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灼熱の氷  作者:
11/27

09

「あれが私の屋敷だ」


マグナスの言葉と共に今まで白樺の並木道が急に途切れ、屋敷が姿を現した。一年前も同じことを思ったが、やはり大きな屋敷だった。

屋敷の前には道を挟んで湖があり、悠々とそびえるグランヴェル邸が湖面に映り風とともに揺れていた。

数えきれないほどの窓、庭師の手入れが行きとどいた庭、一年前はじっくりと見る余裕もなかったのだが改めてラザフォード伯爵の財力には驚かずには居られなかった。


――あの宿の一件から、マグナスの口数は極端に減っていた。元々多弁な方ではないが、無表情に押し黙っている伯爵と馬車で旅を続けるのはとても気まずかった。

勢いに任せて夫婦の契りを拒否してしまったエミリアは一通り泣き終わった後ひどく後悔した。本来ならあってはならないことだ。

一夜明けて朝食を共にした時にはいつ離婚を言い渡されるか冷や冷やしていたが、驚いたことにマグナスは夜のことについては何も触れなかった。

伯爵はそれ程気にしていないのだろうかと思ったエミリアだったが、すぐにそれは間違いだと気付く。前よりもずっと、紳士的ではあったが余所余所しい態度を取り続け、2人きりになると必ず無口になってしまうのだ。

食事の時も自分の分を食べ終えるとすぐにマグナスは宛てられた部屋へと戻っていく。エミリアもそんなマグナスに話しかける勇気は持てず、結果としてひたすら窓の外を見ている旅になってしまった。

本当なら聞きたいことはたくさんあったのに。エミリアは泣きたくなるのを必死に堪えるように下唇を強く噛んだ。

貴族の暮らしについては、知識としてある程度しか持っていない。果たしてエミリアは社交界に出なくてはいけないのか、それとも邸でずっとダニエルと過ごしていればいいのか分からない。

エミリアとしては後者の方がありがたかったが。



「素敵なお屋敷ですね」


マグナスは頷き、「お褒めに与り光栄だ。マダム」と答えた。しかし、やはりその顔は無表情のままであった。

もう一度屋敷に視線を向けたエミリアはマグナスに気付かれないように小さく溜め息を吐いた。

実際のところ、確かにグランヴェル邸は立派だったがエミリアの理想とする"家"ではなかった。そこにあるのは冷たい石造りの箱としてそこに在るだけのようにも思えた。

例えばエミリアの実家のように、外へ出ていても必ず帰ってきたいとは思えない。ただ漠然とした寂しさが、屋敷から温もりを失くしていた。

馬車が屋敷の前で止まると、まるで見計らっていたかのように屋敷から何人もの使用人たちが出てきた。一列に並んだ彼らは主人と奥方が馬車から出るまで人形のように動かないのには驚いた。


「彼の名前はネルソン。この邸の執事だ」


マグナスに紹介された男は礼儀正しくお辞儀をした。その後ろの家政婦たちも同じように彼に続く。


「お待ちしておりました、奥様。長旅でお疲れでございましょう。こちらにお茶をご用意しております」


――奥様(・・)。ネルソンの言葉にエミリアはおもわず身を固くした。

まだ伯爵夫人と呼ばれるようなことは何一つしていない。エミリアには教養こそあれど、伯爵家をバックアップするような家名もマグナスを受け入れる準備も出来ていないのに。

エミリアは目の前にそびえ立つグランヴェル邸を見上げた。今日から我が家になる屋敷を。

そう、足を竦ませている場合ではない。今日からエミリアが女主人としてこの家の采配を取らなくてはいけないのだから。


マグナスは厩に用があると言ったので、エミリアは先に屋敷の中に入ることとなった。

ネルソンの後に続き、屋敷に入ったエミリアはその広さと豪華さに息を飲まずには居られなかった。

玄関から真っ直ぐ続く階段への廊下は歩く度にコツコツと音が鳴り、2人分の足音を天井へと響かせる。その天井には大きな絵が描かれており、いつか本で見た有名な画家の天使と神の絵にそっくりであった。

