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灼熱の氷  作者:
14/27

12

翌朝目を覚ましたエミリアは、寝心地のいいベッドと美しい模様が描かれている天井の説明をつけるのに一旦ぐるりと部屋を見渡さなくてはいけなかった。

数回瞬きをした後、ぼんやりとした思考が次第に冴えてきて全ての記憶が脳裏によぎった。僅かに足を動かすと、滑らかなシーツが肌を心地よく擽った。

ここに来て最初の朝だ。外は重苦しい雲が数時間後の雨を予測させている。

ベッド脇の化粧台にはすでに洗顔用のお湯と水が用意されていた。エミリアはそれで顔を拭くと、ベルを鳴らして小間使いのドリーを呼んだ。

ドリーはエミリアよりも4つ年上の元気のいい女性で、手早く支度を整えたり髪を結ったりしている間も楽しそうに鼻歌を歌ったりエミリアに意見を聞いたりした。エミリアはドリーの質問に一つ一つ丁寧に答えながら、時々調子が外れる鼻歌に笑いそうになるのを必死で堪えた。

身支度が済み、階段を下りて朝食用の部屋へと入った。テーブルにはすでにダニエルがついていたが、マグナスの姿は見えなかった。

控えていたネルソンに尋ねてみると、マグナスは今朝早くに近くの領地にある友人宅へ出掛けたと告げられた。


「滞在は1、2週間程度だそうです。入用がございましたら私にお申し付け下さい」

「そう…ありがとう」


エミリアは胃が下がっていくような息苦しさを感じた。新婚早々に1週間以上も妻を置き去りにする夫がいるだなんて!それも正式にここの女主人となって1日も経っていないというのに。

それはいかにマグナスがエミリアのことを気にかけていないかを示しているようだった。知らず知らずのうちにエミリアの口から重い溜め息が零れる。

昨夜はマグナスの思い通りになるのが嫌であんな強気な態度を取ってはいたが、内心不安で仕方ないのだ。貴族同士の繋がりもなく、友人もいない彼女にとって夫だけが唯一の頼りであったのに。

マグナスはあっさりとエミリアの頼りの綱を切ってしまったのだ。ディナーパーティまでそれほど時間がないのはよく分かっている。だからこそ恥をかかないよう入念に準備が必要だ。

新しいドレスの裁縫、ダンスの練習、貴族たちの関係、社交界を取り仕切る夫人たちのことも知らなくてはいけないだろう。考えるだけで頭が痛くなってきそうだ。


ダニエルが不安そうにこちらを見ているのに気付き、エミリアは慌てて笑顔を浮かべる。不安になっても仕方がない。こうしているうちにもどんどん時間は過ぎて行くのだ。

せめてマグナスがいない1週間、ネルソンやミセス・タリスの力を借りて自分なりに出来る限りを頑張ろう。

そしてマグナスのあの冷たい瞳を驚愕に染めてみせるのだ。決して恥をかかせることだけはあってはならない。

次々と目の前に並べられる美味しそうな朝食を目の前に、エミリアはそう誓ったのだった。





湿った空気を肺いっぱいに入れながら、マグナスは落ちつかなげに窓の外を見た。見慣れた景色が遠ざかり、辺り一面が深い緑に染まると同時に重苦しい溜め息が零れる。

昨夜の苛立ちから抜けきれず、朝食もそこそこに衝動的に友人宅へと向かっているが、よくよく考えてみればなんと愚かなことか。

まるでエミリアから逃げているようではないか。逃げるなど騎士道精神に反している。

なにも急に友人を訪ねるようなまねをしなくても、朝食に降りてきたエミリアに冷やかな挨拶をすればそれで済んだ筈だ。

マグナスは再び溜め息をついた。感情を押し隠すのは人一倍得意だと思っていたのに。その自負はエミリアの前ではまったくと言っていいほど役には立たない。

しかし今更屋敷に戻るなど以ての外だ。久しぶりに友人を訪ねてみるのもたまにはいいだろう。

大学時代からの悪友はきっとマグナスをこの不可解な感情から解き放ってくれるに違いない。狩にカード遊び、夜通し飲む上等な酒でいつもの自分に戻れるのだ。

マグナスは信じていた――昨夜から続く胸を焦がす苛立ちは、ほんの一時のものであると。そして、それは簡単に消せるのだと。





*




「こちらでございます。ラザフォード卿」


執事に案内され、マグナスは応接間へ足を踏み入れた。グランヴェル家よりも些か華美な家具はしかし、城のようなこの屋敷に絶妙な優雅さを与えていた。趣味よく配置された家具に大きな明るい窓。壁の上には数代前の王直々に贈られたという肖像画が掛けられ、この部屋に入る全ての人物に睨みを利かせている。埋め込み式の暖炉の中央にはこの屋敷の主人自慢の獅子が精巧に彫られていた。

