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ささいな景色

作者: いわかみあ

 居場所がない、と塔子は思っていた。学校の教室のなかで与えられた机と椅子と教室の後ろにある扉つきのロッカー、給食当番用の白衣の入った布袋を掛けるフック。帰る時には学生番号の書かれた靴箱。そのくらいしか田仲塔子という人物のみが居ていい居場所はないと塔子は思っていた。それは学校内で点在しながら広大な敷地(小学五年生の人間からすれば)のなかをぽつ、ぽつと存在できうる星のようであった。塔子がそのロッカーやフックに手を伸ばす時には一時の安らぎを感じていることを同級生の誰も知ることはなかった。

 流れるように居場所を変化させていくのが塔子には耐えられなかった。音楽の教室移動をする時に友人たちと一緒に連れ立って行くことは難しく、塔子はいつも音楽の授業に必要な教科書や鍵盤ハーモニカを胸に抱きしめながら友人たちがクラスの教室から出て行く様子を観察しているのだった。遅れがちにでも友人たちの輪に加わりながら(端から見れば後方をついていっているだけのように見えるかもしれない)教室移動をしていた。音楽室に到着した時にも、自分の名前が割り振られていない机と椅子のある席に着くことは塔子にとって大きな困難だった。みんなどうして居場所をすぐに見つけることができるのだろう、と塔子はいつも思っていた。きょろきょろとおどおどしながら塔子は後方の席に着く。今だけは、この席は田仲塔子の席だ、と塔子は自分に言い聞かせていた。


 新しい先生が授業をする、と担任の沢田先生は言った。黒板に「自由時間」という四文字が間隔も字の傾きもまばらに書いてある。沢田先生の投げやりな気持ちが文字にあらわれている、と塔子は思った。机に置いてあるペンケースのジッパーを閉めて塔子はペンケースを握りしめる。「時間」はまだいいものの「自由」という用語がついているだけで塔子は動悸がするのだった。それに新しい先生だなんて、と塔子は思う。

 沢田先生の話によると国の教育機関からのお達しでその自治体が思う新しい授業をしなさいという指示が入ったのだそうだ。それが五月の頭の話であったから、その近く一ヶ月以内に新しい授業をしてその模様を報告しなさい、ということなのだ。沢田先生は小学五年生に分かる言葉で説明していたからそういった背景の部分は言葉にしなかったが、塔子は職員室で教頭先生からの朝礼で説明を受けている沢田先生の様子まで、透視によって見透かしてしまったために塔子だけそのような情報まで余分に受け取ってしまった。その時の沢田先生の感情までありありと塔子には分かってしまう。沢田先生はいつものようにクラスの生徒たちに話していたが、内心、おもしろくない、という感情が離れないようだった。

 塔子は、自由時間について考える。自由であることより決められていてほしい、と塔子は願った。沢田先生は、明日にでも新しい先生が授業一時限分を取って授業をする、明日の五限目だ、とクラスの生徒たちに言った。クラス内から新しい先生ってどんな人ー? どんなことやるのー? というごく当然な疑問の声があちこちから湧き上がり、沢田先生は、明日になったら分かる! の一点張りだった。大人が疑問に対抗する時、たったひとつの言葉だけを口にして時間を盾に押し通そうとする場面がある、と塔子はよく思う。それはそれで決められた事実としていいのだけれど、よく分からない内容の授業を受けさせられるという不安定な現実は変えられないので、塔子のなかでも不安の種を抱えることとなった。


 予鈴が鳴る。塔子は運動場から走って戻ってくる生徒たちを窓から見下ろしていた。塔子は窓際の席をあまり好まなかったが、先週の班替えをした際に窓際の一番前の席が空いてしまったから、うつむきながら自分の机と椅子を移動させた。窓際はいろんな居場所が見えてしまうから苦手だ、と塔子は思う。教室まで戻ってきた女子がサッカーボールを教室の後ろのカゴに投げ入れた。最近、サッカーの世界大会がテレビ中継で放映されているからサッカーが人気になっている。男女問わず、運動場のグラウンドに小さなコートを書いてサッカーをしている。その前はバスケットボールが人気だったので、スポーツ選手がテレビのなかで活躍している姿は、小学生のあいだでも話題になる、ということを塔子は誰か遠くの大人に教えてあげたいと思った。

