幕間 彼女が笑う
ムーナウーヴァの帝都、ムーナ・ルイス。
通称「水の都」とも呼ばれるそこは、巨大な湖の上に浮かび、皇城を中心に白と紫を基調とした家々が並ぶ美しい都市だ。故に、ムーナ・ルイスをモチーフにした絵画はこの世に多く存在する。
涼しげな風が吹く夜。帝都随一の豪邸のバルコニーに、ある女が1人。ピンクブロンドの長い髪を持ち、右目は前髪で隠されている。
誰もが目を奪われるような素晴らしいスタイルをしている美女だが、それよりも目がいくものがある。彼女の背からは人間では持ち得ないもの――蠍のような、巨大な尾が揺れ動いている。
星がきらめく夜空を見上げ、ワインが入ったグラスに口をつけた。ワインを一口飲んだ瞬間、女は咳き込んだ。口元を脱ぐい、ワインが入ったままのグラスを置いた。
その女の背後から、上質なシャツを着た恰幅のいい男が足音を立ててやってきた。横に置かれたワインを見て、それを手に取る。
「レ――我が愛しい娘よ。本当に誕生パーティーを開かなくてよかったのか?」
女の父は眉を下げた。彼女の誕生日を大々的に祝うことができなかったこと、父である自分が彼女の名前を呼べなかったこと、そして、彼女が旅立つことに深い悲しみを抱いていた。
「父上、私の名前を呼ばないようにと何度も言っている筈ですが。「呪感」に苦しんだのは一度や二度ではないでしょう。」
はっきりと、よく通る声だった。
「呪感」というのは、呪われた者の名前を言うと起こる謎の症状だ。吐き気、頭痛、眩暈、痛みが同時に起こり、もがき苦しむ悪夢のような感覚である。彼女の父親はそれを何度も経験してなお、彼女の名前を呼んでいた。
「いいのです。ようやく、私の夢が叶う時がきたのですから。」
彼女は自信にあふれた声で告げた。口元には強い印象を受ける笑みを浮かべていて、彼女の美しい赤の瞳によく似合う。
「それは……例の件を聞いてなのか?」
先日、彼女の元にある一報が入った。
ソエルソスの街で現れた"魔獣の呪い"が、たった2名に打ち倒されたという話だ。ムーナウーヴァに近い都市の話だったのですぐに話が届いたというのもあるが、ここまで早く彼女が知れたのは、彼女が並外れた情報通でもあるからだ。
それを聞いたとき、彼女は確信した。
その人物たちと手を組めば、彼女の夢が叶うと。ずっと待ち侘びた人材だった。
彼女は髪をなびかせ、長大な尾を一振りする。彼女はその尾の扱いをよくわかっているので、周囲に当たることはない。父親はその尾を見て、さらに暗い顔をする。
彼女は正真正銘の明人だ。獣人でも鬼でも、その他の未知なる人間種でもない。
そんな彼女が異形の尾を持つことは、父としては好ましくないことだ。自分の娘が特にひどい呪いにかかったというのに、親の自分がなにもしてやれないことに無力感を感じている。
本来、彼女はすぐに死ぬはずだった。それでも彼女が今日、18歳――成人するまで生きながらえることができたのは、他の何でもなく、彼女自身の才能のおかげだ。
「父上、私の前で暗い顔をするのはやめて下さい。私は、自分の境遇を恨んだことは一度だってありません。」
「しかし、我が娘よ。せめてもう1日だけでも……」
「父上、そう言って一生私を家に閉じ込めるつもりですか?」
彼女は冗談めかして言う。
旅の荷物はほとんど準備していない。それは裕福さからくる慢心ではなく、彼女に自分なら上手くやれるという自信があったからだ。
「安心してください、父上。私が――私たちが、この世界を救って見せます。」
揺らがない意志を目に灯し、大きな月を背景に彼女が笑った。
彼女の顔を見た時、誰もが思うだろう。
彼女ならば、あるいは、と。