歴史が隅々から感じられる部屋を一通り見渡すと、マグナスは近くにあった背の広い椅子に腰を落ち着けた。赤地に金の織りが入っているその椅子は座り心地もとてもよかった。


「君から訪ねてくるだなんて驚きだな」


やがて陽気な声と共に執事に伴われた友人が姿を現した。

マグナスよりも数年遅れて侯爵位を受け継いだこの男は、薄い金髪の巻き毛が特徴の好青年であった。学生時代から人当たりがよく、明るい性格だったため、いつも周りには友人が溢れていた。

マグナスとは一見正反対に見えて強かなところもあり、今日までなにかと縁が続いている。マグナスの亡き妻も実は青年の遠縁にあたるのだ。


「突然すまないな、リチャード」

「いや。久しぶりに会えて嬉しいさ」


世の婦人方を騒がせる爽やかな笑みを浮かべ、リチャードはマグナスの向かいの椅子に座った。その目はまるで子供のように輝いており、マグナスの胸にさっと嫌な予感が走った。


「それで?親愛なる我が友人、ラザフォード卿の奥方にお目見えは叶わないのかな」


悪戯っぽく聞いたリチャードに、マグナスはやはりと眉を顰めた。出来れば今は彼女の話をしたくないのが本音だった。

何しろ昨日の今日だ。エミリアの真っ直ぐな瞳は未だマグナスの神経を焦がし続けているし、同時に怒りの感情も消えてはいない。第一、マグナスがエミリアについて友人を初め他人に語れるものなど驚くほど少ないのだ。

一言でいえば、ひどく強情な娘だ。自分が弱い立場であろうとも決してそれを認めようとしないのだから。

マグナスは何とかリチャードの気を別のところに逸らせないかとも考えたが、それは難しいこともまた長年の友人関係から知っていた。リチャードの興味を削ぐのはなかなか骨が折れる。

彼は間違いなく今回のマグナスの結婚に興味を持っている。

何しろサリアナがダニエルを産んですぐに亡くなってからもマグナスは二度と結婚はしないと常々言っていたからだ。その言葉通り、遊びこそすれどマグナスは結婚する気配など微塵も出してはいなかった。

それがたった数カ月会わなかった間にマグナスは新しい妻と家庭を築こうとしている。それも元々は妹の家庭教師だと言うではないか。そんな噂を無視しろという方がどうかしている。


「君のところにも来ているだろう?ラグバード公爵からのディナーの招待状だ。そこに妻を連れて行こうかと思っている」


マグナスは観念したように溜め息をつくと、そう切り出した。下手に話をはぐらかすよりも素直に話し、さっさと話題を変える方が利口だと考えた。


「ああ。確かきていたはずだ。へえ、じゃあそれまでお預けってことか。楽しみに待っていたいところだが、もう少し彼女に対してのヒントが欲しいな」

「なんだと?他人の妻を詮索するなどどうかしている」

「確かに。けど考えてみてくれ。僕はまだ独身だし、当分結婚するつもりもない。まだまだ色んな花を楽しみたいんでね。だが侯爵家の嫡男としていずれは妻を娶らなくてはいけない。絶対不落の氷の伯爵とまで言われた君を落としたのがどんな女性か今後の為に参考にしても罰は当たらないだろう?」


滅茶苦茶な理屈を並べられ、マグナスは微かに頭痛を覚えた。これは一から十までマグナスが話すまでは決して諦めてはくれなそうだ。

まったくこの友人は普段温和なだけに、こういうときはなんとしてでも食い下がる。それは称賛に値すべきかそれとも彼の短所として捉えるべきか。


「いいだろう。だが君が欲している答えかどうかは保証できない。私はダニエルの為に彼女と結婚したのだからな」


その瞬間、僅かにリチャードの眉が寄った。その理由をマグナスはよく分かっている。マグナスの秘密を彼以外に知る唯一の人物がリチャードだからだ。

秘密は己の弱さを露呈することとなるが、同時に強い心の支えを得る機会にもなる。その秘密を持った時、マグナスは生涯誰にも話すまいと誓った。だが長年の友人はマグナスの些細な異変すら見逃してはくれなかった。

正直に話し終えた時、マグナスはリチャードに聞いた。社交界中に話すかと。スキャンダルになるには充分な要素であったし、マグナスをよく思わない人々なら喜んで貴族たちに吹聴して回っただろうが、リチャードは首を振った。

