5、交わした“約束”
死にたい。いつもそう思っていた。
どうせ死ぬのがわかっていて待つ日々なんか意味もなにもなくて、ならもうさっさと死んでしまいたいと。それでも死ぬ勇気なんてないからいつも屋上で風に吹かれていた。そんなときに現われた椿とゴゴのおかげで俺はまた「明日」を楽しみにしていた。
それなのに。
「ゴゴが、死んだ…?」
朝、見舞いにきた母さんがそういった。
「仲良くしていたのに、本当に、残念…」
母さんはやっと俺が病院で友達ができたと喜んでいて、いつもゴゴのことを気にかけて大切にしてくれていた。だから母さんは涙ぐんでいた。
とその時、俺の部屋の扉が開いた。
入ってくるのは見慣れない女の人だ。
「こんにちは。7番くん、はじめまして。55番の、母です」
え、ゴゴのお母さん…?
母さんとはどうやら顔見知りらしく、軽く会釈を交わす。
「こ、こんにちは…。あ、あの、ゴゴ、…55番くんにはいつもお世話になってて…その…今回のことはとても残念だったというか…あの…」
「7番くん、うちの子といつも仲良くしていてくれてありがとう」
「そ、そんな、俺はいつもあいつに暴言ばっかはいてて…」
ありがとう、なんてそんな風に言われるようなこと、なにもしていない。むしろ救われたのは俺のほうなんだ。
「ううん。あなたの部屋に毎日行く姿を見てたり、いつも楽しそうにあなたのことを話す息子を見ていればわかるの。あの子はとても幸せだった」
「そんな!俺のほうこそ!ありがとう、って…あいつに言ってやりたかった…ッ」
言えなかった。
言わなくちゃ。
「ちょっと!どこに行くの!?」
後ろから聞こえる母さんの声。
あいつの部屋ってどこだっけ。確かすぐ隣だか二つ隣だかそのへんだったはず。
思いっきりドアをあけた。
「ゴゴ!」
……。
そこにはからっぽのベッド。窓から入り込む風に揺れる花。
“わッ、ナナ君!ナナ君から部屋に来てくれるなんて珍しいね!”
“べ、別にいいだろ。お前がいつまでたってもこねえから”
“うれしいなあ、えへへ”
部屋に遊びに行っただけで喜んでいたあいつの笑顔は?
“そんな喜ぶことねえだろ。お前のほうがはるかによくうちにきてんだから”
“ナナ君に会いたいからね”
“あっそ。…わざわざ来てやったんだから、感謝しろよ”
感謝すべきは俺なのに。俺だって、お前に会いたかったから…。
“あはは、そうだね、ありがとう、ナナ君”
あいつはいつもありがとうって言ってくれてたのに。俺は。
「ありが、…ッく、」
もう目の前にあいつはいない。
いないのに、ありがとうなんて、言えるか。
気づけばあいつの部屋の窓から身を乗り出していた。
そして窓に腰かけ、外に足を投げ出してみる。
涙がぽろりと一粒流れた。
「ちょっとさーくん!死んじゃダメ!」
今までずっと姿を現さなかった椿が目の前に浮遊した。
「…あっちいってろ」
「嫌だ!さーくん死にたがりだったあのときの目してる!」
「別に死んだっていいよ、もう、あの時と同じなんだから」
「…!ばか!」
五月蠅いな。
「…五月蠅いな。向こういってろよ。幽霊はいいよな、もうしんでんだからさ。俺もさっさと死ねればいいのに」
「…ッ。ひ、ひどい。いっていいことと悪いことってあるんじゃないの…?」
もう椿の顔なんて見ていなかった。
「もう、殺してくれよ、殺して…」
椿はなにもいわずに姿を消した。
「まって、椿…」
手をのばすけど虚空を掴むだけ。
「いかないで…」
ひとりにしないで。
あのときみたいに、ひとりにしないで…。
前みたいに戻ったと思ってた。
久しぶりにあった大好きな彼は変わり果てていた。死んだ魚みたいに光のない目、表情をなくしたような彼の顔。あの頃とはなにもかも違った。
死にたいと屋上で風に吹かれる彼は、かつて外の世界を教えてやるなんていってた面影はなかった。
私が毎日毎日付き合って、少しずつ笑顔をみせるようになったけど、それでも前みたいにはならなかった。
そんな彼が前みたいに戻ったのはやっぱり彼がいたからだ。
ゴゴ君。
ゴゴ君と話すようになって彼は毎日笑顔になった。
毎日死にたい、と明日が消えるように願いながら寝ていた夜は、明日もまた三人で話したい、と明日があるように願う夜になっていた。
やっぱり幽霊でしかない私はどうにもできないんだろうか。
私が幽霊だからだろうか。
また笑ってほしい。
死ぬことがわかっている人生でも、自分から死に向かわないでほしい。
私みたいに、最後まで生を求めてほしい。明日を求めてほしい。
ねえ。
それを教えてくれたのはさーくんなんだよ。
毎日部屋にこもっていた。幼い私でもわかっていた。生まれたときから思い心臓の病気をもってた私はもう大人になるまで生きられないこと。死ぬのがわかってる人生に意味なんてないと思ってた。
でも、違った。
あの日、私を外に連れ出してくれた彼は毎日私に“約束”をしてから別れてくれた。
“明日はサッカーしようぜ、約束な”
“明日は算数教えてやる。約束な?”
