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そして、朝が来る

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/10/17

第一部 午後の静寂


第一章 唐揚げの匂いと無関心


スーパーマーケットのバックヤードは、絶え間なく油の匂いが満ちていた。午後のピークを過ぎた惣菜部門で、雪子ゆきこは手慣れた様子でコロッケをパックに詰めている。今年で四十五歳。パートを始めてもう十年になる。

揚げたての熱がプラスチックの蓋を曇らせる。彼女はそれを手早く輪ゴムで留め、値段のシールを貼り付けた。その一連の動きは、もはや無意識の領域にあった。隣では巨大なフライヤーがごうごうと音を立て、パート仲間が鶏の唐揚げを揚げている。換気扇の低い唸り、冷蔵ケースのモーター音、そして時折響く「タイムセールです!」という威勢のいい声。それが雪子の世界の音だった 。

仕事は嫌いではなかった。むしろ、この単調さが心地よかった。家庭では得られない、確かな手応えがある。きれいに盛り付けられた弁当、隙間なく詰められた焼き鳥。自分の手が生み出したものが、誰かの食卓に並ぶ。それは、空虚さを感じることの多い日々の生活の中で、雪子がかろうじて見つけられる小さな達成感だった。

夕方四時を過ぎると、店内は再び活気づく。仕事帰りの人々が、夕食の一品を求めて惣菜コーナーに集まってくる。雪子は次々と空になっていく棚に、出来立ての商品を補充していく。この時間帯は、昼前の十一時から十二時にかけてのピークと並んで、一日で最も忙しい 。立ちっぱなしの作業で足は棒のようになり、一日の終わりには油の匂いが髪や服に染みついている。この肉体的な疲労が、家庭での気力を少しずつ削いでいくことには、もうずいぶん前から気づかないふりをしていた 。

「雪子さん、これお願い」。社員の男性から値引き用のシールを渡される。賞味期限が迫った商品に、赤い割引シールを貼っていく。2割引、3割引、そして半額。価値が目減りしていく様は、まるで自分自身のようだ、と時々思う。かつては夫にとって唯一無二だったはずの自分も、今では「いて当たり前」の存在。値引きシールを貼られることもなく、ただ静かに棚の隅に置かれている。そんな感傷を打ち消すように、雪子は黙々と作業を続けた。


第二章 静寂の家


「ただいま」。雪子の声は、静まり返った玄関に吸い込まれた。返事はない。高校生の娘、はなは自分の部屋にいるのだろう。夫の健司けんじは、今日も残業だと言っていた。

リビングの電気をつけると、きれいに片付いた空間が広がる。この「普通」の家庭を維持するために、雪子は毎日掃除を欠かさない。それはまるで、見えない綻びを繕うための儀式のようだった。

夕食の準備をしながら、華の部屋のドアをノックする。「ご飯、もうすぐできるよ」。ドアの向こうから「うん」と短い返事が聞こえる。最近、娘との会話はこんな風に断片的だ。バイトや友達との予定で忙しいらしく、家にいる時間も短い。それでも、関係は良好なはずだ。そう雪子は自分に言い聞かせた。

食卓には、雪子と華の二人分の皿が並ぶ。健司の帰りはいつも遅い。 「お父さん、今日も遅いの?」 「うん、残業だって」 当たり障りのない会話を交わしながら、食事はすぐに終わる。華が自室に戻ると、また静寂が訪れた。雪子は一人、食卓の片付けをする。シンクに溜まった食器を洗いながら、結婚してからの二十年間を思う。

いつからだろう、夫と肌を合わせなくなったのは。もう何年も経つ。最初は、子育てと仕事の疲れが原因だった 。華がまだ小さかった頃は、毎日が戦争のようだった。夜、布団に入る頃にはお互い疲れ果てていて、そんな余裕はなかった。やがてそれが当たり前になり、どちらからともなく求めることもなくなった。夫を異性としてではなく、「家族」としか見られなくなったのかもしれない 。それは自分だけではなく、夫も同じなのだろうと思っていた。40代にもなれば、男性の性欲が落ちるという話も聞く 。だから、これも夫婦の自然な変化なのだと、無理やり納得させてきた。

