2、隣の病室の少年
いちは、俺が小学生のときに良く遊んでいた女の子だった。
俺は近所の小学校に通っていて、はじめてあったその日は確かばあちゃんのお見舞いに来たんだったと思う。長話をする母さんとばあちゃんに飽きた俺は裏庭で暇つぶしをしていた。その時にたまため目があったのだ。窓から俺を見つめる、ある一人の少女に。―それがいちとの出会い。
「なに?降りてくれば?」
そういうといちはぶんぶんっと首を振った。
「なんでだよ」
「降りれない、おりたことがない、から」
そんな無茶苦茶な理由があるか。そう思った俺はわざわざ病室まで向かった。たくさんの管につながれた彼女を見た俺は一目でわかった。この少女は大変な病気なんだって。それでも当時の俺には関係なかった。
「俺が外の世界を教えてやるよ」
差し出した俺の手。
「…連れ出して、私のこと」
そういっていちは俺の手を握った。
それから俺たちは毎日放課後遊んだ。俺の学校での番号が3、彼女の病院での番号が1番だから、それぞれ「さーくん」「いち」と呼ぶことにした。勉強も運動も学校1できていた俺は、勉強をいちに教えたり、特に得意だったサッカーをいちと一緒にしたり。そんな風にして遊んでた。
その日は大雪が降っていた。雪の重さで綺麗な椿の花が地面に落ち、赤く染まっていた。俺は何でか今となっては思い出せないがいつも以上にいちにあいたい日で。しかし、約束の時間、約束の場所にいちの姿はなかった。その次の日も、その次の日も。でもまだ小学生の俺はなすすべもなく気が付けばもうばあちゃんも退院していて、この病院に用がなく、近づくこともなくなっていた。
「懐かしいね」
「そうだな。…でもだめだ、“約束”が思い出せねえわ」
「思いついたら何でも試してみよ?」
「ああ、そうだな」
ちらりと病室のドアを見ると、なんか黒い影が見えた。またあいつだろうか。
「はぁ…」
「ねえ、あの子毎日さーくんの部屋の前にいるよ?」
「いい加減にしてほしいよ。毎日暴言はいてんのに」
奴が入院してきたのはたしか半年前くらいだ。かれこれ三か月くらいずっと毎日俺の部屋の前にいる。でも俺が毎度暴言をはくのでまともに話したことはない。
「ねえ、一回くらい話聞いてみたら?何か用事があるのかも…」
「嫌だ。俺は…椿以外と話すつもりなんてない」
そう、いちという呼び名は病院時代の呼び方だからやめてくれというので椿と呼ぶことにしたのである。
「私は幽霊だから。ねえさーくん、昔のさーくんはそんなんじゃなかったよね。学校に友達がいっぱいいるって、いつも自慢してたじゃない。私のことだって、病院でもっと友達作れって、いってたじゃない」
ずずずいと迫ってくる椿。顔をそむける。が、そむけてもすぐに俺の目の前には椿の顔面。
「やめろって椿」
「やめない」
「…もう誰かと無駄な人間関係作るの嫌なんだよ。もうあの頃の俺とは違うの」
すんっとフてくれされた俺は布団を頭からすっぽりかぶった。
「さーくん…」
「昔は確かに、お前の言うとおりたくさん友達がいた。自分で言うのもなんだけど俺は勉強も学年で1番できてたし、スポーツも得意でさ。特にサッカーは誰にも負けなかった。友達も多くて、まあいわゆる人気者ってやつだったと思う」
目を閉じればすぐに思い浮かぶ、あの頃の憧憬。
「でも俺は病気になった。かつての友達がお見舞いに来てくれた。ベッドを囲むほどたくさん来てくれた。…でも、それもたった一回だけだった。俺はずっと待ってたけど、その後お見舞いに来るやつは誰もいなかった」
椿は俺の情けない独白を聞いてくれてるだろうか。
