プロローグ ガーラ旧国にて
一言で表すならば、清流のようだった。
川を流れるような極めて自然な流動。その一方で、何者の干渉をも許さない確固たる能動。
その身を運ぶ足取りが、手にした大振りの剣が、我が道を遮るなとばかりに寸分狂わず刻まれ、敵を刻み捨てる。
目の前を覆い尽くしていた獣の群れが散っていく。白銀色の髪を揺らして少女が舞うたび、亡国ガーラの土地に≪ベスティージ≫の血肉が染みていく。
ただ一心に剣を振るう少女の蛮行を前にして。
「――――綺麗……」
セヴリン・ペラレスはただ一言、そう呟いていた。
「――ちょっと、聞いてる?」
「えっ、あ……えっと」
放心していたセヴリンが我に返ると、辺りを囲んでいた獣の姿はなくなっていた。代わりに、獣だったものの残骸がただただ無数に転がっている。
ドスッ、と地面に突き立てられた大剣はそれらを転がすのに使われたもの。獣の血を浴びて赤く染まってはいるものの、朝焼けに照らされる純白の刀身は眩いほどの輝きを放っていた。
そして、同じく白い――それこそ、白銀と呼ぶにふさわしい――透き通るような髪の少女が、腰を抜かしてへたり込んでいたセヴリンのことを見下ろしている。
「はあ……しょうがないわね。ほら、立てる? 掴まって」
「わ、すみません。ありがとうございます」
ため息とともに差し出された手を握り返すと、セヴリンの体は軽々と引き上げられた。
少女の顔が間近に迫る。
肩の高さで束ねられた長髪、宝石を思わせる濃碧の瞳。それらを具えた薄白の肌は上気してうっすらと赤みがかり、滑り落ちる汗雫が艶やかな色気を演出する。
「……大丈夫? どこか痛むところはない?」
加えて、慈愛と凛々しさを兼ね備えた声、言葉遣い。絵本に出てくる王子様のような振る舞いの中で投げかけられるそれからは、永遠に触れられていたくなるような温かさが伝わってくる。
(この人、やっぱり……)
綺麗、と、改めて心の底から思う。
街中で見かけた男性の風貌に「ちょっといいかも」と思った経験こそ何度かあっても、自分と同じ女性の美貌に目を奪われ、胸を熱くするというのはセヴリンにとって初めての経験だった。
しかし……
「……何? そんなにじーっと見なきゃならないほど、私の顔に何かある?」
そんな印象は一声でかき消された。
急な表情の変化と共に発せられた声は低く、落ち着いたトーンは威圧感の塊だった。無愛想に細められた瞼は鋭く、これまで美を象っていた髪、肌、瞳のイメージを冷たく一変させる。
「あ、ごめんなさい。え……と、つい見とれちゃって。その、すごく綺麗で……あっ、じゃなくて! 頭の『それ』がすごく気になって!」
「?」
なぜかいたたまれない気持ちになり、必要もないのに途中で変な誤魔化しを挟んでしまう。その言葉に首を傾げた少女は、額に手を当てて少し考えた後で「ああ」と意外そうな声を上げる。
「もしかしてこの≪ハル≫のこと? ただのティアラでしょ、そう珍しい物でもないじゃない」
「はあ……」
頭頂付近にあてがわれたその礼装は、貴族の女性が式典か何かで着けているようなそれだった。機動性に配慮されてか限りなく装飾を落としたシンプルな意匠だが、色が完全に黒で統一されているため、白の髪とのコントラストがとても映える。
「って、え? ≪ハル≫なんですかそれ?」
「? ええ、私はこのティアラを≪ハル≫にさせてもらってるけれど。だからそんなに珍しい物でも……」
「そ、そうなんだ……そんな高価な物でも≪ハル≫に……いや、そもそもティアラ自体実物を見るのは初めてなんですけど」
≪ハル≫とは要するに、人間が≪ベスティージ≫――獣の姿をとった人類共通の敵に対抗するために開発された全身兵装。中でも頭部位は自由度が高く、各々好きなアクセサリを指定できるのが特徴だ。
もっとも、戦場での行使が基本となる以上、彼女のそれのように高価で貴重な物は避けられる傾向にある……と、セヴリンは認識していたのだが。
「別にいいでしょ、こんなの何だって……どうせ他の使い道もないんだし」
少女は憮然としてそっぽを向く。腹立たしさ、というよりはどこかもの寂しさを感じさせるその態度に、セヴリンはただ黙るしかなかった。
沈黙が続く。風の音だけが二人を包み込む。徐々に強まっていく風が二人の髪を靡かせる。
その間、未だ冷たさを残す彼女の瞳から、セヴリンは目を離すことが出来ないでいた。
「……で、いつまでこうしてればいいわけ?」
「へ?」
「『へ?』じゃないわよ。いつまでこうやって支えてなきゃならないのか、って聞いてるのよ」
そこまで言われてようやく自分の状態に気づく。手を引かれて立ち上がった直後から、セヴリンの体は背中を支えられるようにして少女の腕に抱えられていた。
