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灼熱の氷  作者:
10/27

08

R15程度の描写がございます。


本格的に雨が降り始めてしまったので、伯爵一行は街に入るとすぐに宿を探した。街は日が暮れたのにも拘わらず旅人や仕事を終えた職人たちで溢れかえっていた為、宿が取れるか不安はあったが幸いなことに今夜の寝床はすぐに見つかった。

慌てて宿から飛び出してきた主人に一番上等な部屋を2つ用意するようにと言ったマグナスは、エミリアが雨に濡れないように外套で体を覆ってくれていた。お陰でエミリアは髪が少し湿ったぐらいで済んだのだった。

宿は決して新しくはなかったが清潔に保たれており、入ってすぐのところにある暖炉のほのかなあたたかさが冷えて切っていた体にはありがたかった。

マグナスがどう思っているかは知らないが、少なくともエミリアは黒ずんだ太い柱や黄ばんだレースのカーテンについてはまったく気にならなかったし、2階へと続く階段が歩く度に不気味な音を立てて軋むのはとてもわくわくした。


「こんな田舎に伯爵様のような立派な方がお見えになるなんて、ほんとにまあ、思ってもみませんでした」


宿屋のおかみさんはそう言って豪快に笑った。赤毛にそばかすの散った顔はエミリアの女学校時代の友人を思い出させる。彼女もまた、こんな笑い方をする子だった。

テーブルの上には簡素ながらきちんとしたディナーが並んでおり、グラスにはワインが注がれていた。よく煮込まれた子羊のシチューのいい香りが、素直に空腹を促す。


「大したおもてなしは出来ませんけれど、ごゆっくりどうぞ。あ、伯爵様、もっとワインをお持ちいたしましょうか?」


おかみさんの問いにマグナスは軽く右手を振っただけであった。呼ぶまで下がれ、という意味だ。

伯爵の態度にエミリアは眉をひそめたが、おかみさんはちっとも気にしていない様子でもう一度「ごゆっくり」と言って部屋から出て行った。

途端に室内は静まり返る。時折風に煽られた雨が窓を叩く音だけが、その静寂を破っていた。

おかみさんがいなくなったことでエミリアは急に落ち着かなくなってきた。室内は蝋燭の灯りだけが唯一の頼りだが、その炎に照らされたマグナスの顔すらまともに見ることが出来ない。

伯爵はもくもくと食事を続けているし、自分から何か話しかけるのも無作法な気もしてきた。仕方なく口を噤んでいることに決め、エミリアはそっとスープを口に運んだ。


雨足は更に強まっていく。一人ではないとは言え、こうして音のない部屋にいると子供の頃のように怖くなってくる。

いつの間にかスプーンを持つ手が止まり、エミリアはじっと窓の外を見た。闇夜に混じってぼんやりと他の宿の灯りがちらついていた。


「もう食事はいいのか?」


不意に声を掛けられて、おもわず持っていたナイフと食器がぶつかってしまった。それほど大きな音ではなかったものの、エミリアは慌ててナイフとフォークを降ろした。

さっきまであんなにお腹が空いていたと言うのに、これ以上は食べる気がしなくなっていた。

エミリアは曖昧に頷きながら目の前のグラスを取った。初めて飲んだワインは一瞬だけ体に熱を持たせ、ゆっくりと喉を下っていった。


「美味しい」

「ワインを飲むのは初めてか?」

「ええ、実は」


もう一度グラスに口をつけると、さきほどよりも口当たりがなめらかなような気がした。

マグナスはじっとエミリアを観察していた。それなりの食事で腹を満たし、赤ワインで喉を潤し、旅のスタートにしては過酷な一日が終わろうとしている。

馬で長旅をする自分とは違って、殆ど家から出なかったエミリアには堪えただろう。明日はもう少しゆっくりと道中を行こうとマグナスは心に決めた。

初めて飲むと言うワインを口にしたエミリアの頬はうっすらと紅色に染まっていた。少女の清らかさを残しつつ、今にも花開きそうな蕾を思い出しマグナスはぐっと奥歯を噛んだ。

室内の薄明りに浮かぶような白い肌、雨に濡れて髪が張り付いた項、不安げに窓の外を見る瞳、それら全てがとても――とても忌々しかった。女性に対しては人並み以上の経験と理性を持っていると自負している自分が、10も年下の少女に僅かでも欲望を感じていることが腹立たしかった。

