第10話 隣にいる女性
エントランスを出て外へ出ると、すぐそばに一台の車が停まっていた。
艶やかな黒のボディに、スモークのかかった窓。
落ち着いた存在感を放つ、やや高級な乗用車だ。
ためらいがちにドアを開け、後部座席に乗り込む。
運転席の女性に声をかけた。
「いつもすみません、小森さん」
軽く会釈すると、彼女はルームミラー越しに私を見て、にこりと笑った。
「いいえ、これも私の仕事だから」
彼女は、あきらのマネージャー。
落ち着いた大人の女性で、色気のある美人。私とは、正反対のタイプ。
艶やかな真っ赤な唇が吊り上がるだけで、胸が高鳴る。
これが“色気”ってやつか。
喉から手が出るほど欲しいもの。
「それじゃあ、家まで送るわね」
その言葉と同時に、車は静かに動き出した。
少し走ると、煌びやかなネオンが灯る街並みが見えてくる。
ふと窓の外に目をやると、
大きく飾られたアキラのポスターや、巨大モニターに映る彼の姿。
見るたび、胸がざわつく。
そして思い知らされる。
私の彼氏は、アイドルなのだと。
別れ際の、あきらの表情が頭をよぎる。
あの切なげな眼差し。
いつも私の心を捉えて離さない、あきらという存在。
ああ、また会いたい。
別れたばかりなのに。
ふぅ、と短い息がもれた。
それにしても……今日の彼は少し大胆だった。
いつもより、激しく求めてきた気がする。
思い出してしまい、かあっと顔が火照る。
私ったら、何考えてるのよ。
そう、私たちはまだそういう関係じゃない。
一線は超えていない。
彼の家には何度も出入りしているし、夜に二人きりになることも多い。
けれど、まだ体の関係にはなっていなかった。
もちろん、彼への愛しさはある。
触れてほしいと思うし、キスもしたい。
たまに抱き合って、止まらなくなりそうになることだってある。
このままって、思ってしまう。
でも、先に進みそうになると、あきらは必ず途中でやめてくれた。
彼の本当の真意はわからない。
でも……アイドルだから、という事情もあるのかもしれない。
超売れっ子アイドルが、間違いを犯すわけにはいかない。
そうやって自分を律しているのかも。
あきらは優しい人だ。
もしかしたら、私への思いやりなのかもしれない。
少しでも嫌がる素振りを見せれば、すぐにやめてくれる。
無意識に緊張してしまう私を見て、それで我慢しているのかもしれない。
とにかく、いつも私のことを想ってくれる。
そんな彼が愛おしい。
私は、別にいいのにな……なんて思ってみたり。
でも、今日の彼はどこか様子が違った。
大丈夫かな。
考えにふけっていると、小森さんが声をかけてきた。
「今日、あきら変だった?」
その言葉に目を見開く。
なんで知ってるの?
驚きつつ、こくりと頷いた。
「……はい。なんだか、いつもと違ったような」
眉をひそめて答えると、彼女がふふっと笑う。
「あの子、ちょっと大変だったのよ。ずっとやりたかった役を下ろされたの」
「え?」
それは初耳だった。
まあ、今日の出来事なら知らなくても当然だけど。
あきらは何も言っていなかった。
「ライバルのアイドルに横取りされたって感じかしら。
相当落ち込んでいたわ、可哀そうに」
小森さんの表情が、ふっと暗くなる。
きっと彼女も苦しかったんだ。
あきらのことを、大切に思っているから。
しばし沈黙が落ちたあと、彼女が問う。
「あら? あなたには何も言わなかったの?」
どこか勝ち誇ったような笑みが、ミラー越しに見えた。
「ええ、まあ」
そう答えるしかなかった。
本当に聞いていないから。
心の奥底で、ほんのりと悔しさが込み上げる。
知らなかった。
あきらは、私に言ってはくれなかった。
でも、これで納得がいった。だからいつもと違ったんだ。
だったら、もっと優しくしてあげればよかった。
あきらは、きっと誰かに甘えたかったのかもしれない。
黙り込んだ私に、再び彼女が声をかける。
「あなたが落ち込まなくても大丈夫よ。私がついてるから。ケアは任せて」
小森さんが、にこりと妖艶に微笑む。
胸がざわついた。
小森麗。あきらのマネージャー。
彼の側にいつも寄り添っている、大人の女性。確か二十五歳。
色っぽくて、美しくて、仕事もできる。
まさに完璧な女性。
そんな人が四六時中、彼と一緒だと思うと……落ち着かない。
続けざまに、少しきつい口調で彼女は言った。
「それと、前から言ってるけど。
彼女なんだから、会うなとは言わないわ。けど、あきらにとってマイナスになるようなことはしないで」
それはいつも聞かされる、おなじみの言葉だった。
耳にタコができそう。
そんなこと、言われなくてもわかってる。
小森さんがあきれたようにため息を吐く。
「できれば、会うのも控えてほしいくらいよ。もし週刊誌にでも撮られたら……」
彼女は顔をしかめる。
それは心配というより、嫌悪に近い表情だった。
私があきらの傍にいることを、よく思っていない。
もちろん、周りの目には十分注意しているつもりだ。
あきらを困らせることなんてしたくない。
彼の仕事を応援している。
夢を壊したくないし、邪魔になりたくない。
私はミラー越しに小森さんをまっすぐ見据えた。
「わかっています」
はっきり告げる。
私の視線と、彼女の視線がぶつかり合った。
「あら、そう? ならいいんだけど」
小森さんはふふっと笑う。
それが決して友好的な笑みではないことくらい、私にもわかる。
そう、このマネージャーは私たちを別れさせたいのだ。