「わ、わっ、ごめんなさい!」
慌てて少女の腕を離れると、預けたままになっていた体重が両脚に戻る。まだ少し膝が震えているが、このまま歩き回るくらいなら問題なさそうだった。
「貴女、学院生よね? 朝っぱらからこんな場所で何してたわけ?」
そうこうしていると、手首を回しながら訝しげな表情で少女が訊ねてきた。
「わかってるとは思うけど、今≪イグドラシル≫は原則外出を認めていないはずよ。それが許されてるってことは、何か相当な理由があるってことでしょ?」
「ええ、まあ色々ありまして。えっと、何から話せばいいのかな……すみません」
少女の言う通り、セヴリンの住む要塞国家≪イグドラシル≫は国民の安全を守る名目で現在出国停止令を発令している。
原因は≪ベスティージ≫の急活性化。かつて世界中あらゆる地域に生息していた動物達と同じ姿をとったそれら≪ベスティージ≫は、その野生性を残しながらも明確に人類を「殺す」意思を持って襲い掛かる特徴がある。
≪ベスティージ≫の台頭によって人類の活動領域は瞬く間に狭められ、今となっては≪イグドラシル≫だけが大陸上に残る唯一の人類圏となった。何の対策もなくその外側に出ることは、即ち自殺行為に他ならないのだ。
「……ま、あまり深くは聞かないけど。ともかく、怪我がないみたいで安心したわ」
「あっ、そうでした! 危ないところを助けてくださって、本当にありがとうございました!」
「お礼なんていいわよ。勝手にやったことだし、かなりいい条件下での実戦経験が積めたわ。それより貴女、その制服……」
少女に促され、セヴリンは自分の体を見下ろした。平坦な胸元にあしらった学章の映えるグレーのジャケットに、紺のスカート。小柄な体に合わせて調整された真新しい学生服は、今や≪ベスティージ≫の血や泥にまみれて見る影もない。
「ああー……さすがにこれで登校したら……」
「まあ、間違いなく大目玉でしょうね。カーリー教頭とか特にそういうのには厳しいから」
「ですよねぇ……はあ、また帰って着替え直しかぁ」
そこまで口にして、セヴリンはふとあることに思い至る。
「あれ? そういえばあなたも学院の方ですか?」
今度は少女の姿を見回す。
制服の代わりに身に纏うのは、全身が一体になった特殊仕様のトレーニングスーツ。≪ハル≫を用いた戦闘と相性のいい素材のボディスーツは、指定衣類として学院から支給されるものだった。
「そうよ。≪アライズ工科学院≫高等部、貴女と同じ一年よ」
「そうだったんですね! わたし、実は今日から編入なんです」
「あー、そういえば昨日そんなこと言ってたような……」
学院生活が少し不安だったセヴリンは、滑り出しが好調だとばかりに浮かれ始めた。少女の手をとって目をキラキラさせる姿は、年相応に無垢な姿に見えたことだろう。
「わたし、セヴリン・ペラレスっていいます。編入予定のクラスはセカンダリィクラスです」
「急にグイグイ来るわね貴女……ディオールよ、よろしく。貴女と同じ、その……セカンダリィクラスの生徒だわ」
自己紹介を交わす最中、少女――ディオールと名乗った彼女の表情が曇ったことに、セヴリンは気づかない。それどころか、
「わーい、同級生だ、今日からよろしくお願いします!」
と有頂天になっていたのだった。
「……ま、それはさておき」
離される気配のなかった手を振りほどき、ディオールは地面に刺したままの大剣に手を掛けた。
「着替えるにせよ何にせよ、そろそろここから離れた方がいいわよ」
「? どうしてです?」
「決まってるでしょ、≪ベスティージ≫がいるからよ」
「え、これだけの群れを倒したのにまだいるんですか!?」
足元を見回す。二人の周りには、ディオールが斬り尽くしたばかりの≪ベスティージ≫の死骸が転がっている。小柄な個体が多いとはいえ、その数は十や二十では収まらず、辺り一帯は血の海のようになっていた。
「いるのよ、まだ。というか、私がここに来た目的も『そいつ』なのよ」
ディオールの目つきが変わる。大剣を持ち上げ、剣先に溜まった血を振り払う。
「……まさか、この風って」
瞬間、ザン、と鋭い音がセヴリンの耳元を掠める。遅れて頬に浮き出る一筋の血。それが、いつしか鋭く吹き荒れていた突風によるものだと認識するのに数秒を要した。
「ご明察。これだけ強いとなると、もうかなり近くまで飛んで来てるはずよ」
「そんな、戦うつもりなんですか? こんなのと!?」
セヴリンの驚愕も無理はない。
≪ベスティージ≫とは自然に生息する動物と等身大の存在なのだ。四足歩行の猛獣を始め空は猛禽、さらには魚類や昆虫に至るまで、自然界に生息するヒトを除いた全ての生態系と同じだけの幅広い生態を、≪ベスティージ≫は有していると言っていい。