“あ、なら母さんの作るクッキーもってってやるよ、約束な!”
だから私は明日が楽しみになった。毎日毎日、明日を願った。さーくんがくれた“約束”を抱いて。
その“約束”は私が生きる糧だった。“約束”がある限り、私は生きようと思えた。
…思い出せ。
私が死ぬ前の日にした“約束”を。それが私たちが果たせなかった約束だ。
逃げるな。
ゴゴ君の言葉でわかったんだ。私は成仏されるのが怖くて逃げていた。いや、それどころか死んだ事実が怖くて自分の死と向き合ってなかった。だから死ぬ直前のことなんて思い出そうともしていなかった。
でも果たされなかった“約束”こそが鍵に違いない。
私が、本当に死ぬために。
天国にいくために。
天国で、さーくんに、ゴゴ君に会うために。
と意気込んだもののやっぱり思い出せないのだ。
あんなにやつれたさーくんだとはいえ、やはり言われた言葉は私の心を貫いた。反芻すればするほど心が痛くなる。
それほどゴゴ君の死はさーくんにとって重かった。
それほどゴゴ君の存在はさーくんにとって大きかった。
…あ、そういえば彼最後にこういってたな。
“ありがとう、って…あと、俺の本当の…な、まえ…――”
彼の“名前”は…
「新谷遥哉…」
遥哉君。
「はるや、くん…」
はじめて口にする彼の名前。それは非常に重い、重い三文字だ。
この日本から“名前”という表記が消えたのはもうずっと昔のことみたい。それでも人々の心から“名前”という概念は消えなかった。小さい頃、お母さんはそういって私に“名前”を付けてくれた。
それでも日本ではなくなってしまったものだから絶対に口に出してはいけないと同時に教えられた。お母さんとの秘密よ、と。
ゴゴ君、いや、遥哉君も“名前”を持っていたということは、やっぱり“名前”は人にそれぞれ与えられているものなんだ。制度から消えても想いは永遠に消えない。
口に出してはいけないそれを口にするだけ、遥哉君は私のことを、さーくんのことを信頼してくれていたのだ。大切な存在だと思ってくれていたのだ。
「ありがとう、遥哉君…。絶対に、忘れない」
伝えなきゃ。さーくんに。
遥哉君の気もちを。
案の定死のうと思われていたらしく俺はベッドに連れ戻された。A奈さんにまた怒られた。
またいつも通りの毎日。
あの楽しかった夏はどこにいってしまったのか。
寒々しい冬、外は雪が降り始めていた。
ふと窓を見つめるとタイミングがいいのか悪いのか、むしろあわせにきているのか、椿が窓にへばりついていた。
「…なんだよ」
「ゴゴ君から伝言があったの、さっき伝えられなかったから」
「そんなのどうせお前の作り話だろ。慰めようとしてんなら…」
「ゴゴ君の本当の“名前”、知りたくないの?いや、知らなくていいなんて言わせない。この“名前”は、ゴゴ君の“想い”なんだ!ゴゴ君から私たちへの最後の…」
“名前”…?
人々に古来から伝えられてきたそれは、口外を許されない、自分たちだけのもの。そして自分を証明するアイデンティティー。
「…来いよ、椿」
椿は俺のそばへと駆け寄る。
「ゴゴ君、最後にね、“ありがとう”って伝えてほしいって」
「…!馬鹿、伝えたいのは俺の方だっつの…!」
また、泣きそうになる。
あいつは前からずっとありがとうっていってたのに、死ぬ直前も…。それに比べて俺はなんだ。いつもあいつがいるのが当たり前みたいな顔して…!
