1. 先生ではなく
「剣聖様、私を弟子にしてください!」
向かいの女が椅子を引いた。断られるのかと思う。花束の包み紙が、掌で鳴る。だが、赤茶の髪を巻いた布が卓より低くなる。花を差し出す先が、下へ逃げていく。
膝をついたのだ。小柄でがっしりした体を、床へ迷いなく下ろしている。膝には布が当ててある。床を拭く者の膝だ。紙を持つ手には包丁の擦れがある。守るのは、店だな。そこまでは分かる。花束を持つ俺の手だけが、宙に残った。
差し出された入門願いには、〈弟子にしてください マルゴット〉。花束を置くはずの場所を、紙が塞いでいる。薄い紙なのに、花では押しのけられない。
初夏の昼すぎ。ここは王都の縁の館の広間で、集団見合いの席だ。長卓に男が座り、女十人が砂時計を目安に席を回る。奥の帳場から見える板には、館の主が掛けた札。〈本日、剣聖の回〉。見合いとは書いていない。
俺はバルドゥル。四十二、独身。辺境を巡って十二年、ようやく王都へ戻った。今日は腰の剣の代わりに、花束を手に持っている。辺境の野営で向かいに座っていたのは、火だけだ。俺は花を下げ、卓の向こうを覗き込む。
「……立ってください。花を渡すには、そこは少し低いんだ」
女は紙を押し出す。花束には手を伸ばさない。膝を当てる布が、床で擦れた。
「あたし、マルゴットです。下町で飯屋をやってます。膝なら平気ですから、先にこれを読んでください。花は、そのあとで頂きます。順番を間違えたくないんです」
隣の席にも、その隣にも紙がある。端まで十枚。そこへ給仕の少年が盆を置いた。俺の前に、自分で書いた紙を足す。
「僕も、です。父が雇われの兵で、帰ってこなくて。母に、強くなったと言いたいんです。母は、僕にはまだ無理だって……」
少年が言い終えるまで、紙を持って聞く。それから返した。少年は紙を盆の端へ載せたまま、壁ぎわへ下がる。花束の持ち手が、掌の同じ所へ食い込む。剣の柄なら、こんな所に跡は付かない。
窓硝子に、白のまじった黒い髪と濃い茶色の目が映る。短く刈った髪の後ろが立っている。角張った顎を引くと、左の眉を割る古い傷が動く。
花束に合わない大きな手だ。曲がった左の小指に、包み紙が引っ掛かる。渡すつもりの物を、握り込んでいる。
帳場からゴドヴィンが出てきた。薄い金髪を後ろへ撫でつけ、揉み手をしている。腹が卓の端へ寄り、指輪が四つ光る。
「剣聖様。妻は一人しか娶れませんが、弟子は何人でも売れます」
福々しい頬が緩む。水色の目は、帳場の席料へ向いた。ゴドヴィンは手を揉む速さを変えない。
「一席、銀貨五枚ですな。入門券としてお売りしました。十席とも埋まるとは、さすがでございましょう。お名前があってこそ、人が集まるのです。空いた席で縁を待つより、まず満席にする。それが私の仕事ですな」
マルゴットが顔を上げる。俺は花束を持ち直した。マルゴットは紙を持ち上げる。
「剣聖様。あたしを、お願いします。店は閉めずに通います。紙に名前を書くだけじゃ、店は守れないんです。まずは何から始めればいいですか?」
「……夫として、か?」
「師匠として! 紙にもそう書いてあるじゃないですか!」
緑の目が俺を睨む。俺は花束を少し上げた。包み紙が、返事の代わりに鳴る。
「花まで持って来たんです。これでも師匠に見えるか?」
「花は嬉しいです! でも、花で店が守れますか?」
「花にそこまで働かせるな」
見合いの席で、俺だけが見合いをしている。ゴドヴィンは揉み手のまま、紙の並ぶ長卓を示した。並ぶ名の上を、その手が通る。
「取り違えてはおりませんとも。皆様、最初から師匠をお求めです。こちらも、そのようにお伝えしております。買われた方が欲しいものを用意する。当然の商いでございましょう?」
俺は口を開く。花束を右から左へ移した。持ち直す間だけは、返事をせずに済む。
「……俺は」
ゴドヴィンの頬が、また緩む。俺の言葉の続きへ、自分の言葉を置いてくる。
