第60話 この人には。
そっと視線を向けると、カウンター越しに守兄の姿が見えた。
今、私は彼の部屋にいる。
高級そうなマンションの最上階。
部屋の中は清潔感にあふれ、イメージ通り物が少ない。
テーブルにソファ、テレビと棚。必要最低限のものだけが整然と並ぶ。
一つだけある扉の向こうはきっと寝室だろう。
一人暮らしには十分すぎる広さ。いや、広すぎるくらいだ。
十何畳もあるリビングに、カウンターキッチンがゆったりと備えつけられていて、すごいなあ、と感心してしまう。
私の生活環境との違いがあまりにも大きすぎる。
と、そのとき。ふわりといい匂いが鼻をくすぐった。
くんくんと鼻をひくつかせていると、不意に笑い声がした。
「なにしてるの? はい」
守兄が透明なガラステーブルの上に、そっとカップを置いた。
「あ、ありがとう」
なんとなく恥ずかしくて、視線を外す。
そのまま、彼が隣に腰を下ろした。
ふわりと漂ういい香り。
この部屋も、そして守兄自身も。
爽やかで、どこか男らしい香りに包まれている。
やばい、緊張してきた。
守兄とふたりきり。
小さい頃はよくあったはずの状況だけど、今はもう、あの頃とは違う。
私の家で会うときは、たいてい太陽がそばにいた。
それに、付き合い始めたばかりで、どうにも落ち着かない。
ドキドキをごまかすように、ここまでの経緯を思い返す。
――あのとき、守兄の胸で泣き崩れた私は、どうしても家に帰りたくなかった。
だって、あきらがまだいるかもしれない。それが怖かった。
「帰りたくない」と正直に告げたら、守兄が自分の部屋へ招いてくれた。
それが、今ここにいる理由だ。
太陽には一応連絡だけしておいた。余計な心配はかけたくなかったから。
でも、あきらのことは話さなかった。太陽の方も、なにも聞いてこなかった。
きっと、あの子のことだから気づいているんだろう。
ただ「わかった」とだけ、短く返事が返ってきた。
隣からは、守兄の存在が前よりも近く感じられ、緊張が増す。
きっと、私が意識しているから。
ざわつく胸を抑えるように、テーブルのカップに手を伸ばす。
中身は、淡い香りを漂わせるハーブティー。
やさしい匂いが鼻をくすぐる。
「いいにおい……」
「カモミールティーだよ」
守兄がふわりと笑った。
「いいティーカップがなくて、マグカップで申し訳ない」
苦笑する彼に、私は小さく首を振る。
無地でシックなマグカップ。なんだか、彼らしい。
紅茶をじっと見つめ、そっと口をつける。
じんわり広がる温かさが喉を伝い、心にも染み渡っていく。
あんなに泣いていたのがまるで嘘みたいに、穏やかな気持ちになった。
ほっと息をつき、改めて部屋を見渡した。
本当にきれい。
男の人の部屋とは思えないくらい整っている。
……もしかして、寝室だけ散らかってるとか?
いや、守兄だもん、それはないか。
これじゃ、私が掃除で役に立てることなんてなさそう。
そんなことを考え、くすっと笑う。
「どうした? さっきから頬がゆるんでるぞ」
覗き込んでくる守兄の目が優しくて、思わず顔が熱くなる。
「な、なんでもないよ。ただ、部屋すごく綺麗だなって」
そう言うと、彼は部屋をぐるりと見回してから肩をすくめた。
「そうか。まあ、何もないからな。男の一人暮らしなんて、こんなもんだろ。
あ、そうだ。星の好きなもの置いてくれていいよ」
「えっ……どういう意味?」
まるで、私がここに住むみたいな言い方に、驚いて目を丸くする。
守兄が吹き出した。
「ははっ、いい反応だな。ほんと可愛い。
別に俺は構わないよ。星と一緒に住むのは。大歓迎だ」
軽口のあと、ふと熱を帯びた瞳。
まっすぐな視線が向けられ、心臓がドクドクと跳ねた。
やがて、ふっと目元がやわらぐ。
「あきらと、なにかあった?」
優しい声。
やっと本題だ。きっと守兄はそれを聞きたかった。
さっき、私が泣いていた理由を。
「う、うん……」
あきらのことを思い出した途端、胸が痛み、視線が落ちる。
あの別れの光景が蘇って、喉の奥がきゅっと詰まった。
慌てたように、守兄が続けた。
「いや、ごめん。でも……気になってさ。
星、さっきあんなに泣いてただろ。あいつとどうなったのか、俺にとっては他人事じゃないし」
低く、真剣な声。
私のことを心から想ってくれているのが、痛いほど伝わってくる。
この人には、全部話そう。
顔を上げ、まっすぐに見つめ返した。
「……お別れ、してきた」
言葉にした瞬間、心が締め付けられる。
守兄の瞳が、大きく見開かれた。




