幕間① 月に寄り添う
その頃、ダンジョン20層。
常に夜。
月と星だけが空を支配する、冷たい大地。
広大なエリアには、崩れた柱と石畳、半壊した神殿のような遺跡が点在している。
探索者たちは遺跡を一つずつ攻略し、次の遺跡へ、また次へ…と進む。
ここまで到達できる人類はそう多くない。
上級探索者の中でも上澄み。
国の探索部隊、最前線の企業パーティー、そして“何か”を知っている者だけ。
彼らは今、最奥の遺跡にいた。
月光が、崩れた天井の穴から斜めに差し込み、埃の粒子を白く浮かび上がらせる。
石造りの回廊の突き当たり――奥の壁面に、ひとつのレリーフがある。
それは、上澄みの探索者しか知らないレリーフ。
理由は単純だ。ここまで来た者が少なく、来てもそれを“外へ言わない”。
刻まれているのは、物語。
月に寄り添う少女。
月を見上げ、寄り添い続けた少女が、月の表と裏を従え、月の女王になる。
そして、永遠の友と添い遂げる話。
そのレリーフの前で、先頭の探索者が足を止めた。
「…おかしい」
低い声だった。
一緒に来た者たちも、続けて止まる。
レリーフには、確かに少女が彫られている。
小さな背中。細い肩。
月に寄り添うように座り、顔を上げている。
その隣にあるはずのものが、違った。
“表の月”を象る円は、いつも通り優しい。
だが、“裏の月”を象る影が、深すぎる。
まるで穴のように黒い。
そして、文字。
石に刻まれた古い言語を、探索者たちは何度も見てきた。
何度も確認してきた。
最後の一文も、覚えている。
少女は月の女王になり
表と裏を従え
その手に世界の夜を統べる
そして永遠の友と添い遂げる
…だったはずだ。
だが今。
最後の一文が、途中で途切れている。
『少女は月の女王に』
その先がない。
まるで、誰かが続きを書く直前で手を止めたように。
「風化?いや、違う」
別の探索者が壁に近づき、指先で文字の縁をなぞる。
石の粉が、ほんの僅かに指についた。
新しい。
削り跡が、新しい。
「これ…今、書き換わったのか?」
誰かが言った瞬間、遺跡の外から風が吹き込む。
夜の冷気ではない。もっと、硬い冷たさ。
月光が、一瞬だけ強くなる。
レリーフの黒い月の部分が、僅かに滲んだ。
石なのに。
石のはずなのに。
黒い染みが墨みたいに広がって、また戻る。
探索者たちが息を呑む。
このレリーフは、ただの石じゃない。
「…待て」
隊の中で、最も古参、初老の男が呟いた。
顔には傷が多い。声も枯れている。
「レリーフが書き換わろうとした時は、一度だけ見たことがある」
「いつだ」
「“契約者”が生まれかけた時だ」
その言葉に、場の空気が凍る。
彼らは知っている。
ダンジョンは、時々、あり得ないタイミングで“つじつま”を変える。
しかし、20層のレリーフが書き換わったなんて。
そんな報告は、記録にほぼない。
月光が、また一段階だけ濃くなる。
そして、レリーフの文字が、ほんの一瞬だけ、続きかけた。
石の表面が、かすかに震える。
まるで見えないノミが、石を削る音がするように。
『少女は月の女王に』『…』
その先に、薄く。
点が、打たれた。
それで止まった。
まるで、続きを“誰か”が考えているみたいに。
決めかねているみたいに。
あるいは――
“少女が女王になる”その瞬間が、まだ訪れていないみたいに。
探索者たちは顔を見合わせる。
誰も笑わない。
誰も冗談を言わない。
ただ一人、初老の男が月を見上げた。
「…」
そして、誰かが言った。
「“少女は月の女王に”で止まった…ってことは」
「女王になる条件が、まだ満たされていない?」
月は黙っている。
星も黙っている。
だが、レリーフだけが確かに告げていた。
物語の“ラスト”が、今この瞬間、書き換えの途中なのだと。
月光が、もう一度だけ濃くなった。
レリーフの月の横、本来なら何もない空白に、小さな星がふっと浮かび上がる。
彫刻でも、光の反射でもない。
「…星?」
誰かが呟いた瞬間、星は二つに増えた。
ひとつは金の星。
太陽のように眩しく輝いているわけじゃない。
なのに、見た者の胸の奥がじわりと熱を持つ。
「金色だ」と目が判断する前に、「これは金だ」と直感が先に言い当てる。
もうひとつは蒼い星。
優しく、包み込む色。
遠い海と空を思わせる、地球のような蒼。
触れてもいないのに、掌が少しだけ温かくなる錯覚がした。
二つの星は、月に寄り添うように並び。