 クラスメイトたちが席に着いて教室内はざわざわとした声が残っている。さっきまでの昼休みのことを話している同級生たちはいないようで、皆、昨日沢田先生から聞いた「自由時間」の授業のことを話している。またサッカーしに行ってもいいんじゃない? と段ボール箱に入ったボールのほうを指差しながら、それじゃ授業じゃないよ、と返答する声が返ってくる。自由なら何でもやれるよなー、と間延びした声で男子が言う。そうだー、自由ー、と他のクラスメイトも続く。私は、と塔子は思う。私は自由なんかではなくていい。

 ガラッと教室のドアが開く。沢田先生がずんずんとした足取りで教壇に上がる。その後ろからゆったりとした歩調で小柄な女の人が入ってくる。髪の毛は先生にはめずらしい真っ黒で、顎のラインで切り揃えられた髪型をしている。その女の人は薄いグレーのスーツで鎖骨のあたりでリボンを結んであるシフォンのブラウスを着ていた。沢田先生が教室内に声をかける前に自然とざわめきは遠のいていった。塔子は沢田先生の顔をちらと見る。沢田先生はむすっとした表情をして教室を眺め、それから隣にいる女の人に目配せをする。塔子も女の人に注目する。クラスメイトたちも互いに顔を見合わせたり壇上の二人に視線を送る。

 話し始めたのは女の人だった。

 「みなさん、こんにちは。私、夏目って言います。今日の授業を担当します。よろしくお願いします」

 夏目さん(塔子には何となく夏目先生とは呼びにくい雰囲気だった)は沢田先生の隣でお辞儀をした。沢田先生は何も言わずに教壇の真ん中を夏目さんに明け渡すようにして教室から出て行った。夏目さんは立っている場所から移動せずに教室を見回して言った。

 「「自由時間」の授業を始めます。三つのグループをつくるように机をくっつけてください。それができたら班を組むので黒板の前に名前を書いてください。はい、それじゃあ」


 夏目さんは先生というより何かのアテンダントの人のように塔子には思えた。沢田先生とは違って生徒たちに指示をしない。ああしなさい、こうしてはだめだ、などの声は一切なく、それは先生として生徒たちを導くための介入をしない。机を三つのグループにくっつける時も生徒たちからは、先生この辺でいいの? という声があちこちから上がったけれども、夏目さんはうなずいているのか微妙なラインで微笑んでいるだけだった。夏目さんからの返答を受けられなかった幾人かの生徒たちは、夏目さんに聞いても仕方がない、と思うようになり、自らリーダーシップを発揮させ、自分の近くにいる周囲の指揮をとるようになった。塔子はその流れを観察していたから、ゆっくりとその流れにのることができた。生徒たちが机をくっつけ、黒板に名前を書くまで二十五分かかった。

 黒板に書かれた名前は端に書いているものが多かった。黒板の真ん中あたりは空白になっており、夏目さんはその前に立って名前を眺めていた。生徒たちは自分の席に座っている者もいれば、まだ班分けしてないよ、と言って頑なに座らない者もいた。塔子は夏目さんの班を組むという言葉も覚えていて、かと言って自分の席という少ない居場所に着席できないことも不安に思っていて、本当は着席したいけれどできず、元の自分の席があった窓枠の前にペンケースを抱きながら立っていた。

 夏目さんは三色のチョークをケースから取り出した。赤、黄、青。夏目さんはクラスの生徒たちの人数を把握しているのか不明だったが、生徒たちの名前をランダムに色分けして囲んでいった(塔子の名前は青の円で囲まれた)。最後まで囲み終えると夏目さんは三グループの机の上にチョークと同じ三色の色画用紙を置いて、教室内を見渡した。その夏目さんの行動から読み取ったクラスメイトたちは少しずつ自分の名前が囲まれた色の机の近くへと寄って行っている。塔子は廊下側にある机のグループが青だったのだけど、窓際から歩いて行くために足を踏み出せずにいた。

