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灼熱の氷  作者:
12/27

10

マグナスは肘掛椅子に体重を掛けると、天井を仰いだ。先ほどの態度は些か不自然すぎやしなかったかと。

適当にはぐらかせばよかったのに、逆にエミリアに不信感を持たせたのではなかったかと思うと気が気ではなかった。

嘘や秘密の類は隠そうとすればするほど綻びが出るものだ。適度に本音を晒した方が却って上手く隠れる。

しかしそうなるとマグナス自身、ここ数年目を逸らし続けてきたものと対面せざるを得ない。そうなるには今しばらく時間がかかりそうだった。

目を閉じれば簡単に過去へと戻ることが出来る。

マグナスの子供時代は決して楽しいものでも愉快なものでもなかったが、全てを否定しなくてはならない程悲惨でもなかった。

ただ、自分は愛されるべき存在ではなかっただけだ。笑うのは苦手だったし、大人たちの間で育ったマグナスには子供らしい愛嬌はなかった。

そんな子供を誰が好き好んで愛してくれるというのだろう。大人になった今ならこう言える。私ならお断りだと。


苦々しげに溜め息を吐き、マグナスは溜まった手紙を一つ一つ開けようとナイフを取った。然るべき伯爵夫人として、エミリアにはなるべく早く社交界に出てもらおうと思っていた。

幸か不幸か、目の前には貴族からの招待状が山ほどある。その中からそれほど敷居が高いものではないものを選ぶつもりであった。

何しろ社交界というのはある意味悪の巣窟のようなところだからだ。女は真偽が不明の噂話を好み、優劣をつけるのが大好きだ。自分より美しいドレスを身につけている者、爵位が高い者には絶えず媚を売るが、劣っていると判断した人間には驚くほど冷たい。

長年貴族として生活してきたマグナスは上手く立ちまわることが出来るがエミリアはそうではないだろう。

ふと、彼女が貴婦人たちに囲まれて怯えた表情をするのが目に浮かび、おもわず持っていたナイフに力が入ってしまいマグナスの指を僅かばかり傷つけた。

エミリアは間違いなく社交界で注目の的となっているだろう。自惚れている訳ではないが、マグナスは自分が他人の目からどのように映るかをよく知っていた。その奥方で、それも元家庭教師となれば必然的に人々の口上に上るわけだ。決して、いい噂ではないことだけは確かだが。

余計な波風を立てられて、面倒なことになるのはなんとしてでも避けたかった。

ずっとマグナスが傍についてやることも叶わない為、慎重に招待状を選ばなくてはいけなかった。新しいドレスを作る必要もあるだろう、彼女が持っていた野暮ったいものでは駄目だ。優雅で最新のドレスを作らなくては。


マグナスは一通の招待状を手に取った。招待主は古くからの知り合いで、父の友人でもあった侯爵だ。

夫婦共に穏やかな性格ではあるが、人を見る目は確かだ。この2人に認められたのなら、社交界で敵は作らないだろうとも言われている。

これはまたとない好機だ。

マグナスは早速ネルソンを呼ぶと、この招待を受けることを告げた。





*





目の前に広がる光景に、エミリアはただただ言葉を失くしていた。

屋敷から庭に続く階段を数段降りると、開けた場所があり、中央の噴水を中心に色とりどりの花が美しさを競っている。

更に下に降りると綺麗に刈られた小ぶりの木を囲うように何十もの小さな花壇があった。ところどころに彫刻もあり、その周りにも小ぶりな花が咲いていて、よりいっそう彫刻の精巧さを際立たせていた。伯爵家の庭はとても有名だったが、これほどまでとは思わなかった。

深く息を吸うと、ひんやりとした空気が肺いっぱいに入りとても気持ちがいい。聞こえるものと言えば森に住む鳥の声、噴水から流れる水の音だけだ。

少し離れた場所には東屋があり、その向こうにはひっそりと木の影に隠れるようにして小さな館があった。

エミリアはチェザースハウスにいた頃、庭に同じようなものがあったのを思い出した。屋敷とまではいかないものの人が住むには充分な大きさを持っていたため、庭を観賞する為だけに作られたものだと聞いた時にはとても残念に思った。