「母さんは“みんな忙しいのよ”なんていって毎日お見舞いに来たけどそれも惨めで俺はもう毎日来なくていいって言った。俺はわかってた。お見舞いに一回こっきりしか来ない、その程度の人間関係なんだって。あいつらが俺と仲良くしていたのは俺と仲良くしたいんじゃなくて、俺と仲良くすることで自分の地位を守ってただけなんだって。俺はそのことに気づいちゃったんだよ」
結局のところ俺って人間はさ。
「病気になった俺にもう価値なんて、ない」
「そんなことない!」
「椿?」
「そんなことない!さーくんは、病気になったってさーくんだ!」
布団をはいで、俺は椿の頭をなでた。
「ありがとな椿、お前は優しいな。…でもな、もうあんな思いをするのは嫌なんだよ。あいつだって、番号見れば俺が余命もうないってわかるはずだ。だから同情するみたいに関わってくるんだろ。それもたくさんだ。この病気のせいで、俺はもう、今までみたいに友達っつー普通の人間関係が作れないんだよ」
「違うね、さーくん」
急に声が低くなった椿は怒っているように見えた。
「作れない、んじゃなくて、作らないんだよ。病気になって周りも変わったのかもしれない。でも、変わったのはさーくんもだよ。さーくんは怖いだけ。また裏切られるんじゃないかって、また離れていくんじゃないか、って!」
「ちが」
「くないね。私にはわかるよ、さーくんがいつもあの男の子のこと気になってるのも、怖がっているのも。だからいつも暴言はいて遠ざけようとしているのも!でも本当にそうなのかな。ねえさーくん、あの男の子の目、見たことある?ないよね。あの子、同情するような子じゃないよ。じゃなければ、毎日さーくんに暴言はかれてもさーくんと話そうとなんてしないよ。違う?逃げないでよ!さーくんはそんな子じゃないでしょう?」
迫る椿、蘇るトラウマ。突きつけられる現実、迫られる一つの見えた選択。
「…わかった、負けたよ。お前の言うとおり。俺は怖いんだよ。でも俺はお前を信じてるから、少し、少しだけだからな」
ばっとドアをあける。
「おい」「うわッ」
「うわッてお前がいつもドアの前にいんのになんでお前がいつも驚くんだよ。前から思ってたけどさ」
「ご、ごめん…」
「今日はお前に用がある。屋上にこい」
「え、でもあそこは立ち入り禁止じゃ」
「うるさいな、お前こそ俺に用があるんじゃねえのかよ、黙ってついてこい」
「は、はい…」
立ち入り禁止の非常階段をがんがんと音を響かせながら登る俺。無音で登る椿。音をたてないようにゆっくり登るあいつ。
「はー、今日も晴れてるからきもちいな」
「ま、待ってよ7番君、怒られないかな…」
「うるせえ。早くこっち来いよ、わかるから」
屋上の中心から俺はあいつを呼ぶ。するとおそるおそる階段から屋上へ足を踏み入れる。その瞬間強く風が吹いた。
「うわッ」
「風つよ…」
「あははッ」
「何が面白いんだよ」
「7番君、君がいつもここに来る理由がわかったよ。すっげえきもちい!」
俺はそのときはじめてあいつが笑う顔を見た。爽やかに笑う彼のことを俺は嫌いにはなれなかった。俺はさぞかし辛気臭い顔してるんだろう。しにてえしにてえって。
「あっそ。…お前、番号は」
「55番だよ」
「ふうん。じゃあゴゴ、って呼ぶわ。俺のこと、7番君とかじゃなくてナナでいい」
「え、い、いいの!?」
彼はさらに明るい顔で俺のもとに走ってきた。
こいつ、意外と椿タイプか?鬱陶しいぞ…。
「ナナ君!よろしくね!」
「はいはい…」
すると隣で椿が「さーくん頬緩んでるぅ」とにやにやしてくるので俺は無視することにした。
「お前にずっと聞きたかったことがあるんだよ」
「なにかな、ナナ君。俺何でも答えちゃうよ!」
「…なんで俺とそんなに話したがるんだ」
俺の価値は?
「どうして毎日俺の部屋の前にいた」
お前にとって俺って?
「毎日暴言はかれてもそれでもなんで」
それほどお前は俺に何を求めている?
