『紫陽花とカレー』
『紫陽花とカレー』
雨の日は、決まってあの手紙の破片から始まる。
古びた便箋の端が不自然にちぎれていて、肝心の差出人の名前も、最後の一文もなかった。ただ一行、「また、同じ場所で」とだけ残されていた。
湊花町の駅から紫陽花通りへ。雨が上がったばかりの空気は少し冷たく、地面からはしっとりとした土の匂いが立ち上がっていた。アスファルトの隙間から水がゆっくり染みこみ、傘を持ったままの人たちがそれぞれの速さで家路を辿っていた。
僕は錆びた自転車を押しながら歩いていた。ギシ、と一度だけ後輪が鳴ったのは、きっと昨日と同じ場所だった。記憶の中の音が、雨音に変わる。
道端の紫陽花は、さっきまでの雨粒を大事に抱えている。葉の陰では、小さなかたつむりが一匹、ゆっくりと這っていた。ヌメヌメとした身体が葉脈に沿って動くたびに、まるで時がゆっくりになるような気がした。
商店街の角、昔からある木製のベンチに腰を下ろすと、近くのカレー屋からスパイスの香りがふわりと流れてきた。雨上がりの空気に乗って、その匂いは一層くっきりとした輪郭を持つ。
その匂いの中に、彼女の声が混ざっていたような気がした。
「……湯気に、まぎれる記憶ってあると思う?」
あの人はそんなことを言っていた。半分冗談のような、でも本気のような声で。
彼女の話す言葉は、いつも比喩のようで、その真意を測るのに僕はいつも時間がかかった。
雨宿りのベンチには、小さな紙片が貼りついていた。薄い文字が、にじんでほとんど読めなくなっていたけれど、そこには「——くるまで、もうすこしだけ」と書いてあるように見えた。僕が持っている手紙の続きかもしれなかった。
ふと、あのときの彼女の後ろ姿を思い出す。レインコートの裾が風に揺れて、傘の先から一滴、二滴と雨が落ちていた。僕は何も言えなかった。ただ、見送ることしかできなかった。
今、同じ場所に立っていても、彼女がいた証拠はなにも残っていない。けれども、確かにあのとき交わした約束だけは、僕の中で色褪せずにいる。
きっと彼女は、まだこの町のどこかで、あのカレーの匂いに包まれて、待っているのかもしれない。あるいは、誰にも気づかれないように、紫陽花の葉の影に隠れているのかもしれない。
だから僕はまた、雨の日にしか現れない記憶を追いかけて、同じ道を歩く。
錆びた自転車を押しながら、土の匂いとスパイスの風を感じて。
スペシャルサンクス!
AI「クマちゃん」