屋敷のように豪華ではないが木とレンガを使った素朴で温かみがある館に、エミリアはとても興味をそそられた。隣にいたミセス・タリスもそれに気付いたのかさりげなく館の方へとエミリアを誘導してくれた。

その一画だけは人工的に作られた庭ではなく、まるで森の中にいるかのように自然に草木が生えていた。

館の周りを彩る花々もエミリアがよく知る植物ばかりだ。高さがバラバラの草木に、時々小さな鳥が止まり辺りをきょろきょろと見回す。エミリアたちの足音が聞こえるとすぐに羽をはばたかせて逃げてしまったが、すぐにまた別の鳥が舞い降りては可愛らしいくちばしで餌を探していた。


館に近づけば近づくほど、エミリアはその魅力に惹かれていった。外壁を伝うようにして蔦が覆っていたが、それですらその館を飾る一つの風景のようにも思えた。


「中には入れないの?」


エミリアがそう聞くと、ミセス・タリスは残念そうに首を振った。


「申し訳ございません。館の鍵は旦那様がお持ちで、掃除以外の理由で出入りすることはできません」

「そうなの…」


何か隠しているような気もしたがそれ以上を聞くことは憚れた。使用人には主人の秘密を広めたがる者と、なんとしてでも守ろうとするものがいる。経験から言って、ミセス・タリスは後者だ。

エミリアも決して噂好きというわけでもなかったし、他人の秘密を一々暴こうなどとは思わない。エミリアはそれっきり口を噤んだ。

それにしてもやはり素敵な館だ。館の中を見られないのは残念だが、せめて窓から少しでも中を覗けはしないかと近づいたその時だった。

近くの茂みがガサガサと揺れたかと思うと、金色の髪をした子供がちょこんと顔を出したのだ。


「まあ!ダニエル様!」


ミセス・タリスの悲鳴のような声で、この子がマグナスの息子だということが分かった。

金色の巻き毛に、グレーに近い薄い青の瞳。ふっくらとした子供らしい頬は走っていたのか紅色に染まっていた。だが、ダニエルと目があった瞬間、エミリアは言葉を失わずには居られなかった。

まるで本物のガラス玉のように、その目には何の感情も映ってはいなかったからだ。こんな目をする子供をエミリアは初めて見た。そして同時にとても悲しくなった。

レティシアのようにきらきらした輝きも、始めて会うエミリアに対する興味も、戸惑いも。目の前にいるから見ているだけ、彼女はそんな印象を受けた。


「今はお部屋にいる時間でございましょう。旦那様に見つかったら叱られますよ」


ミセス・タリスの言葉にダニエルは俯いたままで何も言わなかった。ただ、彼が洋服の裾をぎゅと握りしめたことで何かを耐えている事だけは分かった。


「ダニエル様、こちらは新しくレディ・グランヴェルになられたエミリア様でございます。ダニエル様の新しいお母様になられました」


ミセス・タリスがエミリアを紹介し、ダニエルに挨拶をと言うと、ダニエルは礼儀正しく膝を折ってエミリアに挨拶をした。

子供とは思えない完璧な挨拶の仕方に、エミリアは胸が痛くなった。咄嗟に抱きしめようと手を伸ばしたが、ダニエルが身を固くしたので慌てて手を引いた。

突然知らない大人から手を伸ばされれば、誰だって怯える筈だ。そう思い、エミリアはダニエルと目線を合わせるように屈んだ。ドレスの裾が汚れてしまうとミセス・タリスは慌てたがエミリアは気にしなかった。