「くっそ…、俺の方こそありがとうだ…!」
「それで、彼の“名前”は…」
ゴゴの、“想い”。
「新谷遥哉っていうんだって」
「しんたに、はるや…」
その7文字を噛みしめるように。ゆっくり、唱える。
「はるや、はるや…」
そう呟くだけでなんだか近くにあいつがいる気がした。
「俺も、“名前”、教えてやりたかったな。一緒に呼び合いたかった…」
大丈夫。この“名前”が俺の中にある限り、あいつは消えない。絶対に忘れない。俺の心で生き続けるから。
涙をぬぐって俺はやっと椿の目をみた。
「ありがとな、椿」
「ううん。…だから生きなきゃだめ」
「…それとこれとは話が別なんだよ」
「…私のこと成仏させるんでしょ!さーくんじゃなきゃできないことなんだよ!」
「でも」
「それともさーくんは、一生私をこの世界でさまよいつづけさせるの!?」
「…!」
「さーくんにしかできない、さーくんを必要としている人がまだここにいるのに、死ぬなんて、言わないで、私のこと、成仏させてよ、お願い…!」
ぐすんぐすんと泣きながら椿は俺の胸倉をつかんだ。
…忘れてた。
俺は、俺が死ぬまでにこいつを成仏させないといけないんだって。
じゃなきゃこいつは俺のいない世界で永遠に幽霊でいてしまうのだ。
そして死んでも現れない遥哉はきっと天国に行ったに違いない。俺たちはまたその場であわなきゃいけないんだ。
「…ああ、そうだったな、ごめん。俺が間違ってた」
こいつを成仏させなきゃ俺は死ねない。
再び意思を強めた夜、雪が、深くつもっていった。
朝、目が覚めると外は一面真っ白になっていた。
「わー!さーくん雪だよ雪!!!外いこうよ!」
「やだよ寒い」
「やだ!私まだ雪のなかではしったことないの!」
そういえばずっとあいつはベッドに居たもんな。
雪が積もってたその日は…。
「…お前が死んだ日も、こんなふうに真っ白だった」
そしてその上には。
「椿の花が散らばってたんだ」
その瞬間、椿は裏庭のほうへとんでいった。
俺はそれを追うように急いで裏庭へと。
「…ッ」
その光景はまさにあの日と同じだった。
白い雪の絨毯に散らばる無数の椿の花。
「椿…?」
「…思い出したよ、あの日の“約束”」
毎晩吐いていた。吐血もしていた。呼吸もしづらくなっていた。どんどんがたがくる身体は私の死期が近いことを示唆していた。
ニュースではもうじき雪が降ると話題になっていた。さーくんと見に行きたいな、なんて思ってた。
その日、私は外に出るなと言われた。もう外で遊んでいられるほどの身体ではないのだ、と。それでも私はさーくんに会いたいと、親や先生の言いつけを破っていつもの裏庭で走って行った。体調なんてなんでもないフリして…。
それでも私はダメだった。
“げほッ、けほッ!”
“いち!おい、大丈夫か!”
咳だと思って手で覆ったが、その手には血がついていた。
“いち…!だれか、だれか!”
“だ、大丈夫、呼ばないで、私とずっと一緒に居て…”
呼ばれたら、もう会えない。だから。
さーくんは恐怖にとりつかれて泣きそうになってた。だから。
“さーくん、約束、しよう?”
力のなくなった私を、さーくんは抱きしめた。
“は…?約束…?そんなことより早くお医者さん…!”
“明日も、また会いたいから、約束…”
すると、彼はふっと笑った。
“ああいいよ。…いつも俺がしちゃってるからな、今日は特別にいちからさせてやる”
エラそうなのに、私のことを気遣っているのがわかった。
明日もさーくんと会いたいと思った。だから生きたかった。
でも、私はもうすぐ死ぬんだなって、わかってた。
…だから。大好きなさーくんに秘密事があるのが嫌だったんだ。あったまま死ねないって思った。
“さーくんって、名前、もってるの…?”
