第64話 思いがけない提案
それは、思ってもみなかった言葉だった。
アメリカへ……?
皿を洗っていた手がぴたりと止まり、ぽかんとしたまま守兄を見つめた。
彼は穏やかに笑い、ゆっくりと話しはじめた。
「最近、思ったんだ。日本から離れるのも、ひとつの方法なんじゃないかって。
前から少しは考えてたけど、本気ではなかった」
一度言葉を切り、少しだけ考え込むように眉を寄せる。
そして再び、真剣な声で続けた。
「星を日本から連れ出すなんて……って、ずっと足踏みしてた。
育った環境って、大切だから。
アメリカでの暮らしは大変だし、文化も違う。知り合いもいない。
でも俺は向こうに慣れてるし、仕事だってどっちでもできる。住む場所は関係ないんだ」
ふっと息を吐き、まっすぐに私を見つめる。
「最近の星を見ていて、思った。
俺とアメリカに行くっていう選択肢も、あるんじゃないかって」
胸がドクンと大きく跳ねた。
思ってもいない言葉の数々に、頭が追いつかない。
「あいつの側にいるのがつらいなら、遠くへ行けばいい。
俺と二人で。ずっと支えるから。
あいつのことだって、いつかきっと忘れさせてみせる」
熱を帯びた視線に射抜かれ、その刹那、私は彼の胸にぎゅっと抱き寄せられた。
「星、愛してる。俺と一緒に、アメリカへ行こう」
まるで、改めてプロポーズされたみたいだった。
かあっと顔が熱くなり、頭の中が真っ白になる。
でも、彼の想いは痛いほど伝わってきた。
熱くて、優しくて……こんなにも大切に想ってくれている。
なんて、幸せ者なんだろう。
じわりと涙がにじみ、心が愛しさと感謝でいっぱいになる。
この人となら、きっと――。
縋るように彼の背中に手を回し、ぎゅっと服を握りしめた。
「……少しだけ、考えさせて」
時間が欲しかった。
「……ああ」
短く、静かな返事が返ってきた。
その夜、私は太陽に相談することにした。
真剣な声で呼びかけると、彼は目を丸くして驚いたものの、素直に私の前へ腰を下ろす。
少し緊張しているように見えるのは、なにかを感じ取っているからだろう。
太陽は、私にとって唯一の家族であり、大切な弟。
だから、隠してはいられない。
守兄から「一緒にアメリカへ行かないか」と誘われたことを、包み隠さず話した。
黙って聞いていた太陽は、話が終わるとふっと優しく笑う。
「そっか……いいよ。お姉ちゃんの好きにして。
今までさんざん苦労してきたんだもん。僕のことは心配しないで。一人でもやっていけるから」
強がるように笑ったその声は、かすかに震えていた。
胸が痛む。きっと不安なのだ。まだ十四歳の子どもなのだから。
「太陽……無理しなくていいんだよ。
私は、あなたを傷つけてまで行こうなんて思わない」
そう伝えると、太陽の目に涙がにじむ。
「僕だって、お姉ちゃんと一緒にいたい。
ひとりぼっちは嫌だ。
父さんも母さんもいない。姉ちゃんまでいなくなったら……でも」
言葉を詰まらせたあと、涙を浮かべた瞳がまっすぐこちらへ向けられる。
「姉ちゃんが苦しんでる姿を見る方が、もっと辛いんだ!」
その叫びとともに、太陽は勢いよく抱きついてきた。
「太陽……」
震える弟をぎゅっと抱き返す。
すすり泣く背中を優しくさすりながら、必死に考え続けた。
――どうしたらいいんだろう。
あきらのそばにいるのは、正直つらい。
守兄が言うように、離れた方がいいのかもしれない。
彼と一緒なら、きっと幸せになれる……。
でも、その一方で気がかりなのは太陽の存在だった。
彼をひとりぼっちにするなんてできない。
私たちは、たった二人だけの家族なのだから。
「ねえ、太陽。
もし、私がアメリカへ行くってなったら……あなたも一緒に来る?」
「えっ?」
太陽が驚いたように目を丸くして、私を見つめる。
口にしてから、自分でもあきれた。
なんて勝手なことを。
まだ中学生の弟に、そんな重い選択を迫るなんて。
私のせいで、彼の人生を振り回してしまうことになる。
「ごめん。今のは忘れて。そんなの、できるわけないのにね」
しゅんと肩を落とす。
やっぱり、ただのわがままだ。
けれど、太陽はすぐに首を振った。
「ううん! 僕も一緒に行く。姉ちゃんと離れたくない」
まっすぐな瞳に、息をのむ。
……ほ、本気なの?
嬉しかった。
私だって太陽と離れたくはない。
けれど、同時に心配も募る。
彼の負担にならないだろうか。
私の都合で、弟の人生を大きく変えてしまうかもしれない。
「で、でも」
「姉ちゃん!」
たじろぐ私に、太陽がすがりつく。
その眼差しには、はっきりとした決意が宿っていた。
「……わ、わかった。とりあえず、守兄に相談してみる」
そう返すと、弟はほっとしたように笑った。
――その夜。
私たちは久しぶりに、同じ布団で眠った。
いったいいつ以来だろう。
小さな頃は、よくこうして肩を並べて眠ったな。
隣で眠る太陽の顔を見つめ、そっと微笑む。
すると、太陽がこちらを向き、優しい笑みを浮かべながらつぶやいた。
「姉ちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
小さな声で交わした言葉に、心がじんわりと温まる。
隣から伝わる体温を感じながら、私は静かにまぶたを閉じた。