逆に言えば、自然の生態の領域を逸脱するような≪ベスティージ≫は尋常のものではない。例えば、羽ばたき一つで風の刃を飛ばすほどの揚力を生み出せる猛禽など、『特異』と言い表されるのが相応しいだろう。
そして、そんな特異的な成長を遂げた≪ベスティージ≫は、人類史上において幾度となく観測されていた。
「言ったでしょ。それが目的でここに来たのよ、私は。外に出て特訓を重ねて、ようやく出会った好敵手。私はあいつを倒して、更なる強さを証明してみせるわ」
「そんな、無茶です! せめて私にも何か……!」
そう言ってセヴリンはポケットをまさぐる。手にした髪飾りは彼女の≪ハル≫。あいにくトレーニングスーツは身につけていないが、万一に備えて残る全てのパーツは装着済みだ。あとはこの髪飾りを着けるだけで≪ハル≫を起動させることが出来るのだが……
「……貴女、属性は何?」
「『火』と『土』の陰属性です」
「ならダメ。私が『水』の陽属性だから、相性が致命的に悪いわ」
「――」
セヴリンは歯噛みした。
ディオールの言葉は間違いではない。セヴリンの持つ力ではディオールの力にはなれない。
この世の素たる五属性。≪ハル≫の行使によって得られる力においては、その相関関係こそが重要だ。『水』を支えるのであれば、『水』か『金』でしか役には立てない。
かと言ってこれ以上制止をするのも憚られた。彼女の言葉が虚勢ではないと、その眼差しから伝わってきたのもまた事実だった。
そんな胸中を察したのか、ふとディオールが笑った。
「ありがとう、セヴリン。でも本当に大丈夫だから。ここは任せて早いところ逃げなさい」
「……ダメ、それは出来ません」
だが、セヴリンは首を縦には振らなかった。この状況で逃げに走ることが、彼女の経験から到底許されるものではない、と悟ったから。
何より。その顔が、その笑みが、出会ってからの短い時間でディオールが見せたどの表情よりも美しい、と感じたから。
「……私は逃げない。一人で戦うあなたを置いて逃げるなんて、出来ないんです。戦うことは出来ないけど、せめてここに居させてください。大丈夫、自分の身は自分で守れますから」
「セヴリン……」
二人の視線が交錯する。一方は熱い眼差しで、一方は困惑混じりに、互いの目を見つめ合う。そして。
「……はあ」
先に折れたのはディオールだった。
「うーん、そこまで命懸けの戦いってつもりでもなかったんだけど……ま、いいわ。わかった。そこにいて、セヴリン。しっかり守り通して見せるから」
「すみません、無理言って」
「いいのよ。おかげでちょっと気が引き締まったのも事実だから。まったく、我ながら何を根拠にこんな自信満々だったんだか」
言いつつ、大剣を横に一振りしてみせる。キキン、と二つ鳴る金属音。風の刃は依然として空を舞い、その頻度も徐々に上がっているのだった。
「ただし、セヴリン。一つだけ条件があるわ」
「条件?」
腕で顔を覆うようにしながら、セヴリンは首を傾げる。
「そのすぐに謝る癖、どうにかすること。さっきから事あるごとに『ごめん』だの『すみません』だのって頭下げてばかりで」
「え、あ、すみま、じゃなくて……うぐ」
慌てるセヴリンに、ディオールは、ふ、とため息混じりに微笑む。
「言っとくけど私、そんなに怖い人間でもないわよ。どう見えてるのかは知らないけど……少なくとも、貴女の前ではそんな風に振る舞うつもりはもうないから」
そう言って、改めて風と向き直る。ディオールの目が捉えていたのは数十フィート先、街の中心だった場所に立てられていた石造の残骸――ではなく、その奥。荒れ果てた大通りの向こうから飛来する、一翼の巨影。
それを目の当たりにしながら、彼女はゆっくりと、噛み締めるようにしてセヴリンの名を呟いていた。
「……一つだけ、言い忘れていたことがあったわ」
「はい?」
「セヴリン……いい名前ね、気に入ったわ。きっと、いえ、絶対に忘れない。約束するわ」
その言葉の真意が問われることはなかった。二人の会話に割り込んだのは、耳を刺すような甲高い咆哮。
キ――――ィィィィイイ!
「……あの時とは違うから覚悟なさい、猛禽の『特異種』!」
ついにそれは姿を見せる。
一対の大翼と鋭い鉤爪は本来の生態から受け継いだ進化の結晶。
青白い体毛とその上を血管のようにうねる赤い紋様は、『それら』が共通して持つ人類の敵としての証。
そして、廃墟と化した二階建ての民家が小さく見えるほどに異常発達したその巨躯は、紛れもない『特異』たる所以。
人呼んで『特異種』。またの名を『ベスティージ・シンギュラー』。
並外れた巨体と強靭な体躯を兼ね備える、猛禽の≪ベスティージ≫である。