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すやすやと安らかな寝息を立てるダニエルの淡い金色の柔らかい髪を撫でながら、エミリアは長かった一日を終えることに安堵した。レックスと名づけられた子犬はエミリアの足元で体を丸めて眠っている。
マグナスに子犬を飼うことを許されたダニエルは大きな喜びを示すことはなかったが、元気に飛び跳ねる子犬を追う目は幾分きらきらと輝いているようにも思えた。まだ子供らしいというにはほど遠いが、少なくとも感情を表に出すことは出来た。一日目にしてはなかなかの出来ではないかとエミリアは一人ごちた。
まだエミリアのことを母と呼ぶ必要はない。ただほんの少しでもいいから心を開いて欲しい。そう思い、ダニエルが眠るまで傍にいることを決めた。初めは緊張気味にエミリアを見上げていたダニエルだったが、あやすようにゆっくりと胸を叩いているうちに疲れていたのかぐっすりと眠ってしまった。
ほのかな明かりに照らされた室内はレティシアのものよりもほんの少し大きく、そして息苦しかった。
部屋の所為だけではないのかもしれない。エミリアは重い溜め息をついた。まったく貴族というものは何をするにでもドレスを変えなくてはいけないのだ。
ただ単に夕飯をとるだけの為にフォーマルなドレスに着替えなくてはいけないと教えられた時は呆れて言葉が紡げなかった。この分ではダニエルや子犬と走り回る専用のドレスを誂えなくてはならないようだ。
家庭教師でいる間はドレスは一日一枚で済んだ。それも今着ているものよりもずっと動きやすいものだ。それに今流行だというドレスはエミリアが持っていた襟が詰まっているものとはまるで違い、胸元が大きく開いている。食事中に限らず、正直なところ息を吸う度に気が気ではなかった。
もっとも、その部屋にはダニエルとマグナスの他には従者が数名いるだけで、夫であるマグナスは殆どエミリアの方を見ようとはしなかったが。
綺麗だと褒めて欲しかったわけでもないが、あそこまで無関心を装われると誰の為に着飾っているのか分からなくなる。誰の為にこんな派手なドレスを着ているのか。
エミリアはもう一度ダニエルの髪を撫で、音を立てないようにそっと立ち上がった。レックスは気配にこそ敏感にぴくぴくと耳を動かしたものの、目を開ける様子はなかった。
「一体どこに行っていたのだ」
宛がわれた自分の部屋に戻ったエミリアは目を疑った。そこは確かに昼間、ミセス・タリスにエミリアの部屋として紹介された場所に間違いない。調度品も、白い壁紙も記憶しているのと全く同じだ。
ただ一つ昼間と違うものがあるとすれば、部屋の中央でマグナスが仁王立ちしていることだ。その顔は不快感を隠そうともしていなかった。
「マグナス?こんな時間にどうしたのですか?」
「質問をしているのは私なのだがね、マダム」
うんざりといったような口調でマグナスは言ったが、エミリアはそれどころではなかった。どうしてマグナスがこの部屋にいるのだろうか。
いや、結論から言ってしまえば夫が妻の部屋にいることに何の疑問も湧かないだろう。しかし二人は形だけの夫婦であり、初夜を拒んでしまった以上そういう雰囲気になることはまずないと思っていた。
「その…ダニエルの部屋におりました」
「ダニエル?今までずっとか?」
「ええ。彼が眠るまでは傍にいようと思いまして」
マグナスの片眉が上がった。彼が何かを不快に思うときの癖だとエミリアは肩を竦めた。
「…あまり子供を甘やかすことには感心しない。ダニエルには自室があるのだ。部屋がある以上一人で寝るのが道理だろう」
――甘やかす?エミリアはマグナスの言っていることが理解できなかった。
眠るまで傍にいてやることのどこが甘えになるのだろう。寧ろダニエルは甘えることを知らないというのに。あのガラス玉のような感情のない瞳の裏には果てのない孤独があるのだ。
まだ幼い子供には家族が必要だ。使用人ではなく、心を預けられる家族が。
それを父親であるマグナスは知ろうとはしない。
「お言葉ですが、伯爵様。私はダニエルの母になる為に伯爵様と結婚いたしました。彼に寂しい思いをさせる為ではございません」
「寂しいだと?ダニエルがそう言ったのか」
「いいえ。ですがダニエルはもっと誰かに甘えることを学ぶべきです」
エミリアの口調はどこまでも凛としていて揺ぎ無かった。マグナスは暗い室内の中で僅かな明りに浮かぶ彼女を暫く言葉も出ずに見つめていた。
まだ幼いからといってマグナスを甘やかしてくれる人間など、この邸にはいなかった。長年勤めているネルソンやミセス・タリスですら使用人としての一線を越えてはこなかった。
次代の当主として厳しく躾けられてきたマグナスにとって一人で寝ることは当たり前であり、それが特別なことだと思ったことは一度もないし、当然ダニエルにもそうするべきだと思っていた。
エミリアの言う通り、マグナスはダニエルの母となってもらうべく彼女と結婚した。しかし、マグナス自身母親という定義をよく知らない。