昔のようなときめきはない。今更求められても、逆に戸惑ってしまうだろう。ただ、寂しいと感じる瞬間はある。新しい髪型にしても、少しお洒落な服を着てみても、夫は何も気づかない。その無関心は、自分がもう女としての魅力がないのだと突きつけられているようで、胸に冷たい風が吹く。

この静かな家は、平和なのではない。ただ、誰も何も言わないだけだ。言わないことで、この危うい均衡を保っている。そのことに気づいてしまった夜は、決まって眠りが浅かった。


第三章 光沢のあるカード


ある週末の午後、雪子は健司のスーツをクローゼットにしまう作業をしていた。季節の変わり目、衣替えの一環だ。普段はクリーニングに出すだけだが、たまにはこうして自分で手入れをする。それが妻の務めだと、誰に教わったわけでもなく信じていた。

濃紺のスーツの内ポケットに、何かが入っている感触があった。ハンカチか何かだろうか。指を入れてみると、それは一枚の硬いカードだった。

取り出して、手のひらの上で見る。厚手で光沢のある、上質な紙。黒地に金の箔押しで、店の名前が記されている。『Starlight Lounge』。そして、その下には『Rena』という女性の名前と携帯電話の番号が印刷されていた。明らかに、夜の店の名刺だった。

心臓がどくん、と大きく鳴った。健司が時々、夜遅くに帰ってくる日がある。「残業だ」という彼の言葉を、今まで疑ったことはなかった。しかし、この一枚のカードが、その言葉の裏にある別の真実を突きつけていた。

雪子の頭の中で、点と線が繋がり始める。これはただのバーではない。おそらく、キャバクラと呼ばれる種類の店だ 。テレビの特集で見たことがある。男性客は高いセット料金を払い、隣に座る女性との会話を楽しむ 。この名刺は、客に次も自分を指名してもらうための営業ツールだ 。『Rena』という女性を指名すれば、さらに追加料金がかかるのだろう。

それは単なる浮気という言葉では片付けられない、もっと根深い裏切りのように感じられた。夫は、家族のために稼いだお金を、見ず知らずの女が提供する偽りの優しさや賞賛に費やしている。雪子が何年も感じてきた「見てもらえない」という渇望を、夫は外で金を出して満たしていたのだ。

それは、この家庭の経済と感情の両方を、夫が密かに横領しているに等しい行為だった。雪子は、名刺を握りしめた。指先が白くなる。悲しい、という一言では言い表せない、冷たい怒りが腹の底から湧き上がってくるのを感じた。


第二部 違う会話


第四章 休憩室にて


名刺を見つけてから数日、雪子の心は鉛のように重かった。パート先でも、いつものように手は動かしながらも、心は上の空だった。笑顔を作ろうとしても、頬がひきつるのを感じる。

昼休み、雪子は休憩室の隅で、自分で作ってきた弁当を黙々と食べていた。他のパート仲間たちの楽しげな会話が、遠くに聞こえる。 「雪子さん、隣いいかな?」 声の主は、田中だった。同い年の、正社員の男性。明るく仕事ができ、誰からも好かれている。彼が淹れたてのコーヒーのカップを片手に、雪子の向かいに腰を下ろした。 「どうぞ」 雪子は力なく答えた。 「元気ないね。何かあった?」 田中の声は、気遣わしげに柔らかい。その一言で、雪子が張り詰めていた糸がぷつりと切れた。 「……ちょっと、夫と」 言葉が詰まる。家庭内のことを、職場の、それも男性に話すなんて考えたこともなかった。しかし、田中の穏やかな眼差しは、彼女に「話しても大丈夫だ」と感じさせた。 雪子は、夫が無関心であること、女として見られていないと感じる寂しさを、ぽつりぽつりと語り始めた。名刺のことは、まだ言えなかった。

