006
アオイとお喋りに興じていると、書斎から呼び出しのベルが鳴った。
そこでアオイは話を止め、ミドリに書斎へ向かうよう指示し、自分は庭へと戻って行った。
「書斎からのお呼び出しってことは、藤村様が戻って来られたってことよね。急がなくちゃ」
なんて独りごとを言いながら廊下を小走りに駆け、書斎の前に辿り着いたミドリは、弾んだ息を整えつつ、緊張した面持ちでライオンが模られたノッカーを掴み、重厚なドアをノックした。
すると、待ちかねたようにドアが開き、中から、ここへミドリを呼んだ張本人が姿を見せた。
一ヶ月ぶりに藤村の姿を見た瞬間、安堵する間もなく、ミドリは頭を下げて言う。
「すみません。お帰りになってるとは知らなかったんです」
「頭を上げなさい。この屋敷は広いし、僕も、あえて正面から入らなかったから。君が謝る必要は、一つもない」
「はい」
ミドリが頭を上げると、藤村はニッコリと微笑み、ドアを広く開けて部屋の中へ入るよう促す。
それから、藤村はソファーに座り、隣を片手でポンポンと叩きながら、ミドリに向かって言う。
「ここへおいで」
「あっ、いえ。わたしは、メイドですから」
「慎み深いね。アオイくんとは、大違いだ。彼なら、促すまでもなく、勝手に座ってくるところだからね」
ミドリの態度に感心しつつ、藤村は、他愛も無い話を始める。
「エリから聞いたけど、本当に僕のことを覚えてないんだね、ミドリちゃん。震災の前に会ったことがあるんだよ? 国費でドイツ行きが決まったって、無二の友だった君のお父さんに伝えたくてね」
「ゴメンナサイ。こんな素敵な殿方にお会いしていたら、いやでも印象に残ってそうなものなのに」
「まぁ、若い頃の僕は、今とは、いささか印象が異なっていたからね。それより、渡したいものがあるんだ。ちょいと失礼するよ」
そう言って、藤村はソファーから立ち上がると、ループタイを緩め、シャツのボタンを第二まで開けてから首の後ろに手を回し、大小二つの鍵が通されたチェーンをシャツの下から引っ張り出す。それから、金具を外してチェーンを首から外し、そのまま、その手をミドリの首に回して金具を取り付ける。
「これって、もしかして……」
「お察しの通り、書斎の鍵さ。大きい方が部屋のドア、小さい方が書棚のガラス戸の鍵だよ」
ミドリは、エメラルドのように瞳を輝かせるながら、首からさがる鍵を手の平で下から持ち、真鍮製の二本をまじまじと見つめる。
「そんなに穴が開くほど見つめたって、本は読めないよ。僕は、まだ別の用があるから席を外すけど、君は、もう少しココで寛いでいきなさい。せっかく、これだけの書籍があることだしね」
「ありがとうございます」
ミドリは、感謝の意を込めて深々とお辞儀をすると、スライド式の書棚に並ぶ背表紙を見始めた。
藤村は、その様子を微笑ましく見たあと、部屋を出ようとした。が、ドアノブに手を掛けたところで何かを思い出したかのようにハタと足を止め、クルリと踵を返し、北向きの出窓の方を指差しながら、ミドリに、ひとこと言い残す。
「そこにあるロッキングチェアは、君のために買った物だから、遠慮なく使いたまえ」
「あっ、はい!」
ミドリが、想像の世界から舞い戻って急いで返事をすると、藤村は、満足げに大きく一度頷き、そのままノブをひねって廊下へ出た。
それからミドリは、じっくりと迷いながらも一冊の本を選び、小さい方の鍵でガラス戸を開けて中からそっと引き出した。
その洋書の表紙には、イギリス生まれの女性推理作家の肖像が描かれていた。