焦ることはない。マグナスもワインに口をつけながら心の中で呟いた。

マグナスはこの胸の奥を焦がすような欲求が一時的なものだと思っていた。結婚を完全なものにしようと焦る心が急かしているだけで、一度ベッドを共にしてしまえばたちまち情欲の炎は消えるはずだ。

焦ることはないのだ。経験のない彼女には夫として優しく導いてやらなくてはならない。せめて初夜ぐらいは。


「エミリア」


まだ半分も残ったワインをそれ以上飲む気にもなれず、マグナスはグラスをそっと置いた。

中央で赤々と燃える蝋燭の炎は、マグナスの吐息で僅かに揺れる。


「今日は疲れただろう。先に化粧室を使って着替えてきなさい」


初めてとも言えるマグナスからの労いの言葉に、エミリアの胸はかっと熱くなった。出会ってから今まで、こんなに穏やかな声で話すマグナスは見たことがなかったからだ。

しかし…先にとは一体どういうことだろうか?マグナスも後からこの部屋の化粧室を使って着替えるのだろうか。確か部屋は2つ用意してあり、伯爵の部屋はとなりの筈だ。

だがなんとなく、確かめるのも変な気がしてエミリアは静かに立ち上がった。きっと言葉のあやだろう。


恥ずかしげに頷いて化粧室へと消えていく妻を見送って、マグナスはとても満足していた。自分の目は正しかったのだと今更ながらに思わずにはいられなかった。

マグナスの知る限り、エミリアのように初々しい反応を示した女性は初めてであった。尤も、彼が相手にする女性は大抵人妻か未亡人だったのだが。

貴族社会に生きていれば自然と性についての知識は豊富になる。ご婦人がたは男たちのいないところで堂々とそういう話をすることがあるし、中には幼い子供がいても平気で家に愛人を連れ込む親もいるだろう。

マグナスの両親もそういう人種だった。マグナスは何度両親の若い浮気相手を目にしたか分からない。

そんな中で暮していれば、演技ではない初心な反応を見ることは稀だ。彼女は演技の才能がないと知っているから、あれは間違いなく自然な反応だと確信できた。

エミリアがこの先もその初心さを失わなければいい。浮気などされては後々面倒なことになりかねない。

そうやって破滅の道を歩んで行った貴族を、マグナスは何人も知っている。何度も目にしてきた。彼らと同じ道を歩む気は更々なかった。


「伯爵様?」


化粧室のドアが開いて、エミリアが出てきた。シンプルな白いナイトドレスはよく見るとレースの刺繍が施されており、胸元のリボンを引いた時のことを想像し、マグナスは口の中が渇いた。

このまま着替えるのもなんだかもどかしく感じてくる。いいや、それはあまりにも不作法ではないのか。

マグナスは戸惑ったように自分を見上げる妻を見た。髪を結っていない彼女は薄暗い明りも手伝って、いっそう華奢で儚げに見えた。

彼女はこれから起こることを何一つ知らないのだと思うと、このままベッドに誘うのはあまりに酷な気がした。だが、彼女はもう私の妻だ。妻は夫の所有物となる。

マグナスに見つめられていることに気付いたエミリアは所在なさげに身じろぎした。グレーの瞳に服の中まで見透かされているような気がして、とても恥ずかしくなったのだ。

視線を逸らしても彼が自分をじっくりと観察していることは痛いほどに分かった。


「エミリア」


伯爵の声はひどく掠れていたが、低音は少し離れたエミリアのところにも届いた。彼が自分を呼んでいるのだと気付いたエミリアは、ゆっくりと伯爵の元へ足を進める。

化粧室を出てマグナスがさっきと寸分も変わらず同じ位置にいることにも驚いたが、すぐ傍まで来たエミリアの腰をおもむろに引き寄せたときには小さく悲鳴を上げてしまった。


「は、伯爵様!?」

「マグナスだ」


椅子に座ったままだと言うのに、マグナスの視線は立ったままのエミリアとそう変わらない。グレーの瞳は冷たい印象しか受けなかったが、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が映り、まるで氷の中で燃える炎のようだった。