田中は、雪子の話を遮ることなく、静かに耳を傾けていた。時折、相槌を打ちながら。彼は夫の健司を一方的に非難することはしなかった。ただ、雪子の気持ちに寄り添うように、こう言った。 「そういうの、辛いよね。男も女も、四十を過ぎると色々あるみたいだ」 その言葉には、表面的な同情ではない、実感を伴った響きがあった 。


第五章 並行する人生


「実は、うちも似たようなものなんだ」 田中は、少し躊躇うように、しかし率直に続けた。 「うちの妻、マッチングアプリで男の人と会ってるんだ」 雪子は息をのんだ。田中の口から語られた事実は、彼女の想像をはるかに超えていた。 「知ってるの?」 「うん。偶然、見てしまったんだ。でも、知らないふりをしてる」 彼の表情には、怒りよりも深い悲しみと諦めが浮かんでいた。 「子供が成人するまでは、このままでいようと思ってる。あっちがそれまでに考えを変えなければ、その時は離婚も仕方ないかなって」

彼の妻が使っているアプリは、おそらく若い世代向けの軽いものではなく、40代以上の真剣な出会いを求める層が利用するものだろうと雪子は思った 。それは、彼の妻が一時の気の迷いでなく、本気で今の結婚生活からの出口を探している可能性を示唆していた。

自分と同じように、いや、それ以上に深刻な問題を抱えている人が、こんなに身近にいた。そして、その事実を冷静に受け止めようとしている。田中の告白は、雪子に奇妙な安堵感を与えた。自分だけが不幸なわけではない。そして、このどうしようもない閉塞感は、夫と妻、どちらか一方だけの問題ではないのかもしれない。

田中の妻もまた、雪子と同じように、家庭の中に満たされない何かを抱えているのだろう。その満たし方が違うだけで、根底にある渇望は同じなのかもしれない。この気づきは、物語を単純な「裏切った夫」と「裏切られた妻」という構図から解き放ち、より複雑で、だからこそリアルなものとして雪子の胸に迫った。

「もしよかったら、連絡先、交換しない?」 休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴る直前、そう切り出したのは雪子の方だった。誰かに、この気持ちを分かってもらいたかった。


第六章 はじめての食事


それから二人は、時々メッセージを交換するようになった。仕事の合間の短いやり取り。他愛のない話がほとんどだったが、雪子にとっては、乾いた心に染み渡る水のように感じられた。

ある日、仕事帰りに田中から「軽く食事でもどう?」と誘われた。職場以外で会うのは初めてだった。二人は駅前の、気取らないカフェレストランに入った 。

向かい合って座ると、少し緊張した。しかし、話し始めると、その緊張はすぐに解けていった。雪子は、今度こそすべてを打ち明けた。夫のスーツから出てきた名刺のこと。自分にはもう魅力がないのではないかという絶望的な気持ち。

田中は、静かに聞いていた。そして、雪子が話し終えるのを待って、ゆっくりと口を開いた。 「雪子さんは、とても優しいし、気配りもできる人だよ。職場のみんながそう思ってる」 彼は続けた。 「髪型や服装だって、いつも綺麗にしてるじゃないか。今日のブラウスも、よく似合ってる。とても魅力的だよ。だから、そんな風に自分を責めることはない」 雪子は、はっとした。今日のブラウスは、先週買ったばかりのものだった。夫は気づきもしなかったのに。そして、先日、ほんの少しだけ切った髪のことまで、彼は気づいていた。 「見てくれてる人がいるんだ……」 その事実に、胸が熱くなった。涙が滲みそうになるのを、必死でこらえた。誰かに「女性として」見てもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。

「でも」と田中は言った。「お互い、これ以上深い関係になるのはやめよう。家庭を壊して、泥沼になるのは望んでない」 「ええ、私もそう思う」 雪子は強く頷いた。この心地よい関係を、ありふれた不倫で汚したくはなかった。この人は、自分を救い上げてくれるかもしれないけれど、それは恋人としてではない。もっと違う、大切な存在なのだ。