ダニエルの瞳を覗きこむと、父親よりも色素の薄い目にしっかりとエミリアが映った。


「ダニエ――」


エミリアがダニエルの名を呼ぼうとした時、茂みから何かが飛び出してきた。どうやら子犬のコリーで、元気に吠えては一心不乱に小さな尻尾を振り、嬉しそうにダニエルの周りをぐるぐると回っている。

人見知りはしない犬で、見知らぬエミリアにも近寄ってドレスに黒い足跡を残した。


「ダニエル様……」


ダニエルの肩が僅かに跳ねる。しっかりと子犬を腕に抱き、不安そうな目でミセス・タリスを見た。

ミセス・タリスは眉尻を下げてダニエルの腕の中から抜けだそうともがいている子犬の頭を撫でた。


「子犬は牧師様にお譲りすると約束したではありませんか」


ダニエルは子犬を抱えたまま首を振った。「嫌だ」小さいが、しっかりとした声でそう言う。


「ここで飼ってはいけないの?」


事の成り行きを見守っていたエミリアだったが、しっかりと子犬を抱いているダニエルを可哀想に思いミセス・タリスに問う。


「元々は屋敷で飼っていたものだったのですが、旦那様のお召しものを汚してしまって」

「まあ」

「旦那様は撃ち殺してしまえと仰ったのですが、あまりにも不憫だったので、こっそり牧師様に預かってもらおうと思っていたのです」


何も知らない子犬だけが、ダニエルの腕の中でくうんと鳴き、尻尾を振っていた。

仕える家の為にならない動物は時として殺されてしまうことをエミリアは知ってはいたが、実際にそういう場面に出くわしたことはなかった。子供はそうやって分別を覚え、逞しく育っていくのだとメリッサは言っていたがどうしてもその考えに賛同は出来なかった。

ダニエルはとても子犬を可愛がっているように見えるし、そもそも何も知らない子犬には何の罪も無いのだ。ただほんの少し服が汚れたぐらいで殺してしまえだなんて、あんまりだ。

エミリアは子犬の頭を撫でた。子犬は嬉しそうにエミリアの掌を舐める。


「この子犬、私が貰っても構わないかしら」


弾かれたようにダニエルとミセス・タリスがエミリアを見た。







*






恐ろしく長いテーブルの上に次々と豪華な食事が並べられていく。ナイフやフォークは顔が映るほどぴかぴかに磨かれ、食器一つをとっても素晴らしいものであった。

黙々と昼食の給仕をする使用人たちに、一々「ありがとう」と言うのに疲れたエミリアは大人しく食事をすることに専念した。どうやら使用人に感謝の言葉は不要らしい。エミリアが笑顔でそう告げる度に驚いたような奇妙な顔をされて初めて気づいた。

チェーザースハウスでは当たり前だったことが、ここでは逆に不躾になるらしい。斜め前に座ったマグナスの視線を受けて、エミリアは恥ずかしくて死んでしまいそうだった。


「屋敷の中は全て見たのか?」


久しぶりにマグナスの声を聞いたような気がして、エミリアの心臓は軽く跳ねた。マグナスの声は低く、耳から心臓まで響く。


「ええ。とても広くて迷ってしまいそうです」

「そうならないようにこれから毎日、屋敷をあるく練習をした方がいいな」


マグナスの冗談にもエミリアはちゃんと笑えた気がしなかった。向かい側にはダニエルが座っている。彼もまた一言も喋らず食事を続けていた。

父息子の対面は驚くほど呆気なかった。マグナスは冷めた目でダニエルを一瞥しただけで、他には何も言わなかった。

エミリアとダニエルが一緒に食堂に入ったことにさえも興味を示さず、無言で席に着いた後はネルソンに二言三言伝言を告げただけであった。

こんな冷たい親子の再会があっていいわけがない。エミリアは心の中で憤慨した。しかし、ここで余計なことを口走ってマグナスの機嫌を損ねてしまう訳にはいかない。彼女には大事な使命があるのだから。