その瞬間さーくんはびっくりしたように目を見開いた。
“…ッ、お前、それは”
“さーくんは、私のこと好き?私は大好きだよ”
いつも好きっていってるけど、でもその時のさーくんは真っ赤に顔を染めた。
“俺も…その、好きだけど”
“好きだから、いちの全部、しってほしいよ”
彼は静かに目を閉じて。私を抱き寄せて。
“もってるよ、名前は――”
と囁く彼の言葉を途中で遮った。
“言わないで。明日、きかせて?私も明日いう。それが約束”
「明日、お互いの本当の“名前”で呼び合う…」
俺はあの時交わした約束を口にした。椿は深くうなずく。
「そうだよ。でも私はその夜、死んでしまった。雪を見ることもできずに死んでしまった。本当の“名前”を伝える前に死んでしまった」
記憶の蓋をしめていたあの日の前後のことが一気に鮮明になる。
そうだ、俺はあの日椿とそんな約束を交わしていた。あきらかに病状がよくない彼女が怖くて、でも“約束”をしたから明日も会えると勝手に思ってた。
でも、次の日、ずっと待っていたのに。
その次の日も。
その次の日も。
二度と彼女が裏庭にくることはなかった。
そして“名前”を呼び合うこともなかった。
“名前”はその人の本質。核。その人そのもの。
簡単には口に出してはいけない、大切なもの。
だからこそ、本当に言っていい人は家族以外では人生でも一人や二人しかいないだろう。
椿を真正面から見つめる。
「俺の、名前は…」
何年も口にしていない己の名前。
「内弥瞬」
椿は、俺のそれを目を閉じながら聞いていた。
ゆっくりと目を開き、彼女の唇が動いた。
「うちみ、しゅん、くん」
「ああ」
「しゅん、くん」
「うん」
「しゅん」
「ん、」
「瞬」
「ふは」
嬉しそうに、何度も何度も俺のことを呼ぶ。俺自身を、呼ぶ。この国にいるあまたの「三番」ではなく、ここにいる“俺”のことを。
「椿の名前も、教えて?」
「うん。私は」
椿の目が泳ぐ。
「大丈夫だ、逃げるな、怖がるな。俺がいるから。絶対に離れないから」
「う、うん…」
ゆっくり俺は椿に近づき、抱きしめる。幽霊だから感覚はない。それでも。俺の存在がわかるように。
「大丈夫、だから」
「…伊月環那」
はじめて聴く、彼女の名前。
彼女の深い愛情が、胸にしみわたる感覚。
それを口にするのはなんだか緊張した。
「いづき、かんな」
「うん」
「かんな」
「うんッ」
「環那」
「はいッ!」
元気よく返事をする環那は新たな死を恐れてはいなかった。
ぎゅっと俺を抱きしめて何度も何度も俺の“名前”を呼ぶ。だから俺も抱きしめ返して呼び返す。
他に言葉なんて何もいらない。
その“名前”がすべてだ。
「もう、行かなくちゃ」
「ああ」
だんだんと薄くなっていく環那が自然と天へと昇って行く。
「瞬、ありがとう」
「俺こそありがとうな、会いに行くから。環那」
きっとこの“名前”があれば見つけられる。天国でも。
天へ消えて行ったあとも、俺はずっと空を見上げていた。
それから一か月、俺は懸命に生きた。自分から死ぬなんて馬鹿げたことはしなかった。環那と遥哉が天国で俺を待つなら、俺は生を全うしなければ失礼だと思った。
そして、俺は体調が急変した。
ICUへ運ばれたが俺はもう死ぬとわかった。
ゆっくりと薄らぐ意識のなか、声が聞こえた。
“瞬”“瞬君!”
“…環那、それに遥哉…?”
“ずっと待ってたよ”
“もう、思い残すことはないでしょう…?”
“ああ、もうない”
二人が天国で会えたとわかった今、確かにそれを感じる。
“天国ではみんなが名前で呼び合うんだ”
“通りで遥哉、お前が俺の名前知ってると思ったよ”
“早く呼び合いたいね”
“もうすぐそっちへいくから”
その瞬間、ぴーぴーという警告音がなる。本当に、死ぬんだ。
“瞬、大丈夫、怖くないよ。私がいるよ”
“ああ”
“瞬のおかげで私はここに来れた。今度は私が連れて行くよ”
その瞬間、身体がふわりと浮く感覚がした。
目を開けば眼下に広がるのは俺の身体と取り囲む医者。そして泣き叫ぶ両親。
死んだ。
俺は、死んだ。
“母さん、父さん、泣かないで、俺は幸せだ”
だってほら、俺の目の前には友達がいるんだから。嘘偽りのない、“俺”と、“伊月環那”と“新谷遥哉”という人間との邂逅。
「環那、遥哉。たでーま」
そして俺は初めて、番号という名前が死んで、“内弥瞬”になれたんだから。