第七章 対峙


その夜、健司は珍しく早い時間に帰宅した。そして、リビングでテレビを見ていた雪子に、唐突に言った。 「お前、パート先の男と不倫してるだろ」 その言葉は、まるで鋭いナイフのように雪子の胸を突き刺した。彼の罪悪感が、歪んだ形で攻撃となって現れたのだ。 「何言ってるの」 「最近、楽しそうじゃないか。俺には見せないような顔で笑ったりして」 怒りがこみ上げてきた。自分はただ、人としての尊厳を取り戻そうとしているだけなのに。 「あなたこそ、どうなの。毎晩のように残業、残業って言いながら、本当はどこに行ってるの?」 雪子は、テーブルの上にキャバクラの名刺を叩きつけた。健司の顔色が変わる。 「これは……仕事の付き合いで……」 「嘘つかないで!」 口論は激しくなった。お互いを罵り、傷つけ合う言葉が飛び交う。その時、雪子の頭に、ある考えが閃いた。 「じゃあ、スマホ、見せ合いましょうよ」 彼女の声は、自分でも驚くほど冷静だった。 「やましいことがないなら、見せられるはずでしょ?」 健司は激しく狼狽した。「プライバシーの侵害だ!」と叫ぶ。 「見せられないなら、あなたが浮気してるってことね」 雪子は、自分のスマートフォンを手に取り、ローテーブルの上に置いた。 「私は、いいわよ。どうぞ、見て」 その毅然とした態度に、健司は言葉を失った。彼は雪子のスマホに手を伸ばすこともできず、ただ黙って下を向いた。その沈黙が、何より雄弁な答えだった。

雪子は立ち上がり、寝室に向かった。ドアを閉め、ベッドに倒れ込む。悔しさと悲しさで、涙が止まらなかった。眠れないまま、窓の外が白んでくるのを、ただじっと見つめていた。


第三部 臨界点


第八章 温もり


翌日、パート先に出勤した雪子は、まるで抜け殻のようだった。目の下の隈を化粧で隠したが、心の疲弊は隠しきれない。休憩時間、雪子は田中に「昨夜のこと、少しだけ話したい」とメッセージを送った。

仕事が終わり、スーパーの裏口で待ち合わせる。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。雪子は、昨夜の夫とのやり取りを、途切れ途切れに話した。夫からの理不尽な非難、スマホを巡る攻防、そして彼の沈黙という名の自白。話しているうちに、こらえていた感情が再び込み上げ、声が震える。

田中は、何も言わずに聞いていた。そして、雪子が言葉を詰まらせ、俯いて涙をこぼしたとき、彼はそっと一歩前に出て、雪子の肩を抱き寄せた。

それは、しっかりとした、温かい抱擁だった。下心など微塵も感じられない、ただ純粋に、傷ついた人間を慰めようとする温もりだった。何年ぶりだろう、こんな風に誰かに抱きしめられるのは。夫ではない、別の男性の腕の中で、雪子は声を殺して泣いた。それは恋愛感情とは違う、もっと根源的な、人としての優しさに触れた瞬間だった。この温もりが、凍てついていた彼女の心を少しだけ溶かし、これから進むべき道へとかすかな光を灯してくれた。


第九章 噂と決意


あの日以来、家の中は完全な冷戦状態に陥った。雪子と健司は、必要最低限の会話もしなくなった。雪子は淡々と家事をこなし、パートに出る。田中とはメッセージのやり取りを続けるが、あの夜以来、二人きりで会うことはなかった。彼は、雪子に余計なプレッシャーを与えまいと、慎重に距離を保ってくれているようだった。

そんなある日、パート仲間たちの間で、ある噂が囁かれているのを耳にした。 「田中さん、奥さんと離婚したらしいわよ」 雪子の心臓が、どきりと音を立てた。

数日後、田中の方から、その噂が事実であることを告げられた。 「君が大変な時に、自分の話をするのはどうかと思って、言えなかったんだ。僕のことで、君の決断を急がせたくなかったから」 彼の気遣いが、胸に染みた。

