014
「来たばかりの君に、こういう話をするのは良くないのかもしれないが、ここで働く上で、知っておいてほしいんだ」
「何でしょう?」
ミドリが居住まいを正して聞く姿勢になると、藤村は重い口を開き、訥々と語りはじめる。アオイは、すでに藤村の話に退屈しはじめているのか、出窓のほうを向き、穏やかに流れ行く雲を眺めている。
「象牙の塔という言葉があるように、研究者の世界は、どこか俗世間から孤立して、現実的でない議論を戦わせる場になりがちでね。学会なんてものは、出席者の顔ぶれが十年一日のごとく変化に乏しく、非常に閉鎖的なものなんだ」
「そうなんですね」
「で、毎回のように同じメンツが集まっていると、いつの間にか派閥ができ、軋轢が生じる。学会の場合は男ばかりだけど、女ばかりが集まっても、似たようなことは起こるんじゃないかい?」
「まぁ、男性の場合が、どういうものか知りませんけど、女子同士でも、他の子より優位に立とうと躍起になる子は居ましたね。わたしは、そういう子たちからは、なるべく距離を置いてましたけど」
「賢明だね。僕も、出来る限り、不要な付き合いを断ってるんだ」
「ふぁ~。いつになったら、奥様が出てくるんですか?」
前置きが長いぞと言いたげに、アオイは大きな欠伸を一つしてから口を挟む。藤村は、握り拳を口元にあて、エヘンゴホンとわざとらしく咳払いすると、中断した話を続ける。
「とはいえ、いつまでも独身でいると、家族や親戚からしきりに縁談を持ち込まれるし、家のことを任せられる相手が欲しいと思ってもいたから、見合いを済ませて結婚した」
「それが、奥様なのですね」
「そうだよ。そうして、医学の研究に集中できる時間を確保し、幾度となく実験を繰り返しているうちに、ある論文が進歩的な考えの教授の目に留まり、助教授だった僕は、帰国後に教授へ推薦しても良いという言葉に駄目押しされ、ドイツへ留学することになった」
「そして藤村様は、奥様とお嬢様の面倒を僕とエリちゃんに押し付け、単身でドイツへと旅立った」
「余計な茶々を入れないでくれ、アオイくん」
「だって、大変だったんだもの。――藤村様がドイツへ行ってるのを良いことに、教授昇進を良しとしない頭のカチンコチンな奴が夜中に東京の本宅へ忍び込んできひぇ、ムググ……」
アオイは、結論を先取りしようとしたが、藤村に口の端を引っ張られたため、話を止めた。ミドリは、急に目前を横切った藤村の腕に驚いたが、頬が焼いた餅のように伸びているアオイの間抜け面を見て、すぐに失笑した。