第56話 また修羅場
それから、穏やかな日々が流れていった。
これが幸せというものなんだろうか。
守られている安心感。
昔から変わらない、包み込むような優しさと大きな愛。
いつでも甘えられる存在が隣にいてくれる。
それだけで安らぎをもたらす。
好きな人と、こんなふうに一緒に過ごせるなんて。
今までほとんどなかったから。
けれど……ふとした瞬間に、あきらの顔が浮かぶ。
そのたびに胸がきゅっと締めつけられた。
会いたい。触れたい。
あの優しい瞳で、もう一度見つめられたい。
人間って、なんて欲深いんだろう。叶わないものほど求めてしまう。
その欲望は膨らむばかりで、止められない。
苦しい。切ない。胸が張り裂けそう。
あきらのことが、まだこんなにも好き。
そう突きつけられている気がした。
それでも。私が選んだのは、守兄。
そう何度も自分に言い聞かせる。
隣にいる彼をそっと見上げた。
「ん? どうした?」
変わらずの優しい目で、守兄が私を見ている。
その視線に、胸がチクチクと痛んだ。
私、酷いことをしてるのかな。その想いが離れない。
もちろん彼も、私があきらのことをすぐに忘れられるなんて思ってはいないだろう。
だけど。
こんな気持ちを抱えたまま。
あきらへの想いをこれほど宿したまま、守兄と付き合っているなんて。
……許されるのかな。
「星? どうした」
黙り込む私の顔を、心配そうに守兄が覗き込む。
「ごめん、何でもない」
気持ちを悟られたくなくて、顔をそらした。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
扉を開けた瞬間、息が止まった。
そこに立っていたのは、ずっと想い焦がれていた人。
「あ、あきら……」
呆然と見つめる。
鼓動は高鳴るのに、思考は完全に止まっていた。
澄んだ瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「やあ、君か」
背後から声がして、次の瞬間、ふわりと抱きしめられた。
「え……」
何が起こったのかわからず振り返ると、そこには守兄の顔。
「なにか用?」
私を抱き寄せたまま、守兄があきらをまっすぐに見据える。
余裕を装った表情。
けれど、その奥にはかすかな緊張が混じっているのを感じた。
抱きしめる腕に力がこもる。
「……おまえ」
あきらの顔が怒りに歪む。
鋭い視線が私の背後へと突き刺さった。
その視線を受けても、守兄は軽く受け流すように、抱き寄せた腕を緩めない。
いろんな意味で心臓がドキドキして、苦しくなる。
「申し訳ないけど。俺たち、今付き合ってるから」
守兄がはっきりと言い放つ。
「なっ!」
私とあきらの声が、同時に重なった。
「ちょ、ちょっと!」
なんとか彼の腕から抜け出し、向き直る。
なんで守兄が言うのよ、そんな大切なことを。
「おい、本当なのか!?」
あきらがすごい剣幕で私の肩を掴む。
至近距離から射抜くような視線を浴びて、息が詰まった。
ど、どうしよう。こんな展開になるなんて。
だって、守兄とは付き合ったばかり。
もっと落ち着いてから話すつもりだったのに。
別に曖昧にする気も、誤魔化す気もなかった。
あきらへの想いだって、まだ完全に断ち切れていない。
なんで、こんなことに……。
怒涛の展開に、気持ちも頭もついていかない。
あきらだって、ずっと連絡も取ってなかったのに。
それなのに、急に会いに来るなんて。
いや、本当は会いたかった。会いたかったけど。
思考がぐるぐると回って、視界まで揺れる。
「なあ、星!」
あきらが肩を揺さぶってくる。
「あ、あきら……あの」
「星を責めるな。悪いのはおまえだろ?」
守兄が私たちの間に割って入った。
ぐっと腕を引かれ、そのまま彼の背中に押しやられる。
「おまえが彼女を傷つけたんだ。ずっと放っておいて。
星だってすごく悩んで、苦しんで……ひとりでぼろぼろになってた。そんなとき、傍にいて支えたのは俺だ。
そして、弱ってる彼女に告白して、必死で想いを伝えたのも俺だ。
彼女はそれに応えてくれただけ。
責めるなら、俺を責めろ」
私を庇いながら、守兄は言い切った。
その姿があまりにもかっこよくて、思わず見惚れてしまう。
あきらは少し後退りし、悔しそうに唇を噛みしめた。
そして、ゆっくりと私を見る。
視線が重なった瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
その目は悲しげだった。
しばらく沈黙が続く。
やがて、あきらがふっと表情をゆるめ、ぽつりとつぶやく。
「わかった。とりあえず、星と二人で話がしたい」
それだけ告げると、また黙り込んでしまう。
「あきら……」
名前を呼ぶのが精一杯で、あとは何も言えずに立ち尽くす。
隣で、守兄が大きくため息をついた。
「はあ、わかった。おまえにもチャンスをやらないとフェアじゃないしな。
いいよ、俺は少し出てくる。
一時間後にまた戻るから、それまで二人でゆっくり話せばいい」
そう言って、守兄はじっと私を見つめる。
何か言いたげに口を開きかけたけれど、結局何も言わなかった。
代わりに、私の頭をそっと撫で、そのまま家を出ていった。
しん、と静まり返る。
あきらとふたりきり。
き、気まずい。
そっと視線を向けると、目が合った。
「とりあえず……あがっていいか」
照れたように笑うあきらに、私は慌てて頷く。
「うん。どうぞ」
あきらは靴を脱ぎ、居間へと足を運ぶ。
その背中をぼうっと見つめていたが、はっと我に返り、私は後を追った。