田中の離婚は、雪子にとって大きな出来事だった。それは、説得や勧めよりもずっと強く、彼女の背中を押した。自分と同じように苦しんでいた人が、一つの決断を下し、新しい一歩を踏み出した。離婚という、漠然として恐ろしいだけだったものが、尊敬する人によって示された、現実的で、選択可能な道筋に見えてきたのだ。恐怖が、少しずつ覚悟へと変わっていくのを感じた。


第十章 デジタルの暗部


その週末の夜、雪子はリビングでテレビを見ている健司の前に立った。彼女の声は、凪いだ海のように静かだった。 「あなたに、もう一度だけ聞きます。あの女性とは、今も続いているの?」 健司は視線をテレビに向けたまま、何も答えない。 「答えないなら、それでいいわ」 雪子は、以前と同じように、自分のスマートフォンをテーブルの上に置いた。 「あなたのスマホを見せて。それができないなら、離婚の話をしましょう」 健司は、諦めたように深くため息をつき、ポケットからスマホを取り出すと、無言でテーブルの上を滑らせた。

雪子は震える指で、メッセージアプリを開いた。そこには、『Rena』との、おびただしい量のやり取りが、今この瞬間まで続いていた。その内容を目にした途端、雪子は愕然とし、呼吸が浅くなるのを感じた。

『早く会いたい。次の同伴、いつにできそう?』 『あのバッグ、買ってくれるって言ってたやつ、楽しみにしてるね』

それは、金銭的な関係をありありと示す生々しい会話だった。しかし、それ以上に雪子を打ちのめしたのは、健司が送った言葉だった。

『うちの嫁、本当にうるさい女でさ』 『もう女として見れないよ。ただの同居人』 『君のことが本当に好きだ。そのうち離婚するから、そしたら一緒に暮らそう』 『昨日の夜は最高だった。早くまた君を抱きたい』

そこには、雪子という人間の全否定があった。妻として、女として、母親として、彼女が守ってきた二十年間のすべてを嘲笑うかのような言葉の刃が、無数に並んでいた。涙が頬を伝い、テーブルの上にぽたぽたと落ちる。

「……それが、あなたの答えなのね」 雪子は、かろうじてそれだけを呟くと、ふらつく足で立ち上がり、寝室へと向かった。ドアを閉めた背後で、健司が何かを言ったような気がしたが、もう彼女の耳には届かなかった。


第十一章 娘の強さ


数日間、雪子は何も考えられなかった。ただ、パートと家事を機械のようにこなすだけだった。そして、週末、意を決して娘の華と向き合った。リビングのソファに二人で座り、雪子はすべてを話した。夫の裏切り、キャバクラ通い、そしてスマホで見た、あまりにも残酷なメッセージの内容。

母親の告白に、華がどんな反応をするか、雪子は怖かった。しかし、華は驚くほど落ち着いていた。 「……やっぱり、そうだったんだ」 小さな声で、華が言った。 「お父さんが浮気してること、なんとなく気づいてた。それに、お母さんが時々、一人で泣いてるのも知ってたよ」 娘の言葉に、雪子は息をのんだ。高校生の娘は、親が思うよりずっと、家庭の不穏な空気を敏感に感じ取っていたのだ。 「お母さんは、悪くないよ」 華は、雪子の手をそっと握った。 「私は、お母さんと一緒なら大丈夫。離婚するかどうかは、お母さんが決めていいんだよ。お母さんが、笑ってくれる方がいい」

その言葉は、何よりも強い力となって雪子の心を支えた。罪悪感という最後の足枷が、外れた気がした。自分は一人ではない。この子のために、そして何より自分自身のために、前を向かなければならない。雪子の心に、固い決意が宿った。離婚は、もはや恐怖の対象ではなく、自分たちの未来を取り戻すための、唯一の手段だった。


