第50話 弟のためにも
息が止まるかと思った。
だって、あまりにも突然で、天地がひっくり返ったみたい。
私の驚きようがおかしかったのか、守兄がくすりと笑う。
「すぐに返事をくれ、なんて言わない。
……待ってる。もう何年待ったと思ってるんだ?
一年や二年なんて、あっという間だよ」
軽く肩を竦めて笑う彼を、呆然と見つめるしかなかった。
頭が真っ白で、思考が追いつかない。
「今は、あいつのことがあるし。
すぐには答えなんて出せないだろうし、きっとたくさん悩むと思う。
困らせてしまうかもしれない。
でも、一度だけでいい。真剣に考えてほしいんだ。
俺との未来も」
力強い言葉と眼差し。
その真剣さが、まっすぐに突き刺さる。
「ま、待って……そんなの、急すぎるよ」
混乱でぐちゃぐちゃになった頭を必死に動かしながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「わかってる、ゆっくりでいい。いつまでも待つから。
ただ、俺のことを本気で考えてほしいんだ」
姿勢から、声色から、目の光から、
ただ真っ直ぐに、純粋で熱い想いが伝わってくる。
あきらからも、これまでたくさんの優しさや愛情をもらってきた。
でも、これほどまでに強く、燃えるような想いをぶつけられたことはあっただろうか。
「……うん、少し考えてみる」
そう返すのが、精いっぱいだった。
はっと我に返る。
私、なに言ってるの。あきらがいるのに。
「よかった。ありがとう、星」
守兄は屈託のない笑顔を見せる。その笑みに、心が揺れる。
どきどきと胸の音が大きく響く。
嬉しい? のかな。初恋だった人からの熱い告白。
しかもプロポーズ。
胸が熱くなるのは当然かもしれない。
でも、でも! 私にはあきらが……。
葛藤し続ける私をよそに、守兄は懐かしい昔話を語りだした。
幸せそうに、二人の思い出を語りながら笑う。
そんな彼を前に、私はもう何も言えなくなってしまった。
***
それからというもの――。
守兄は、まるで我が家に通うのが日課みたいに、ほとんど毎日顔を出すようになった。
帰国してからもたびたび来てはいたけど、今では一日も欠かさず現れて、
そのうえ毎回、必ず何かしら手土産を抱えてやって来る。
今日は、お肉と野菜。
「星、今夜はすき焼きにしよう」
にこにこと笑う守兄を前に、私は玄関で立ち尽くした。
彼はそのまま当然のように上がり込み、一直線に台所へ向かっていく。
呆然と、その背中を見送る。
「あ! 守兄、いらっしゃい」
「おう、太陽。今日はすき焼きだぞ~」
「え、ほんとう? やったあ」
台所からは、ふたりの楽しげな会話が聞こえてくる。
そのやりとりを耳にしているだけで、胸の奥にあたたかなものが広がり、ほっとする。
……変わらないな。
あきらのことで憔悴していた私にとって、それは何よりの癒しだった。
太陽が嬉しそうに笑う姿を見るたび、とても幸せな気持ちになる。
守兄がそばにいると、太陽は本当に楽しそうだ。
弟のためにも、彼がいてくれることは悪くない。そう思えてしまう。
貧しい生活のなかで、太陽にはずっと苦労ばかりかけてきた。我慢だってたくさんしてきたはずだ。
けれど、守兄が来るようになってから、弟は前よりもずっと幸せそうに見える。
ご馳走を用意してくれることが多いから、それもあるかもだけど。
育ち盛りの弟に、今までお腹いっぱい食べさせてやれなかったことを思うと、胸が痛む。
……ごめんね、太陽。
私ひとりでは、太陽を本当の意味で幸せにしてあげられないのかもしれない。
でも、守兄がいてくれれば。
「姉ちゃん、手伝ってよ。守兄ひとりに作らせる気?」
台所の入口から、ひょっこりと顔を出した太陽が、苦笑まじりに声をかけてきた。
その声に、ぼんやりしていた私は振り返る。
「わかってるよ、今いく」
ごちゃごちゃ考えるのをやめて、
私は気を取り直し、夕食の準備へと向かった。