マグナスの手がエミリアの髪の中に入り、指先が耳の形をなぞる。冷えた指にエミリアの肩が軽く跳ねた。


「嫌か?」


そう聞かれた時にはマグナスの指は唇に触れていた。吐息が肌に触れるほど近い位置にいることに気付くと、エミリアは固く目を閉じる。

マグナスは答えを待たなかった。次の瞬間にはゆっくりと唇が重なり、先ほど飲んだまろやかなワインの味がエミリアから考えることを奪っていった。

誓いの口付けとは全く違う。これが夫婦のキスなんだろうか。僅かに唇が離れた時、ぼんやりとする思考の片隅でそんなことを思った。軽く額にキスをされ、エミリアは恥ずかしさに顔を赤らめた。

マグナスはそんな妻を軽々と抱き上げるとベッドへと運んで行った。安物の狭いそれは2人分の体重で軋む音がした。

真っ白なシーツの上に金の髪が散らばり、ナイトドレスはエミリアの呼吸に合わせて胸元のリボンが上下した。先ほどの口付けで彼女の息は乱れていて、それがどうしようもなくマグナスの理性を掻き乱した。

もう一度濡れた唇にキスをし、胸元のリボンを解こうとマグナスは手を伸ばした。


「マ、マグナス?」


繰り返されるキスに軽い眩暈を覚えていたエミリアはリボンを解こうとするマグナスを見て、漸く事態が掴めてきた。信じたくないが彼は私の服を脱がそうとしている。

エミリアの上ずった声にもマグナスは止まらなかった。勢いよくリボンを解き、白い首筋に噛みつくようにキスをした。


「やっ…止めてください!」


初めての感覚にエミリアは恐怖を感じていた。気付いた時には押しつぶされそうなほど近くにあったマグナスの逞しい胸板を両手で押し返していた。


「なんだ」


不機嫌そうに問うマグナスはそれでもまだ、エミリアから体を離そうとはしなかった。彼は自分の下敷きになっている小柄な妻が、今どんな気持ちでいるかも分かっていない。どうして止めたんだと言わんばかりだ。


「私たちは夫婦になった。君が私を拒む理由などないはずだ」


マグナスの言葉は至極当然のことだった。しかし、不安に駆られていたエミリアにはとても冷静に受け止められるようなものではなかった。

知識としては乏しいものの、メリッサとアネットが言っていたことがこのことなのだということは分かった。

――怖がらずに全てを旦那様に任せればいいですって?何をどう任せろというのだろう。マグナスの瞳には初めての妻を労わる様子も、優しさの欠片もないというのに。

それもそうだろう。マグナスは、ラザフォード伯爵は私と結婚しても愛や恋を求めるつもりはないと言った。そんな人にどうして全てを任せることができよう。

ただ人形のようにじっとして、その時が過ぎるのを待つことはエミリアには出来そうにもなかった。


「嫌です」


小さく、しかしはっきりとエミリアは拒絶の言葉を口にした。


「嫌だと?なぜだ」

「それは…」

「はっ、いいか、マダム。私たちは結婚した。これは夫婦として当たり前のことだというのはお分かりいただけないだろうか」


マグナスの声には嘲りが含まれていた。彼はまさか自分の妻に行為を拒否されるとは思っていなかったのだろう。

怒りなのか、悲しみなのか果たしてその両方なのか、エミリアの目には次々と涙が溢れていた。愛のない結婚なのは分かっているが、愛のない行為はしたくなかった。

マグナスは暫く泣き続けるエミリアを呆然と見ていた。半分肌蹴た胸元は隠そうとはせず、エミリアは両手で顔を覆っていた。まるで全身で彼を拒否しているかのように。

漸く冷静になった頭で、改めて自分がしたことを目の当たりにしたマグナスはひどく後悔した。だが同時になぜ拒否されなくてはいけないのかという怒りも覚え、そんな自身を激しく罵った。

泣き続ける妻の髪を一撫でし、マグナスはベッドから離れた。そうしないともう一度彼女を組み敷いてしまいそうだった。今度は理性が本能を押し留めるかどうかも分からない。

例えこのまま彼女を自分のものにしてしまっても咎める者は誰もいないだろう。寧ろ夫を拒んだ妻の方が奇妙な目で見られる。

だが――なぜだかは、マグナスにも分からなかったが――それはしたくなかった。半ば無理矢理な結婚ではあったが、彼女の気持ちを無視してまで体を手に入れたいとは思わなかった。


マグナスは椅子に掛けてあった自分の上着を取ると、なにも言わずに静かに部屋から出て行った。

後にはエミリアのすすり泣く声だけが頼りなさげに響くだけであった。

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