルの泣き叫ぶ声と、ナタリーが何か言う声が聞こえた。異様な雰囲気に自然と足も速くなっていく。


「どうかしたの?」


おもわずエミリアが声をかけると、振り返ったミセス・タリスが困ったように眉を下げた。


「奥様…それが――」


彼女の言葉は何かが割れる音で遮られた。慌てて中を見ると部屋はそこらじゅうに物が散乱していて、この前入った時とはまるで違う様をしていた。

ダニエルがカーペットの上に座って泣きながら物を投げつけるのをナタリーが必死で宥めている。だが彼女の声が届いていないのかダニエルはいっそう大きく喚いた。


「一体どうしたというの!」


エミリアが急いで2人の間に割って入っても状況はあまり変わらなかった。額に汗を滲ませたナタリーはほつれた髪を直しながらエミリアにきつい視線を向けた。


「奥様には関係ございません。いつものことですから私にお任せ下さい!」


これがいつものことで片づけられるのだろうか。ダニエルはちっともナタリーの言うことを聞こうとはしないし、それを宥めようとナタリーが大声を出す為に更に状況は酷くなっていく。

すぐにミセス・タリスの方を向き、エミリアは聞いた。


「こういうことは今までに何度かあったの?」

「え?ええ、いつもは大変大人しいのですけれど、ときどき突然」

「どういう時が多い?」

「そうですね…旦那様が留守の時や使用人たちが忙しい時が多いような気がします」


エミリアはその言葉にはっとした。

ダニエルは寂しいと言葉にする術を知らないのだ。まだこんなに小さな子供なのに誰もその寂しさに気付いていなかった。彼は言葉にする代わりに物を投げ、癇癪を起して自分という存在を認識して欲しかったのではないか。

寂しい思いをさせるなとマグナスに言っておきながら、いつの間にか自分のことに精一杯になっていたことに気付きエミリアは自分の不甲斐なさに涙が出てきた。私だって何も分かってはいなかったのだ。

忙しさにかまけてダニエルの気持ちを知ろうとしなかったのは私の方だ。


腕を伸ばしてダニエルを抱き上げる。涙の跡の残る柔らかい頬を撫で、エミリアは力一杯彼を抱きしめた。


「ごめんなさい。寂しかったのでしょう?もう泣かないで」


途端にぴたりと泣き止んだダニエルは、じっとエミリアを見つめる。ブルーに近いグレーの瞳いっぱいにエミリアの顔が映った。

その場にいた誰もがおもわず息を飲んだ。今まで誰が宥めても疲れて眠ってしまうまでダニエルが泣きやむことはなかったのだ。ナタリーでさえじっとエミリアの動向を窺っていた。


「ネルソン」

「はい、奥様」

「今日これからと明日の予定は全て取り消します。明後日からは出来る限り時間を詰めて、午後を空けるようにしておいて欲しいの」

「畏まりました」


内心驚いているだろうに、ネルソンはそれをおくびにも出さずにいつものように礼儀正しく返事をした。戸口に立っていたミセス・タリスは温かい笑みを浮かべながらエミリアを見ており、それだけで彼女がエミリアのしたことを快く思ってくれているのだと分かる。

ナタリーは呆然と2人を見上げていたが、やがて何も言わずに部屋から立ち去ってしまった。

今までダニエルの面倒を見てきたのはナタリーだ。彼女の働きはこれからも期待したいし、出来れば仲良くなりたい。後でゆっくりと話し合う必要がありそうだとエミリアは思った。

ダニエルはすっかりエミリアに体重を預けて大人しくしていた。新品のドレスは幾らか汚れてしまったが、エミリアはちっとも気にならない。きっとこの屋敷の優秀な洗濯婦たちが、仕立てた時と同じようにしてくれるだろう。


エミリアは決めていた。もう何があってもダニエルに寂しい思いはさせないと。


「じゃあダニエル、何をして遊びましょうか。レックスと庭を走り回る?それとも湖の近くまでお散歩しましょうか?」


ダニエルはにっこりと笑って言った。


「ひみつのとこ!」







*






それから5日後の午後にマグナスは帰ってきた。予定していた2週間よりは3日も早かったが、それでもマグナスには充分長い時間リチャードの屋敷に滞在していたような気がしていた。

久々にリチャードとカード遊びに耽ったり、遅くまで酒を飲んだり領地にある森へ狩へ出かけたりとそれなりに楽しむことが出来たがマグナスの注意は殆ど別のところにあったと言っても過言ではなかった。

リチャードの屋敷にいる金髪のメイドを見る度におもわず振り返ってしまったり、珍しくチェスで読みを誤ってしまったりと散々だった。

その度にリチャードが意味ありげな笑みを寄こすのにもうんざりだったし、さすがに自分が平常ではないと悟ったマグナスは今朝早く挨拶もそぞろに屋敷を後にした。

窓の外の景色が見慣れたものになるに連れ、マグナスは今までに感じたことのないような安堵を覚えた。その理由がなんなのかは深く考えないことにした。

ポーチの前では突然帰ってきた主人に使用人たちが慌てて列をなしていた。ネルソンとミセス・タリスだけはいつも通りであったが。

馬車から下り、馬車がキャリッジ・ポーチへ向かってくのを見送った後マグナスはネルソンに尋ねた。


「なにか不都合はなかったか?」


マグナスが屋敷を空ける度に聞いてきた言葉だ。いつもはその問いに難しげな顔をしてネルソンは答えていたが、今回は違った。


「いいえ。ございませんでした」

「なかった?ダニエルは癇癪を起さなかったのか」


いっそ晴々しいような表情でそう言われ、マグナスはおもわず聞き返していた。今までマグナスが屋敷を空けている間、ダニエルが問題を起こさなかったことなど一度もなかったからだ。