彼は今日に至るまでその約束を破ったことはなかったし、そしてこれからも破ることはないだろうとマグナスは確信している。

暫く沈黙を置いた後、リチャードは静かに「そうか」とまるで独り言のように呟いた。視線はマグナスではなく、重厚な絵が描かれている天井へと向けられていた。

部屋の重厚さに負けないほどに、今や二人を取り巻く空気は変わっていた。


「君の奥方は…その、あのことを知っているのか?」


マグナスは笑った。そしてそれはリチャードへの答えでもあった。

エミリアにマグナスの秘密を話すつもりはない。勿論エミリアに限ったことではなく、マグナスは妻となった女性に初めから何も打ち明けようとは思っていなかった。

恋愛をして夫婦になる男女など一握りだ。多くは結婚してから恋愛を楽しむ。だがマグナスの場合そのどちらでもなかった。

愛ほどマグナスが信用していないものはない。目に見えぬものに根拠などないし、形を変えぬ気持などどこにもないからだ。信用していないものに、どうして自分の秘密を託せようか。

愛などなくても夫婦として形は保てる。夫として最低限の事はするつもりだ。エミリアには何不自由のない生活を与えることを保証する。好きなだけドレスを仕立てればいい、社交界の華となるべく宝石に身を包み夜ごと音楽会や舞踏会に繰り出したって構わない。

マグナスが彼女に望むのはただ一つ、寄宿学校へ入れるまでダニエルが跡取りとして不足なく育つことだけだ。

リチャードはなおも戸惑っているようだった。だがそれ以上続けなかったのは、彼なりの気遣いだったのだろう。リチャードは努めて明るく、ダニエルの事を聞いてきた。


「ダニエルにも暫く会ってないな。元気か?」

「どうだろうな。私が留守の間、病気をしたとは聞いていない」

「呆れたな。そんなんじゃダニエルも寂しがってるんじゃないか?」


リチャードの言葉にふと、忘れていたと思っていたエミリアの言葉が脳裏に甦る。そしてその声は、思い出す彼女の瞳は、絶え間なくマグナスの胸を熱くさせた。

そんな感情を振り切るかのように、マグナスは自嘲気味に笑った。


「妻にも同じことを言われた。ダニエルは誰かに甘えることを学ぶべきだと。私には理解できないがな」


僅かにリチャードの口角が上がったのをマグナスは見逃さなかった。先ほどよりもいっそう笑みを深くして、彼は意味ありげに手を組んだり唇を指で触れたりした。

何か企んでいる時のリチャードの癖だ。


「なんだ?」

「いや。随分素晴らしい奥方じゃないか。ますます興味を持ったな。どんなに魅力的な女性なのか、ディナーパーティーが待ちきれない」


マグナスは不可解そうに片眉を上げた。素晴らしいかどうかなど、エミリアに会ったことも無いリチャードがどうして分かるというのだろう。

確かに彼女は今までマグナスが出会ったどの女性像にも当て嵌まらない。背はマグナスの目線よりもずっと下であるし、一度だけ腕を回した腰はこちらが心配になるほど細かった。かと思えばマグナスに対しては毅然とした態度を取り続けるし、いとも簡単にマグナスの神経を逆撫でする。

確かに腹立たしいが、それは他の女性たちに感じたものとはまったく別の苛立ちであるようにも思えた。それが何なのかは説明がつかないが。


リチャードの言葉はマグナスの胸の奥に小さな棘を刺す。自分の妻が他の男に興味を持たれるのは何故か不愉快だった。

彼女には何も言わず屋敷を出てきたことを今更ながらに後悔し始めている自分にマグナスは驚いた。

いや、屋敷にはネルソンもミセス・タリスもいるではないか。彼らには私の留守中しっかりとエミリアを助けるようにと言っておいた。私がいなくても彼らはしっかりとやってくれるだろう。

今頃エミリアはディナーパーティに向けて新しいドレスの採寸をしている最中であろう。マグナスは流行の生地の薄いドレスを着た妻を思い描いた。モスリンの生地が柔らかく包み、あの真珠のような肌がうっすらと透けてみせる。

急に体が熱くなり、喉の奥が渇いた。そんな妻の姿を他人の目に晒すなど、考えてもみなかった。


遂に堪え切れないといったように、それまで黙ってマグナスを見ていたリチャードは肩を震わせ笑いだした。


「何が可笑しい」

「マグナス、一体自分がどんな顔をしているか気付いているか?鏡でも見せたやりたいよ」

「なんだと?」

「一つ僕から忠告だ。君は必ず今日僕に言った言葉を後悔する」


リチャードの自信たっぷりな言葉も今のマグナスには嫌味にしか聞こえなかった。後悔など、自分の屋敷を出てきた瞬間から何度もしているからだ。

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