 夏目さんは相変わらず何も言わなかった。赤のグループになったクラスメイトの一人が椅子を引き出して着席したのを合図に、その他のクラスメイトも着席しだした。塔子は徐々に遅れを取ってしまってあと数人しか立っていないという状況においても窓の前から移動できずにいた。夏目さんは塔子のほうを見なかったが、塔子は夏目さんの声を聞いた。(青、でしょう。)塔子の頭のなかに響く夏目さんの声は確かに塔子に話しかけている。実際の夏目さんは黒板のほうを向いて黒板に文字を書き始めている。クラスメイトの誰も塔子を見ることはしない。塔子は黒板の自分の名前を見る。青で囲まれている。青のグループの席だ。心臓がどきどきとしているのが胸の前で合わせた手に伝わってくる。あと三人くらいのクラスメイトが立っているだけで、そのクラスメイトたちも自分たちの色のグループへと着席するために向かっている。彼らは塔子のような動悸を感じている様子はなかった。塔子はもう一度、青、と頭のなかで繰り返してその言葉を胸のあたりまで下ろしてくるような印象で、塔子は小走りで青のグループの席まで向かって行った。その後、全員が着席する。教室の班はちょうど七人の三グループで均等な人数で分かれていた。


 一枚の紙に印刷された写真を塔子は見つめる。隣の席の秋村さんはみんなが声を出して話す内容をノートに書いている。普段から文字を書くことや授業の要点をまとめることが得意な秋村さんのノートは授業をよく聞いていないクラスメイトたちに評判で、二日後の授業のコマまで秋村さんのノートは次々とクラスメイトたちの手に渡ることが日常だった。秋村さんは自身のノートが手元になくても授業で沢田先生に当てられても誤答をすることはほとんどなかった。書きながら覚えているというスタイルなのだろう、秋村さんにとってのノートは、と隣でノートを書く秋村さんを見ながら塔子は思う。

 黒板には「教科書に掲載する写真」という言葉が書かれている。先生、教科書にの後ろの言葉なんて書いてあるの? けいさいです、ケイサイってなに? 教科書のページにあるってことです、という必要最低限の情報のやりとりを夏目さんと生徒たちは行った。塔子は新聞に短い文章をハガキで投稿することを叔父から勧められて取り組んでいたので、掲載という言葉は知っていた(月に一回ほど書いていた塔子の文章は掲載されることはなかったのだけれど)。夏目さんは、教科書のページをつくってください、とだけ言ってそれぞれの机に一枚ずつ異なる写真の紙を置いたのだった。

 しばらくして上野くんが写真の紙を手に取る。自分が見えるように両手で紙を持ち、少し遠くに腕を伸ばしたり目の前に持ってくるようにしたりして写真を眺めていた。

 「こんな写真って教科書のどこにでもあるだろ」

と、上野くんは半ば写真の紙を放り投げて言った。それから腕組みをする。上野くんの隣の席に座っている安井くんは「それでも何かこの写真が教科書に載っているページをつくらなくちゃならないんだ」と言う。塔子はその言葉を聞いて黒板に書かれている「教科書に掲載する写真」という文字を見つめ、そして、今は「自由時間」の授業、と思い出す。自由時間であるのに、夏目さんから指定された写真で教科書のページをつくるという作業をするのだ。塔子にはそれが相反する事象のように思えた。純粋な「自由」というものは存在しないのかもしれない、と分かって塔子は少しほっとした。

 「こんなの、何もないところからつくれって言うほうが無茶だよ」

 上野くんはやはり納得しない様子で呟く。教科書のページなんて、と上野くんは言葉を続けて、

 「誰かがつくってくれるものだろう」

と言った。塔子は机のなかにある教科書を取り出そうとして気づく。今は自分の机ではないグループでくっつけた誰かの席に座っている。そのためこの机のなかにある教科書は塔子の所有物ではない。教科書のページをつくるというのに参考になる教科書が誰の手元にもない。何かをつくるというのに何をつくればいいか誰もわからないのだ。

 安井くんは、

 「写真の説明文を書けばいいんじゃないかな。何が写っているとか誰が撮ったかとかそういうの」

と言う。横書きのメニュー文字を自分のいる場所からでも見れるようにする姿勢をとって、安井くんは写真を眺める。

 「僕はこの写真に花が写っていることが分かる」

 秋村さんは顔をあげて安井くんを見て、それからノートに書きつける。安井くんは草地であることや春っぽい季節のような気がするということなどを挙げ、その安井くんの言葉は秋村さんによってノートに書き加えられていくのだ。グループ内の他のクラスメイトたちも色の話や写真の紙の形(長方形である)の話をしている。自分の思った通りのことを話す雰囲気がつくられていく。塔子は、飛び交う言葉を聞いて追っているだけで、まだ何も発言できていなかった。グループではどんどん話がまとまりかけている。塔子はうつむいてしまって胸の前でペンケースを握りしめた。そんな塔子の様子は、やはりクラスメイトの誰からも見えていない。

 (何が見える?)

