第14話 夏の夜、恋のはじまり
そして月日は流れ……気づけば私は、すっかり守兄の虜になっていた。
大好きなお兄ちゃん。
幼い私にとっての守兄は、ただの「お兄ちゃん」だった。
あのときまでは。
それは、私が十歳のとき。
近所の神社で毎年開かれる、夏の風物詩、縁日に出かけたときのことだった。
提灯が連なる参道は、ふだんの静けさが嘘みたいな賑わい。
あちこちから子どもたちの笑い声が響き、大人たちの話し声が重なる。
ずらりと並んだ屋台の灯りが、夜の闇をまばゆく照らしていた。
私と守兄、そして太陽。三人で人混みを歩いていく。
りんご飴、焼きそば、綿あめ、香ばしいたこ焼きの匂いまで。
まるで夢の世界みたい。
って、食べ物ばっかり? 私、食い意地張りすぎかも。
ほかにも、動物の仮面がずらっと並び、スーパーボールすくいや、色とりどりのアクセサリー屋台。
きらきらしていて、あっちもこっちも目移りしてしまう。
「星、危ないよ」
気がそぞろな私に、守兄がそっと手を差し出してくれる。
「うん……」
私はその手をそっと握り返した。
鼓動が、じわじわと速くなる。
かっこいいなぁ、と見惚れてしまう。
守兄も浴衣姿だった。
青みがかった地に朝顔の柄。涼やかで、どこか大人びていて、少し色気を感じさせる。
行き交う女性たちが、ちらちらと視線を向けているのも分かった。
そんな彼に手を握られて歩いている。
その事実だけで、胸の奥がくすぐったい。
私はお気に入りの浴衣を着ているけれど、守兄はどう思っているんだろう。
そっと様子をうかがう。
けれど、表情からは気持ちが読み取れない。
手を繋いだまま、彼の視線はずっと太陽に向けられている。
きっと、保護者のつもりなんだろうな。
そう思ったら、気持ちがふっと沈んだ。
――ん? なんで?
「いたっ」
足に鋭い痛みが走った。
慣れない下駄のせいで、鼻緒の横の皮膚が赤くなってしまった。
「どうした?」
守兄が心配そうに覗き込む。
「……ちょっと足が痛くて」
そう言った途端、守兄がしゃがみ込み、私の足元をじっと見つめる。
「ちょっとごめん」
鼻緒を少しずらすと、その部分の皮がめくれていた。
立ち上がった守兄は、私の頭をそっと撫でる。
「気づかなくて、ごめんな」
眉を寄せ、申し訳なさそうに言ったその次の瞬間、
ふわっと、体が宙に浮いた。
目の前いっぱいに、守兄の綺麗な顔。
それだけでも心臓が跳ね上がるのに、腕の中に抱き上げられた感触と、伝わる体温で、頭が真っ白になる。
これ……お姫様抱っこ!?
「わあ、いいなあ。僕も僕も!」
隣で太陽がはしゃぐ。
「ダメだよ。これは星だけの特権だから」
守兄が笑いながら太陽をたしなめた。
――え? 私だけの特権って、なにそれ。
心臓がドキドキうるさくて、顔が近すぎて、息が乱れそう。
守兄は優しく微笑むと、私を抱いたまま歩き出した。
人の波をすり抜け、屋台の通りを離れていく。
数歩進むごとに、にぎやかな喧騒が遠ざかり、夜の静けさが近づいてくる。
ぽつり、ぽつりと続く提灯の明かりの下。
私は彼の腕の中で揺られながら、まっすぐ前を見据えて歩くその横顔を見つめていた。
辿り着いたのは、神社の拝殿。
少し奥まったその一角は、人影もまばらで、空気がひんやりとしている。
風がそっと木々の葉を揺らし、提灯の灯りが柔らかく揺れた。
守兄は、先ほどから何も言わない。
そのまま私をそっと下ろし、石段へ座らせる。
「ここで少し休もう」
やわらかく微笑む守兄。
その笑顔に、私はどこか夢心地でぼんやり見惚れていた。
あとからやってきた太陽が、私の隣に腰を下ろす。
守兄は袖口から絆創膏を取り出し、私の前にしゃがみ込んだ。
「ちょっと、失礼」
そう言って、私の足にそっと手を添える。
指先が触れた瞬間、ぞくりと背筋が震え、頬がじわっと熱を帯びた。
守兄は丁寧に下駄を脱がせ、痛めた部分にそっと絆創膏を貼ってくれる。
その仕草があまりにも優しくて、
大切にされるって、こういうことなんだと思った。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
上目遣いでにこりと笑われ、また心臓が悲鳴をあげる。
視線が落ち着かず、くるくるとあちこち泳いだ。
「姉ちゃん、よかったね」
太陽が無邪気に声をかけてくる。
「う、うん」
ぎこちない返事をしながら、機械仕掛けの人形みたいにカクカクと頷く。
そして、もう一度守兄へ視線を戻す。
その瞬間、じっとこちらを見つめていた彼と目が合った。
「な、なに?」
慌てて問いかけると、守兄はゆっくりと首を振った。
「何でもない。……綺麗だなって思って」
まだ片膝をついたまま、私を見上げる姿勢でそう言う。
「ごめん、何言ってるんだろう。星はまだ子どもなのに」
視線をわずかに揺らす守兄。
その頬は、ほんのりと赤かった。
「星も、もう十歳なんだね。
これから、もっと綺麗になっていくんだろうな。楽しみだ」
にこりと微笑まれ、もうどうしていいかわからない。
ただ、ドギマギするばかり。
守兄はゆっくり立ち上がると、私の隣へ腰を下ろした。
ちょうどそのとき、夜空に花火が打ち上がる。
ドーンという大きな音とともに、漆黒の空に大輪の花が咲いた。
ここからだと、花火がとてもよく見える。
色とりどりの光が夜空いっぱいに絵を描き、次々と形を変えては消えていく。
私は目を細め、夢中でその光景を追った。
「わあ、綺麗……」
思わず声がもれる。
「綺麗だねー」
太陽も嬉しそうにはしゃぐ。
そっと隣を見ると、守兄も静かに花火を見上げていた。
その横顔があまりに格好良くて、胸がきゅっとなる。
ふいに守兄がこちらを見て、バチッと視線が重なった。
心臓が跳ね、私は慌てて目を逸らす。
「どうした?」
優しい声が降ってくる。
でも、恥ずかしくて顔を向けられない。
「な、なんでもない。は、花火綺麗だね」
必死に言葉を探す私に、
「……ああ、そうだね」
守兄は短く答え、再び花火へ視線を戻した。
私はまた、こっそりと横顔を盗み見る。
はあ、格好いい。
心臓はさっきからずっと鳴りっぱなしだ。
これって、恋?
まだ恋をしたことがないから分からない。
でも、守兄に触れられると、見つめられると、冷静でいられなくなる。
ドキドキして、彼のことばかり気になる。
視線が外せないのに、目が合うと慌てて逸らしてしまう。
ずっと一緒にいたい。離れたくない。
――やっぱり私、守兄に恋をしてるんだ。
その夜、私の中で守兄は「大好きなお兄ちゃん」から
「大好きな人」へと変わったのだった。




