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ミドリの母が、カランカランと鈴を鳴らしながら玄関の引き戸を開けると、円タクからカンカン帽をかぶった洋装の男が降りたところだった。男の片手には、ダレスバッグが握られている。
「ごきげんよう。久々にドイツから帰ってきましたが、いやに暑いですな」
「ご無沙汰申し上げております。今年は、いつもより暑いのではないかしら。お荷物、お持ちしましょう」
「あぁ、いえ。これは、商売道具ですから」
男は、ミドリの母がバッグを持とうとするのを、やんわりと片手で制すると、上半身を横へずらして玄関の奥を覗き込むようにしながら言う。
「お嬢さんは、お宅の中でしょうか?」
「えぇ、まぁ。狭い家ですけど、どうぞ」
「お邪魔いたします」
「さぁ、お上がりください。お帽子、お預かりします」
ミドリの母は、つっかけを脱いで先に上がり、それから、男から帽子を預かってフックに掛けると、靴を脱いだ男を奥の座敷へと案内していく。
その頃、二階ではミドリが、箪笥から出した真新しいワンピースに着替え終わり、鏡の前で最終チェックをしているところだった。
「インテリさんには、こういうドレスの方が良いわよね」
『お客様がお待ちよ。早くなさい!』
「は~い」
階下からよく通る声で聞こえてきた母の言葉に、ミドリも同じように大きな声で返事をした。
そして、裏面に蝶の蒔絵があしらわれた丹塗りの三面鏡台を、左右の羽根が揃うようにキッチリ閉めてから、ミドリは廊下に出る。それから、襖を閉めてからタッタッタッと軽やかな足取りで一階へと降りていく。
「そうですか。結核でねぇ」
「えぇ。ちょうど、ミドリが女学校に入った年の暮れのことで」
「そうでしたか。この帝国は、理想に燃える植物学者を一人失ったわけだ。大損害ですな」
菊と水羊羹が供えられ、線香が一筋の細い煙を漂わせている仏壇を横目に、座卓を挟んで男とミドリの母が歓談している。
と、そこへスーッと襖を開き、ミドリが姿を見せる。
「お待たせしました」
「おぉ、ミドリちゃん。しばらく見ないあいだに、大きくなったなぁ」
「本当に、着物や履物にも事欠くくらいで。――ほら、ミドリ。そんなところでボーっと突っ立ってないで、ここへお掛けなさい」
「あっ、はい」
ミドリは部屋の隅に重ねてある座布団を一枚持ち、母に促されるまま、仏壇から一番遠い席に正座する。
このあと、ミドリの人生を大きく変える話が持ち上がるのだが、それについては、話を改めよう。