第四部 法の言葉


第十二章 最初の相談


週が明けて、雪子は有給休暇を取り、予約していた法律事務所のドアを叩いた。落ち着いた雰囲気の個室で、五十代くらいの、柔和な物腰の女性弁護士が彼女を迎えた。

雪子は、これまでの経緯を、証拠であるスマートフォンのメッセージのスクリーンショットを見せながら説明した。弁護士は、雪子の話をじっくりと聞き、時折メモを取りながら、静かに頷いていた。一通り話し終えると、弁護士は穏やかながらもきっぱりとした口調で言った。 「大変でしたね。でも、もう大丈夫ですよ。法的な手続きは、私たちがきちんと進めます」 その言葉に、雪子はどれほど救われたことだろう。

弁護士は、まず「協議離婚」という、裁判所を介さずに夫婦間の話し合いで離婚を成立させる方法について説明を始めた 。 「離婚に際して決めるべきことは、主に三つです。一つは、不貞行為に対する慰謝料。二つ目は、娘さんが成人するまでの養育費。そして三つ目が、財産分与です」 弁護士は、それぞれの相場について、具体的な数字を挙げて解説した。 「不貞行為が原因の場合、慰謝料の相場は200万円から300万円程度です 。養育費は、ご主人の年収とお子さんの年齢を基に、裁判所の算定表に沿って算出します 。財産分与は、結婚してから築いた財産を、原則として半分ずつ分けることになります」

これまで感情のもつれとしか捉えられなかった夫の裏切りが、「慰謝料」という具体的な金額に置き換えられていく。漠然とした未来への不安が、「養育費」や「財産分与」という、計算可能な数字として示される。それは、雪子にとって、自分の受けた苦痛とこれからの生活を、客観的で正当な権利として主張するための、新しい言語を学ぶような体験だった。感情論ではなく、法という揺るぎない物差しで、自分の人生を再構築していく。そのプロセス自体が、彼女に力を与えてくれるように思えた。


第十三章 交渉


離婚の交渉は、弁護士を通じて行われた。雪子が本気で法的な手続きに踏み切ったことに、健司はひどく動揺したようだった。彼の弁護士を通して、「相手の女性とは別れる。もう一度、家族三人でやり直したい」という言葉が伝えられた。

しかし、雪子の決意は固かった。彼女は弁護士に、自分の意思をはっきりと伝えた。「やり直すつもりは、一切ありません」。

雪子側の要求は、明確だった。 第一に、不貞行為に対する慰謝料として300万円を支払うこと 。 第二に、娘の華が大学を卒業するまで、算定表に基づいた養育費を毎月支払うこと 。 第三に、健司が現在住んでいる家から出ていくこと。家の財産価値については、財産分与の中で協議する。

健司側は、最後まで抵抗した。慰謝料の減額を求め、やり直すチャンスが欲しいと繰り返した。交渉は、平行線を辿った。しかし、雪子の心は揺らがなかった。彼女は、弁護士という代理人を立てることで、夫と直接感情をぶつけ合う消耗戦から解放されていた。彼女はもはや、夫の言い分に振り回される無力な妻ではない。自分の権利を主張し、未来を決定する、一人の依頼人なのだ。この法的な手続きは、彼女が失いかけていた自尊心と主体性を取り戻すための、重要な儀式となっていた。


第十四章 署名


交渉が暗礁に乗り上げかけた頃、決定的な一手が打たれた。雪子の弁護士が、健司側の弁護士に対し、一枚の証拠を提示したのだ。それは、健司が最後の交渉が行われる前日に、例の女性『Rena』とホテルのカフェで会っていたことを示す写真だった。「やり直したい」という言葉が、その瞬間に空虚な嘘であることが証明された。

完全に追い詰められた健司は、ついに雪子側のすべての条件を飲むことに同意した。

数日後、雪子は市役所の窓口にいた。手には、記入を終えた離婚届がある。証人の欄には、彼女の両親が署名してくれていた 。それは、彼女が一人ではないことの、ささやかで力強い証だった。