「うーん。ナナ君と話したかったからだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「は?」
「今から言うことはナナ君を怒らせてしまうかもしれないけれど。俺、ここに入院してはじめて会ったのが君で。その時のナナ君を見て俺さ、絶対に無理しているのでは、さみしいのではって思ったんだ」
「え…?」
「廊下で一人歩く君を一目見てそう思った。だから話したいと思った。君の番号を知ってもなおそう思った。同情なんかじゃない。ただナナ君の近くに居たい。友達になりたい。ナナ君の気もちはわからないけど寄り添えるはず」
信じられないほど、強い「意思」を持った彼に俺は圧倒された。あっけなく、ただあっけなくこいつを「信用できる」と思うほどに。
「…でも一つだけ、下心があるかもしれない」
「下心?」
「寂しいんだよ、俺も。だから君と話したいのかもしれない」
「寂しい…?」
俺は寂しいんだろうか。
友達に囲まれていた毎日が、入院したというだけで急変した。まわりに誰も居なくなってた。周りには看護師と、医師と、年寄の患者だけ。そんな時突然現れた同じ年頃の男子。俺は少し期待しちゃったんじゃないだろうか。寂しさが期待に変わり、その期待がトラウマを呼び起こした。そして強く当たってしまった。
「俺は寂しいんだよ。…実は俺、昔転勤族でさ。いつも仲良くなってもすぐ離れ離れになってしまってた。でも仕方ないって思ってたんだ。でも小学校5年の時、俺には心からお互いを親友を呼べる友達に出会った。転勤族な事なんてすっかり忘れて俺はずっと一緒にいれるんだって、毎日遊んでた。でも、やっぱりこれも急な転勤で、別れを言う間もなく俺は数百キロもはなれた県外へ…。もう彼との連絡手段もないし彼がどこにいるのかもわからないんだ」
「ゴゴ…」
「その時俺は思った。もう、どんなに仲の良い友達を作ったってどうせ離れ離れになる。だからもう友達は作らない、って」
あの頃の俺と、同じだ。
「だからここに入院した時ほっとしたんだ」
「え?」
「もういろんなところに行かなくていいんだ、って。俺はここにいるんだって。だから君のことみたとき友達になりたいって思ったけど、君の番号を見た瞬間少し怖くなった。仲良くなっても、君がすぐに死んでしまったらまた…」
そうだろうな。俺は柵に寄りかかった。老朽化激しいこの柵が壊れないかなって、毎日体重をかけている柵に。
「そうだよ、俺はもうすぐ死ぬ。だからお前も俺に構うな。俺たちは仲良くなってもすぐ離れ離れにな、…ッ!!!」
バキッ。
嫌な音がした。それは願ったりかなったりの、柵が壊れる音だった。
ゆっくりと後ろに身体が傾く。
「さーくん!!!!!」「ナナ君!!!!!」
ゆっくりと後ろに倒れる身体。視界には泣きそうな顔で叫ぶ椿。そして手を伸ばすゴゴ。
やっと死ねるのか。ああでもなんか一瞬が長い。
悲しんでくれる人がいて、よかったな、なーんて。
「やだッ!生きて!私のこと成仏させるんでしょ!!!」
「…ッ」
「ナナ君!手!!!」
「ハ…ッ」
駄目だ。悲しんでくれる人がいる。俺のことを必要としてくれる人がいる。手を差し伸べてくれる人が、いる。
右手を伸ばせばゴゴがその手を掴む。
「ナナ君…ッ、俺はッ!もう逃げない!いずれ来る別れだって怖くないよ!君と!友達になりたいんだ!だから死んじゃダメだ!く、うあああああああああああああ!」
思いっきり引っ張ってくれるゴゴは弱そうな顔とは裏腹に頼もしく強かった。俺は彼の腕の中で泣きじゃくった。何が何だかわかんなくて、もう、感情もごっちゃごちゃで、そのごっちゃごちゃの感情は涙になるしかなかった。
結果として俺は助かった。
しかし、立ち入り禁止の屋上に足を踏み入れたということでかなり看護婦のA奈さんや主治医に怒られ、母さんにも泣きながら怒られた。そして非常階段にはついに南京錠がかけられ、俺はもう屋上に足を踏み入れることはできなくなった。
それでも。
「ナナ君!遊びに来たよ!」
「はいはい、どーぞ」
「椿ちゃんはいる?」
「いるよ~!」
「いるよ、だってさ」
こうして友達ができたから、もう屋上に用はないのだ。
毎日こうやって、ただ友達と笑っていられる日々が続けばいいのに。そう願う毎日。死にたいと毎日願っていた俺は、もういない。