廊下の端にはずらりと彫刻や陶器が並び、細長い窓から零れる光が優しくそれらを照らしていた。

エミリアは少々気後れしながら、それらを見ていた。彼女の目に入る物全てが近寄りがたかった。


「こちらでございます」


ネルソンに案内されたのは深紅の壁紙が印象的な部屋だった。金縁の額の大きな絵が飾られており、その下の暖炉からは赤々とした炎が燃えていた。

部屋は適度に温かく、エミリアは来ていた上着を脱いでネルソンに渡した。ぐるりと部屋を見渡すと、こまごまと色々なものが飾られていることが分かった。

あの大きな絵の近くには2、3枚小さな絵があったし、大理石の暖炉の上には真鍮製の時計が正確な時を刻んでいた。

壁と同じ色のソファの背もたれはビロードの生地を使っており、室内をより一層洗練されたものにしている。濃い茶色のテーブルも、照明に照らされて鈍い光を放っていた。

周りを見渡せば見渡すほど、自分が全く別の世界に来てしまっているようにしか思えなかった。エミリアは出された紅茶にもろくに手をつけることが出来なかった。


暫くしてネルソンが一人の女性を連れて部屋へ入ってきた。メイド頭だったアンナよりも幾分年上のように見える彼女は、にこにこと愛想よく笑いながらエミリアに深く礼をした。


「こちらで長年勤めております、ミセス・タリスでございます」ネルソンが代わりに女性の紹介をした。


「はじめまして、奥様。旦那様より屋敷をご案内するように仰せつかっております」


柔らかい声だった。ミセス・タリスの言葉を聞いてエミリアはグランヴェル邸に来て初めて、肩の力を抜くことが出来た。

伯爵家の人間は使用人に至るまで何もかもが完璧すぎる。チェザース・ハウスにいた時のような陽気な気配はなく、皆一様に口を結んで仕事に勤しんでいた。

それが一流の使用人なのだと言われればそれまでだが、その重苦しい空気には慣れそうにはない。エミリアが元家庭教師だということは、使用人みんなが知っているだろう。皆が皆、エミリアがラザフォード伯爵夫人になったことを喜んでくれているとは限らない。

だがミセス・タリスの微笑みは母親のような温かさを持っていて、そんなエミリアの不安を吹き飛ばしてくれるようだった。

エミリアもおもわず彼女に微笑み返した。


「ありがとう、ミセス・タリス」

「まあ、こんな素敵な奥様にお仕え出来て私も嬉しゅうございます」


満面の笑みでそう言ったミセス・タリスを見て、この女性なら屋敷での不安を和らげてくれるだろうとエミリアは確信した。彼女ならきっと、エミリアの力になってくれる。

会ったばかりの家政婦だが、エミリアは既に心からの信頼を寄せていた。



「こちらが西の間でございまして、中国趣味(シノワズリ)調の部屋になっております。メリッサ様がお作りになったものですが、客室として使用することも稀でございます」


初めに案内された部屋はとても奇妙な感じがした。テーブルや椅子など基本的な家具は英国式なのだが、そこに描かれているのは全くの別世界であった。

そでの長い服に、後ろだけを残した髪、油絵とはまた違った画法は確かにメリッサが集めていた茶器で見たことがある。落ち着いた色が多いこの邸では珍しい色の組み合わせに、エミリアはくすくすと笑った。


「あちらが彫刻の間、その反対側は絵画の間でございます。奥は黄色の間、茶色の間と続きます。茶色の間には歴代の伯爵家の肖像画が飾ってあります」

「随分沢山あって…全ての部屋を覚えるのには何年もかかりそうだわ」


エミリアの言葉にミセス・タリスは大きく頷いて同調した。

彫刻の間、絵画の間は細長く広い部屋が希少価値の高い芸術品で埋まっていた。歴代の伯爵が時間をかけて集めたものなのだろう、その美しさにはエミリアも暫く言葉を失った。

伯爵家には趣味を超えた芸術品が数多くある。どれもこれも保存状態は極めて良く、作られた当時のような美しさを保っていた。

――マグナスは芸術に精通している方なのかしら。どちらかと言ったら乗馬などの方が得意そうだが。しかし、貴族の嗜みとしてある程度は学んでいるのだろうと、エミリアは納得した。