次の瞬間、消えた。
「消えた…?」
息を飲む間もなく、また浮かぶ。
位置が少しずれる。
月の縁に触れそうで触れない距離。
ふっと灯って、ふっと消える。
点滅ではない。
存在が安定していない。
まるで、誰かが今この瞬間も星を置こうとして、置ききれていないみたいに。
探索者の一人が端末を構える。録画。撮影。ログ取得。
しかし画面には、月のレリーフしか映らない。
「…映らない」
別の者が肉眼で星を追い、震える声で言う。
「見えてるのに、残らない…」
金の星が浮かんだとき、遺跡の空気が一瞬だけ乾く。
蒼い星が浮かんだとき、逆に湿り気を帯びる。
星が消えるたび、耳の奥が鳴った。
初老の男が、吐き捨てる。
「…あの時と違う」
「物語の“登場人物”が増えた」
誰かが反射で口にした。
「月の女王に寄り添う星…二つ?」
「候補?同盟?それとも鍵?」
蒼い星がふっと浮かび、消える。
金の星もふっと浮かび、消える。
不安定。定まらない。
決着が、まだ来ていない。
最後にもう一度だけ、二つの星が同時に浮かんだ。
金と蒼が並び、月の横に正しい形で収まったように見えた、その瞬間。
レリーフの途切れた一文が、かすかに続きを刻みかける。
少女は月の女王に…
そこで止まる。
星が、また消える。
遺跡に残ったのは、冷たい月光と、誰も笑えない沈黙だけだった。
初老の男が、また月を見上げる。
月は何も語らない。
ただ、その横に浮かぶはずの星だけが。
浮かんでは消え、消えては浮かび、確定を拒んでいた。
20層・最奥遺跡。
星が浮かんで消えるのを、最後まで見届けた自衛隊探索部隊は、その場で判断を終えた。
「報告案件だ。最優先」
隊長格の一等陸尉が、部下に短く指示を飛ばす。
「セーフエリアへ戻る。現地記録をまとめろ。目視証言も全員分。順序立ててだ」
「撮影不可の現象ほど、言葉と整合性が武器になる」
誰も反論しない。
この階層まで来る連中は、“言わなくていいこと”と“言わなければいけないこと”の線引きを理解している。
セーフエリア。
小さなゲート端末の周囲だけ、モンスターの気配が消える。露店も、雑多な探索者もいない。20層のセーフエリアは野営地に近い。
石の壁に囲われた空間の中央に、協会端末とは別系統の、軍用の黒い端末が置かれている。
通信班の陸曹が手袋を外し、端末に指を置いた。
「秘匿回線、確立。…暗号鍵同期、完了」
「映像ログ送ります。…いや、星は入ってません。例の“残らない”タイプです」
「分かってる。だから証言と計測も付ける」
端末の画面に、簡潔な文面が打ち込まれていく。
報告書は感情を排し、事実だけを積む。
【統合本部・探索対策系統宛】速報(機密)
件名:L20最奥遺跡レリーフの変質および不可視情報の発生
時刻:現地時刻 __:__(セーフエリア端末同期)
部隊:陸自探索部隊 第__分遣隊
事象概要
L20最奥遺跡壁面レリーフの末尾文が、既知記録と異なる状態を確認。
既知末尾「少女は月の女王になり~」相当が、現認時は 「少女は女王に⋯」 で途切れていた。
途切れ部に新規削り痕を複数名が視認。石粉付着あり(添付:採取粉末・指紋採取済み)。
付随現象
レリーフ月の横に、小星状の像が2点、断続的に出現。
一:金色(発光ではないが金と直感される)
二:蒼色(包摂感・地球色に類似)
当該像は、肉眼では複数名が同時視認したが、
端末記録(映像・静止画)
兵装カメラ
協会規格レコーダー
いずれにも残像・記録として残らず。
出現は不安定:浮上→消失→位置ずれ→再浮上を繰り返す。
魔力濃度の微弱な変動を断続的に検知(添付ログ参照)。
変動は星像の出現タイミングと相関の可能性あり(確証なし)。
評価(暫定)
当該レリーフは固定情報ではなく動的更新される可能性。
更新トリガーは不明だが、下層・別階層での契約/称号/固有事象発生と同期している可能性がある。
当該事象は、現状の学説(異世界派/VR派)双方で説明困難。
当方は現地待機。追加命令を求む。
送信。
端末が短く振動して、受領確認が返った。
「上が受けた」曹長が言う。
「…反応、早いです。すでに“緊急扱い”に入ってる」
一等陸尉は、端末の画面を見つめたまま低く言った。
「当然だ。20層のレリーフが“書き換わる途中”なんて、見過ごせるわけがない」
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