エミリアは静かに食器を置くと、マグナスの方をちらりと見た。別段機嫌がよさそうにも見えないが、おそらくこれが彼のいつも通りの顔なのだろう。


「あの…はく、いえ、マグナス」


おずおずと切り出した言葉はひどく不格好に聞こえた。声も掠れて、小さかった為マグナスには聞こえなかったかもしれない。


「なにかな?奥様」


奥様、という響きにエミリアの背中がぞくりとした。マグナスの瞳は何故か嬉しそうに輝いている。


「お願いがあるのですが」

「お願い?何か欲しいものがあるのか」

「ええ」


言い辛そうに切り出したエミリアを見て、マグナスの眉は僅かに上がった。

欲しいもの!苦々しげに心の中で繰り返す。結局エミリアもマグナスの知る婦人たちと何一つ変わらない。結婚した途端何かを強請る。

だがダニエルの母となってくれるのなら、それくらいの代償は必要だとも思っていた。現にエミリアとダニエルが一緒に食堂に現れた時には表情には出さなかったものの、とても驚いたのだ。


マグナスは出来るだけ優しい顔を作ってエミリアを見た。彼女の目は左右に忙しなく泳ぎ、とても緊張しているようだ。


「新しいドレスか?それとも宝石?何でも言いなさい」

「何でもいいのですか?」

「ああ」


エミリアの顔が一気に嬉しそうに綻ぶ。「本当ですね?」とマグナスに念を押すことも忘れなかった。

まさかとんでもなく高価なものを要求してくるのではあるまいな、とマグナスが訝しんだのも束の間でエミリアは弾んだ声でこう言った。


「犬が欲しいんです」


これには流石のマグナスも絶句せずには居られなかった。


「犬?」

「ええ。もう名前も決めてあるんです」

「エミリア、一体――」


状況についていけないまま、マグナスの声は元気な鳴き声によって掻き消された。

焦ったような表情の使用人に追いかけられ入ってきたのは、うっすらと見覚えのあるコリーだった。そう、マグナスの新品のズボンを汚した忌々しい子犬だ。


「これはダニエルの犬だった。処分するように言ってあった筈だが」

「ええ。ですから、私がもらいました」


マグナスの厳しい声にもエミリアは動じない。それどころか駆け寄ってきた子犬を抱き上げると飄々とマグナスに楯突いた。


「ですが私、犬を飼うのが初めてなので…ダニエルに色々任せたいと思ってるんです」

「何ということだ!私は許さないぞ」

「伯爵様」


マグナスは怒りに任せて声を荒げた。近くに座っていたダニエルは怯えたように体を強張らせたが、構っている余裕はない。

エミリアはしっかりとマグナスを見ていた。先ほどまでのどこかおどおどした様子はなく、凛と背筋を伸ばしてマグナスの怒りを正面から受け止めていた。


「先ほど伯爵様は仰いました。何でも欲しいものを言っていいと。約束を違えるのですか?」


今度はマグナスが言葉を失う番だった。そして軽々しく何でも言えと言った数分前の己を全力で殴ってやりたい気持ちになった。

ふと隣を見るといつも俯いてまともに父親を見ようともしない息子が、心配そうに自分を見ていることに気付いた。その目には期待と怯えが見え隠れしている。

その目には見覚えがあった――幼いころの自分だ。マグナスはたった一度だけ父親にこういう目を向けたことがあった。そのときもやはり、愛犬を撃ち殺されそうになり幼い彼は必死に父親に乞うた。――どうか、殺さないでほしいと。

その願いは遂に聞き届けられなかったが。

胸に苦いものが込み上げてきたマグナスはさっとダニエルから視線を逸らした。


「好きにするがいい。ただし――」

「ええ、しっかり躾けることをお約束いたします」


エミリアのこれ以上ないほどの笑顔に、マグナスは心の中で再び毒づいた。

こんなことなら、新しい屋敷を強請られた方がよっぽどましだった。

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