 ふと塔子の頭のなかに声が聞こえる。その声は夏目さんの声だった。塔子は振り返る。夏目さんは教壇の上に立っていて黒板を見ている。生徒たちがどんな教科書のページをつくるか、気にも止める様子はなく、ただ黒板の文字を端から端まで眺めているだけだった。塔子はもう一度、写真に視線を落とした。自分には何が見えるだろうか。そのことを考えはじめた時に、塔子の両肩に手が置かれた。塔子はびっくりして握っていたペンケースを落とし、それから席を立ちあがってしまった。グループのクラスメイトたちはいっせいに塔子を見た。塔子はその視線を浴びながらも振り返らずにはいられなかった。塔子は息をのんだ。背後には誰もいなかった。塔子が自分の背後にいたであろう人物、夏目さんは黒板に手のひらをつけていた。さっきと同じ様子だったので、塔子の背後にいた可能性は限りなくゼロに近い。

 塔子が視線を戻すと、グループ内のクラスメイトたちの視線とぶつかった。塔子にはクラスメイトたちの目が怒っているように見える。どうして壊すの、と。塔子はそう思えるたびに、縮こまって大人しくしてどこにも行かなければいいんだ、と変換してぎゅっとうつむく。本当は誰ひとりとして怒っていなくて、どうしたの、と塔子の言葉を待っているかもしれなかったが、塔子には人の視線というのが痛いほど突き刺さり、その視線に答えるだけの言葉も行動も持っていないのだ。

 (何が見えるかだけ言ってみてもいいのよ)

 また夏目さんの声が塔子の内側に響く。空気を通してではなく直接届く夏目さんの声は初めこそ戸惑いがあったが、次第に親しみがあり塔子は懐かしみを覚えるように思えた。塔子はまだ机の前で立ったまま、グループのクラスメイトたちは塔子に視線を注いだままである。

 「そ、その、花の裏には小人がいる」

 「え、何それ」と秋村さんは塔子の言葉に一番に反応してノートを書く手を止めた。「そんなおとぎ話みたいな話、今してるんじゃないじゃない」と秋村さんは続けて言う。塔子はそれ以上、何も言えなくなってしまうだろうか、と思ったが塔子は落ち着いた様子で秋村さんを見た。自分でもその落ち着いた行動に塔子は驚いたし、秋村さんも身をこわばらせた。塔子は落としたペンケースを拾って机の上に置いた。

 「小人は九人いる。花びらの影に隠れて自分たちの姿を隠しながら食糧や衣類を運んでいる。小人たちはそのことに慣れていて笑って話しながらでも、そんな生活を送れるの」

 塔子は言った。

 「私にはそう見える」

 そう言ってから塔子は席に着いた。塔子の話を反芻しているのかグループのクラスメイトたちはしばらく話さなかったが、上野くんが口を開いた。

 「おもしろいな」

 上野くんは口元をゆるませて言った。それから小人ってどこに住んでるのか、どんなものを食べたりどんな言葉を喋ったりするのか、小人に関することを塔子に聞いてきた。塔子に見えるのは小人がいる景色だけだったし詳細は伝えられないけれど、できる範囲での小人のことを上野くんに話した。塔子と上野くんの会話に入ってはこないが、グループのクラスメイトたちはじっくりと聞いていた。塔子は自ら言葉を伝えるために話していることに驚く。そして、今までクラスメイトたちと話す言葉を持ち合わせていなかったのだと思い込んでいたけれど、話せる言葉があるじゃないか、と塔子は思った。塔子と上野くんの会話がまだ続きそうになった時に、安井くんが割って入った。

 「でも、この話は教科書に載せる話だろうか」

 田仲さんに見えているだけで、それを教科書に載せてしまってもいいのだろうか、と安井くんは塔子に問いかけた。塔子は、小人の話ならいくらでも話せるけれど、その安井くんの問いに答える言葉は持っておらず、口にする言葉を見失ってしまった。塔子は気づく。自分には言葉の種類が足りないことに。そして塔子は黙り込む。秋村さんが、ノートには書いておいたけど、と言う。でも、教科書に載る話ではないと思う、と秋村さんは安井くんに賛同した。