「嫁の口では、これほど人は集まりませんのでな。お席が埋まったのは事実です。そこはお認めください。まず来ていただく。それから縁を探す方が、よろしいでしょう?」
マルゴットの太い腕が、紙の端を押さえた。押さえた手は動かない。
「売り買いの話はしてないじゃないか! あたしは、店を自分で守れるように、剣聖様にお願いしに来たんです! 満席になれば、あたしのお願いまで済んだことになるんですか?」
断るつもりで口を開く。紙の端と、床についた膝が見える。言葉だけが、別の構えになった。
「……考えさせてくれ。剣の話なら分かるんだが、こういうのは……。膝だけは楽にしてくれ」
十一人が黙る。紙は俺の前から動かない。花束が、剣より重い。
◇
しばらくして広間の戸が開いた。左肩に栗色の三つ編みを垂らしたリースベトが、速い足どりで長卓へ来る。俺の係の仲人だ。次の相手を回しに、外へ出ていた。椅子の間を、その足どりが真っすぐ通る。
紙を取り上げ、名を読む。蜂蜜色の目が、紙から俺へ上がる。リースベトは紙を手元へ戻した。
「マルゴット様。お席へお戻りください。お名前を呼ばれた方から、お掛けください」
名が読まれるたび、椅子が鳴る。十一枚目は、壁ぎわの盆から取った給仕の少年の紙だ。仲人は名を読み、その一枚だけを少年の手へ戻した。仲人は、少年が持つまで紙の端を離さない。
「これは、ご自分でお書きになった紙ですね。お持ちください」
残る十枚が帳場の机へ戻った。仲人は束の角を揃える。卓を埋めていた紙が、手の下に収まる。
「この紙は館が刷った物です。館へお戻しします。バルドゥル様にお渡しする紙ではありません」
ゴドヴィンが束へ手を伸ばしかけた。紙に届く手前で、広げた手が止まる。
「リースベト、それは売った席だ。お客様も納得して買われたのだぞ! 紙も席も、用意してある!」
「ゴドヴィン様。それは、館の仕事ではありません。席料は皆様にお返しします。私の給金から引いてください」
館の主の揉み手が止まった。机の横の金箱へ、水色の目が向く。
「銀貨五十枚だぞ! 札まで出して、これからの席も売るつもりなのに! 払えば済むという話ではないぞ!」
「承知しています。今日の席は、お返ししましょう」
「……お前の給金で、何回ぶん持つと思っているんだ?」
「今日のぶんは、持ちます」
銀貨が客の手へ戻る。仲人は札も外して机に置いた。俺から花束を受け取る右の中指には、筆だこがある。仲人の構えだけは、どこを守っているのか分からない。花束の包み紙が、受け取る手の中で鳴る。
「バルドゥル様。二階へ。花は私がお預かりします」
◇
小部屋には帳面と筆がある。花束は卓の脇。リースベトが細い眉を上げた。口の端には笑い皺が見える。
「バルドゥル様は、何を探しにいらしたんですか?」
「……飯を、二人で食う相手を」
言った自分に驚く。花束を持っていた手を開いた。掌に残る包み紙の筋が、なかなか消えない。窓から差す初夏の光が、その筋を白く浮かせる。もう握る物がないのに、手が花束の形へ戻ろうとする。
筆が帳面を走る。仲人は俺の言葉を復唱した。筆の先は、紙から離れない。
「飯を、二人で食う相手を。書きました。これでいいですか?」
「二度は言わん。剣を持つより手が落ち着かん。今ので足りるだろう?」
「結構です。一度で、書き取れました」
帳面が閉じる。言葉は紙に残り、俺の手は空いたままだ。花束は卓の脇にある。リースベトは筆を置いた。
「では、下で皆様に。弟子を探しに来たのではないと、ご自分で仰ってください」
階段を下りる。十人は席へ戻り、少年は盆を持って壁ぎわに立つ。ゴドヴィンは帳場の机のそば、仲人は戸口だ。花を持たずに背を起こすと、席に戻った女たちの頭越しに窓が見えた。広い肩の下で、曲がった小指を掌へ収める。
十二年、向かいの人には剣のことを答えてきた。空いた手の置き所は分からない。口なら、ここにある。十一人の顔が、こちらを向いている。花束も紙も挟まず、俺はそこへ声を出す。
「先生ではなく、夫を探している方はいませんか?」