記憶に残る母親像と言えば社交界シーズンには連日連夜パーティに出掛け、音楽会やオペラの観賞会ととにかく忙しかったとしか言いようがない。彼女の愛するものと言えば金とラザフォード伯爵夫人という肩書、それから自身の美貌だった。
息子など――幼いマグナスなど――彼女の興味を引く対象ではなかった。勿論、ある一つの例外はあったが。
誰かに頼ることは甘えだと思っていたマグナスにとって、甘えることを知るべきだと主張するエミリアの考えは新鮮であった。だが一方で強く反発する自分もいる。
甘えなど、高貴なる伯爵に必要なものか。甘えは己を弱くするものだ。
しかし無駄な論議をしている暇はない。マグナスは片手を上げて空気中に漂っていた緊張感を絶った。
「結構。ダニエルに関しては君がしたいようにするがいい」
エミリアは知らず知らずのうちに強張っていた肩の緊張を解いた。マグナスがエミリアの考えを理解してくれたとは言い難いが、少なくともダニエルに付き添うことを禁じられたわけではない。
「ありがとうございます、マグナス」
「喜ぶのはまだ早いと思うが」
マグナスの含みのある言葉にエミリアは再び息を詰めなければならなかった。彼は懐から何かを取り出すと、部屋のほぼ中央にある小ぶりのテーブルの上にそれを置いた。
「君に伯爵夫人としての最初の課題だ。ラグバード公爵夫妻からディナーのご招待を頂いている。時間はまだあるがドレスの採寸などは明日にでも始めなければならないだろう」
今度こそエミリアの心臓は止まった筈だ。いっそのことその方が大いに楽だったに違いない。
ラグバード公爵と言えば英国でもトップクラスの貴族だ。その名を知らないものなどこの国にはいないのではないだろうか。
エミリアがラザフォード伯爵夫人となってまだ一週間も経っていない。この屋敷にも慣れていないと言うのに、そんな大規模なパーティで失態を犯さずにいられるかまったくもって自信がない。
マグナスに視線を向けると彼は意気揚々とした顔でエミリアを見ていた。まるで彼女がこうして困ることを楽しんでいるかのように。
悔しさで喉の奥が熱くなる。伯爵の思い通りの反応をしたらいけない。絶対に困った顔などしてやるものか。
エミリアは一旦深く呼吸をして自分を落ちつけると、背筋をぴんと伸ばしてマグナスと向き合った。
灰色の瞳と薄茶色の瞳が互いをそれぞれに映す。
「分かりました。伯爵様にご迷惑をおかけしないよう精一杯努力いたします」
「…頼もしい奥方で大いに助かる。今日は遅い。もう休みなさい」
エミリアの毅然とした態度に一瞬言葉を失ったマグナスだったが、すぐに眉を顰めると苦々しげにそう吐いた。そしてエミリアへの夜の挨拶もそこそこに荒々しく部屋から出ると、近くにいた使用人にシェリー酒を持ってくるように怒鳴り自室へのドアを開いた。
代々の伯爵家当主が使ってきた部屋は歴史がある分、肺に通る空気にすら重みを感じる。この重みこそが自分の証明だ。
先ほどのエミリアの瞳を思い出し、マグナスは苛立たしげに黒髪をかきあげた。あの真っ直ぐな瞳を見ると腹立たしくて仕方がない。彼女が儚く涙でも流していれば、これ程までに苛立つこともなかっただろう。
一体なんだというのだ!そう大声で叫びたい衝動にも駆られた。
マグナスが欲しかったのはあんな風に夫に楯突くような妻ではなかった筈だ。従順で甘い言葉を求めない、ダニエルの母となるに相応しい女性だ。決して、決して意思を持った強い瞳で自分を見るような女性ではない。
マグナスの知る限り――それも相当な数だと自負している――マグナスの出会う女性たちは少なくとも皆、表向きは従順だった。
それは彼の後ろに大きな権力と財産があることを知っているからだ。社交界でも有名な彼を夫とすることにも大きな意味を持っていただろう。
常にマグナスの顔色を窺い、賛辞の言葉を並べ機嫌を損ねないように努力する。未来のラザフォード伯爵夫人の座はそれほどまでに魅力的だったのだ。
エミリアもいっそそういう女性だったらよかったのだ。野心に溢れ、子供のことなど関心を持たない婦人だったのならマグナスは彼女と結婚したりしなかったのに。
なのにエミリアはマグナスの持つもの一つとして魅力を感じてはいないようだった。マグナスを真っ直ぐ見据え、反論することに何の躊躇いも覚えない。マグナスに愛想を振りまくこともせず、プロポーズすら最初は断った。
一体なんだというのだ。腹立たしいと思う半面で、彼女の意思の宿った瞳に映ることの心地よさは!
それは胸を掻き毟りたいほどの熱だった。
あのまま同じ部屋にいたら間違いなく熱の解放を求めていたに違いない。それが余計にマグナスの自尊心を傷つけた。たった一人の女に感情を左右されるなど、あってはならぬことだ。
マグナスが行き場のない怒りを募らせている間にノックの音がし、使用人がおずおずとシェリー酒を持ってきた。
それをひったくるようにして取ると、マグナスはすぐにグラスにそれを注ぎ一気に飲み干した。焼けるような熱が喉を伝って心臓の鼓動を速めて行く。
だが、マグナスは分かっていた。何もかもを忘れたいときに限って、酒は何も忘れさせてはくれないのだと。