「お預かりします」。窓口の職員が、事務的な口調で言う。差し出された書類が受理され、彼女の二十年間の結婚生活は、一枚の紙切れによって、静かに終わりを告げた。市役所を出ると、空は抜けるように青かった。雪子は、大きく、深く、息を吸い込んだ。


第五部 朝の光


第十五章 新しい家計


離婚から数ヶ月が経った。雪子と華は、以前と同じ家に住み続けている。しかし、家の空気は、以前とは比べ物にならないほど軽く、明るかった。健司がいない食卓は、寂しいどころか、華との会話が弾む、穏やかな時間になっていた。

雪子は、新しい生活の家計簿をつけていた。健司から支払われた慰謝料と財産分与は、当面の生活と華の学費のための、大切な蓄えとなった。しかし、これからの日々の収入は、スーパーのパートで得る給料がすべてだ 。以前の世帯収入に比べれば、生活は質素になった。外食は減り、高価な買い物はできない。それでも、雪子の心は満たされていた。このお金は、すべて自分で稼ぎ、自分で管理できる、自分自身のものだ。夫がどこで何にお金を使っているのかと、疑心暗鬼になる必要もない 。経済的な自立がもたらす精神的な解放感は、雪子が想像していた以上に大きなものだった。


第十六章 川辺の会話


その日、雪子はパートの帰りに、田中と会う約束をしていた。離婚が成立したことを、きちんと自分の口から伝えたかった。二人は、近くの川沿いの遊歩道を、ゆっくりと歩いた。

「……そうか。全部、終わったんだね。お疲れ様」 田中の声は、いつものように優しかった。 「うん。ありがとう。田中さんがいてくれなかったら、ここまで来られなかったかもしれない」 雪子は、心からの感謝を伝えた。

田中も、自身の新しい生活について話してくれた。別れた妻との間にいる娘さんとは定期的に会っていて、二人での生活にも少しずつ慣れてきたという。お互いに、四十代で、子供を持つ親として、再び一人になった 。若い頃のような、情熱的な恋愛を求める気持ちは、二人にはなかった。それよりも、日々の小さな喜びや悩みを分かち合える、穏やかな関係を求めていた。子供たちのことを第一に考えなければならないという、共通の責任感もあった 。

「大変なこともあるけど、なんだか、前よりずっと息がしやすいんだ」 田中が言うと、雪子も強く頷いた。 「わかる。私も、同じ」

第十七章 ゆっくりと、そして確かに

夕日が川面をオレンジ色に染めていた。二人は、川辺のベンチに腰を下ろした。しばらく、どちらからともなく、心地よい沈黙が流れる。

やがて、田中が口を開いた。 「お互い、これから色々と立て直していかないといけないことがたくさんあると思う。だから……」 彼は、言葉を選びながら、続けた。 「焦る必要は、まったくないんだ。でも、もし、いつかお互いの準備ができたら……その時は、何か新しい関係を、一緒に作っていけないかな」 彼の視線は、まっすぐに雪子に向けられていた。 「ゆっくり、進んでいけたらって、思うんだ」

その言葉は、情熱的な愛の告白ではなかった。しかし、だからこそ、雪子の心に深く、温かく響いた。それは、お互いの過去と、背負っている現実のすべてを尊重した上での、誠実な提案だった。

雪子は、田中を見つめ返した。この数ヶ月、忘れていた笑顔が、自然と口元に浮かぶのがわかった。それは、作り笑いではない、心の底からの微笑みだった。

「ええ、そうね。ゆっくりと」

彼女は、そう答えた。その瞬間、二人の間に、確かな未来への、小さな、しかし揺るぎない約束が交わされた。それは、誰かに救われる物語の終わりではない。同じ痛みを乗り越えた二人が、対等なパートナーとして、自分たちのペースで幸せを築いていく、新しい物語の始まりだった。

空には、一番星が瞬き始めていた。


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