 それから、塔子が話した内容以外でのグループ内のクラスメイトから出た話で教科書に載せる内容がまとまっていった。上野くんも塔子の話から関心は移ろってしまって、教科書に掲載する内容に対して、少し話したり質問したりするくらいの程度で参加していた。塔子はその後、何も話せることがなくなってしまい黙ったまま、「自由時間」の授業は終えてしまった。


 三つのグループで出来た「教科書に掲載する写真」のページの案を、夏目さんは複合機やPCのデータでスキャンするだけで、その後にどうするかを告げずに「授業を終わります。ありがとうございました」とだけ言って教室を去ってしまった。教室に残されたクラスメイトたちは呆気にとられて、ざわざわと落ち着かない空気が流れ始めたけれど、その後すぐに沢田先生がやってきて日常に戻っていった。沢田先生はいつもやる手拍子を打つ仕草を、いつもより多めの回数やっていたような気がする、と塔子はぼんやり思った。教室の座席は元に戻して、クラスメイトたちは自分の席に戻る。塔子もペンケースを抱きながら、グループから早く解放されたくて足早に自分の座席へと向かった。

 「自由時間」の授業から一週間ほど経って、沢田先生が生徒たちに横長の封筒を名前を呼んで手渡していった。夏目先生からだ、と沢田先生は言って配布していく。塔子は前に取りに行った。席に戻って封筒を見てみると外側には何の文字も書かれてなかった。塔子がそう思って沢田先生を見た時、学生番号順に並んであるのだそうだ、とタイミングよく言ったので、塔子はまた封筒を見つめる。沢田先生が生徒たちに封筒を配り終えてから教室を見渡し、封筒は夏目先生からのものだ、あの授業についてのことが全員それぞれに向けて書いてある、今見てもいいし帰ってからでもいいし、中身を確認しておきなさい、と沢田先生は言った。その言葉を聞き終えるか終えないかの時点で、教室のあちこちから封筒の封を切って破る音が塔子には聞こえた。


 塔子は教室に残って自分の席で封筒を見た。それほど分厚くはない。机に置いた厚みからすると半分に折った紙が一枚入っている程度だと思った。封筒の中身をすでに見た生徒たちから上がる声は、何だよ、とか、つまんない、とかそういう類の反応ばかりで封筒は中身と一緒にゴミ箱に捨てられるものがほとんどだった。塔子はその様子を見て少しばかりほっとしている自分に気づいて驚いた。

 封筒を手に取りながら塔子はその封を切る。塔子が思っていた通り、半分に折られた紙が一枚入っていて、そこに印刷された文字が数行書かれていた。塔子は頭のなかで夏目さんの声でその文字を再生しながら読む。

 (塔子さんは、見えるものが見えるのだけれど、その塔子さんが見えることよりも塔子さんにとっては見づらいものを見てしまっていて、それで居場所がない、と思っているのかもしれません。もっと塔子さんに見えるものを言葉にしていってもいいと私は思います。塔子さんが見えるものをみんなの前にあらわした時、それに反応があって、それに答える言葉がない、と塔子さんは思ったかもしれません。少しずつ練習を積み重ねていってはどうでしょうか。ただ、私はその言葉を持つことも大切だと思いますが、より塔子さんが自分の見えるものを伝えることもそれ以上に大切だと思っています。まずは、伝えに行ってみてください、みんなに。それが塔子さんにとっての嬉しいはじまりだと願っています。)

 塔子は、紙から顔を上げて前を見た。教室の掲示物がいろいろと貼ってある。それから窓の外を見た。放課後に遊んでいる生徒たちがいる。今は野球がブームになっていて、簡易のダイヤモンドを線に引いて野球をしている様子が見える。今は一塁に走者がいる。塔子は自分に見えるものが多くある、ということを夏目さんに言われるまで気づかなかった。ただあるものを見ることは、もしかしたら多くの人にとっては難しいことなのかもしれない。塔子には見えやすくても他の人には見えにくいこと。塔子は、自分のなかで見えることなんて、他の人に比べて大したことのないものだ、とずっと思ってきた。

 「それを伝える、って?」

塔子はつぶやいてみた。教室には誰もいない。誰の耳にも塔子の声は聞こえていない。塔子はペンケースを開ける。新しく削りたての鉛筆を一本取り出し手に持った。塔子は夏目さんからの紙を裏返しにして、そこに文字を書いていく。今、見える景色を伝えるために。

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