それがこのたった1週間かそこらで変わるわけがない。長年ダニエルの面倒を見てきた乳母ですら手に余っているというのに。


「いえ。旦那様がお出かけになられてから4日後に。ですが直ぐ奥様がその場を収めました」


マグナスは耳を疑った。あれ程手を焼いていたのに、一体彼女はどんなことをしたというのだ。


「…奥方はどこにいる」

「ダニエル様とご一緒に庭におられます」


足は自然と庭の方へ動いていた。




エミリアとダニエルは噴水の近くで疲れた身体を休めていた。レックスが傍に来てもっと遊びたいというように元気よく吠える。

だがダニエルの興味は既に別のものへと向けられていた。ダニエルが手に持っているのは金色のロケットリングであった。

例の庭にある館の茂みの中からレックスが咥えてきたもので、細かな彫刻がとても美しいリングだ。蓋を開けると天使の彫刻が彫られてあり、蓋の裏側にも何か文字が刻まれていた。

残念なことに文字は後から消そうとしたのかところどころ削られており、よく読み取れなかったが、きっと誰かが愛する人に贈ったものなのだろうとエミリアは胸をときめかせた。

それ程古いものではないようだし、もしかしたらマグナスが誰かに――そう思った時、エミリアの胸の奥が小さく痛んだ。本人ですら気の所為かと思うほどの微かな痛みではあったが、エミリアはおもわず自分の左胸を押さえていた。

マグナスの口から前妻のことを聞いたことはなかったし、その必要も感じてはいなかった。だがマグナスの容姿を受け継いだとしても、ダニエルを見れば亡くなった奥方がどれほど美しいか想像に容易い。

きっとマグナスの隣に立っても見劣りせず、堂々としていられる人だったのだろう。

エミリアは無意識にダニエルの金色の髪を撫でた。ふとマグナスの髪色は黒でもっと硬質のようだったことを思い出し、ダニエルの髪色は亡き奥様から受け継いだのだと分かった。自分と同じ色だ。

これから先、どんなにエミリアが伯爵夫人としての教養を身に付けたところで叶うことのない人。マグナスはエミリアの金髪を見る度に亡き奥様を思い出しているのかもしれない。もしあのロケットリングを贈ったのがマグナスならば、彼はとても奥様を愛していたのかもしれない。

それは何故かとても――とても悲しいことだった。


「エミリア」


噴水の傍でダニエルの頭を撫でているエミリアを見つけたとき、マグナスの心臓は不自然に跳ねた。1週間ぶりにあった妻は、最後に見た時よりも洗練され美しくなっているような気がした。

金色の髪は陽の光を受けてきらきらと輝き、何かを考えているように伏せられた睫毛が瞳を飾っていた。

一瞬言葉を失い、どう声をかけていいのか分からなくなった。こんなに狼狽えたことは初めてで一度喉を鳴らすことで平静を取り戻そうと必死になった。

その結果、口から零れたのは彼女の名前であった。

エミリアは弾かれたように顔を上げ、目一杯瞳を大きく開き、マグナスを映した。隣にいたダニエルもそれに倣い、マグナスの方を振り返る。


「マグナス?いつお帰りに…」

「ついさっきだ」

「お迎えもせずに申し訳ございません。お疲れでしょう」

「いや」


驚いたことに、馬車の中で感じていた疲労はすっかり消えていた。代わりに数日忘れていた熱が再びマグナスの胸に甦る。

エミリアの気遣わしげな視線はマグナスを落ちつかなくさせ、おもわず目を逸らす。彼女の細い指先はダニエルの髪を梳き、優しく撫でていた。


「お帰りなさいませ」


僅かな沈黙の後、エミリアが発した言葉は更にマグナスの心臓を熱くさせるのに充分な威力を持っていた。その言葉を言われたのは初めてのような気がした。何故だかとても温かい。

躊躇いながらもエミリアへ手を伸ばそうとした時、ダニエルが持っている指輪に目を奪われた。

途端にあれ程熱を放っていた心臓が、凍りついたように冷たくなっていく。


「それを…」

「え?」

「一体それをどこで見つけた!」


先ほどとは打って変わって声を荒げたマグナスにエミリアもダニエルも怯えたように肩を竦ませた。鋭い視線はしっかりとダニエルの持っている指輪に注がれ、恐ろしいまでに見つめている。


「まあいい。それは私のものだ。今すぐ返してもらおう」


マグナスの言葉にダニエルが首を振る。彼が一目でこのリングを気に入ったのはエミリアにも分かったが、今回ばかりはマグナスに頼もうという気持ちすら起こらなかった。

あまりにもマグナスの発する気が冷たかったからだ。

エミリアが宥めるようにダニエルの背中をさすると、一瞬泣きそうな顔をしてダニエルは大人しく指輪を離した。すかさずダニエルを抱き、「いい子ね」と言いながらマグナスに指輪を渡す。

これ以上こんな緊張の中にいるのは耐えられそうにもない。


指輪を受け取ったマグナスはそれを乱暴にポケットにしまうと、何も言わず踵を返して行ってしまった。

その背中からは何も分からないが、エミリアは過敏なまでのマグナスの行動に何か言いようのない不安を感じていた。


明るく庭を照らしていた太陽を雲が覆い、彼らの影を簡単に消していった。

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