黄色の間は、その名の通り視界が黄色で染まってしまうような部屋だった。壁から椅子の背もたれにいたるまで黄色で、天井は辛うじて薄い緑と白が使われていた。

しかしよく見るとそれぞれに繊細な模様が描かれており、その他の家具は落ち着いた白で統一されていた。

歴代の伯爵家の肖像画が並ぶという茶色の間は、残念ながら好きになれそうにはなかった。金の額に縁取られた肖像画は皆一様にじっとこちらを見ており、その威圧感といったら、もう息が詰まってしまいそうだった。

その為、エミリアはさっと目を走らせた程度ですぐに部屋を後にしてしまったのだった。


ミセス・タリスに連れられて緩くカーブした階段を上ると、ずらりといくつもの部屋が連なっていた。マグナスの部屋と、書斎の場所を軽く説明したミセス・タリスは、ある部屋の前で止まるとエミリアにドアを開けるように言った。

訝しげに思いながらもドアを開けたエミリアは、目に飛び込んできた光景におもわず息を飲んだ。

その部屋は白と薄いグリーンで統一された落ち着いた部屋だった。今まで見てきた部屋は豪華だったが温かみが感じられなかったのだが、この部屋だけは違っていた。

大きな窓にかかるレースのカーテン、壁に掛けられた金縁の鏡、清潔そうなベッド。エミリアは一目でこの部屋が好きになった。


「お気に召しましたか?」


まるで悪戯が成功した子供のような目をしてミセス・タリスはエミリアに聞いた。


「とても素敵なお部屋だわ」

「奥様のお部屋でございますよ。レディ・グランヴェル」

「私の?」

「ええ。奥様の為に旦那様が部屋を改装なさいました」


エミリアは更に驚いた。

マグナスの部屋のすぐ近くのこの部屋は、歴代のレディ・グランヴェルが使用した部屋に間違いないのだろう。マグナスの母、そして亡くなった前妻の部屋でもあった筈だ。

その2人の思い出が詰まっている部屋をエミリアの為に改装してしまったのだろうか。なんとなく申し訳なさで胸がいっぱいになる。

エミリアはもう一度部屋を見渡した。明るい部屋、趣味のいい家具はエミリアの好みにぴったりだ。


「素敵な部屋だわ…本当に」


後でマグナスにお礼を言おう。そして、一昨日の無礼について謝ろう。エミリアはそう心に決めた。






*




まだ自室を見た興奮は冷めなかったが、まだまだ知らなくてはいけないことは沢山ある。名残惜しげに部屋を後にしたエミリアは、ふと思ったことを口にした。


「あちらのお部屋はどなたの?」


2つ向かい側の部屋を指すと、ミセス・タリスは「ダニエル様のお部屋でございます」と答えた。


「ではその隣は?」


一瞬、ミセス・タリスは言葉に詰まった。


「あれは――」

「君には関係のない部屋だ」


ミセス・タリスの言葉を覆うように冷たい声が響いた。そこには丁度階段を上ってきたばかりのマグナスがいた。

彼は既に着替えたのか、さっきとは違う恰好をしていた。


「それより自分の部屋は気に入ったか?」

「え、ええ…本当に素晴らしいお部屋でした。ありがとうございます」

「よろしい。図書館に行く前に庭を案内してもらいなさい。きっと君も気にいるだろう」


それだけ言うとマグナスはさっさと書斎へと入っていった。

暫く呆然としていたミセス・タリスとエミリアだったが、ドアが閉まる音で現実へと引き戻された。慌てて庭を案内しようとするミセス・タリスの後に続いて、肝心なことをエミリアは失念していた。


あの部屋が一体誰のものなのか、そしてどうして伯爵はエミリアにそれを隠そうとするのか。

だが伯爵家の庭の素晴らしさに目を奪われていたエミリアにはそんなことを考えている余裕はなかった。きっと何か良くない思い出でもあるのだろうと、軽く考えていた。

その部屋の秘密と、マグナスがその胸に抱えている秘密が繋がっていることを知らずに――

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