1、幽霊の正体
くっそ…眠れない。暑いのも一つの原因だとは思うが、もう12時はとっくにまわって、もう2時だ。深夜というか、朝、というか…。できればもう早く眠りにつきたい。完璧に目が覚めて眠れないならまだわかる。深夜勤務の看護師に怒られるとは思うがいろいろ作業ができるから。でも今は違う。眠い。確かに眠い。だがまぶたは重いのに、眠りにつけない。身体も、何もしていないのに疲れている。早く意識をなくして夢の中へ行きたいのに。蝉の音と、暑さと、時折耳元にくる蚊の音が煩わしくて仕方ない。
「あー…寝れね!」
周りのもう寝ている人に迷惑かけないように、小さく叫ぶ。
スー…
「…ッ?」
ドアがゆっくり開く音がして、思わず身を固める。何せこの時間だ。いくらなんでも怪しすぎる。それとも普段寝ていて気が付かないだけで、深夜に見回りでもしていたのだろうか。…いや、それはないはずなんだけど。
ゆっくり身体を起こし、見てみるも、人が入ってきた様子はない。
「…さーくん?」
「は?」
「やっぱりさーくんだ!うわー!久しぶり!」
「はぁ!?え、ちょ!?」
いきなり声がしたかと思えば見知らぬ女の子に抱きつかれているこの状況。
「ちょ、ちょっとまッ…」
「あ、ごめん、苦しかった?」
少女は離れて、俺のベッドの真向かいにたった。俺と同い年くらいだろうか。ストレートロングの黒髪はさらさらと揺れて、彼女は「こんばんは」とはにかんだ。姿は病院内で着用ができる白い浴衣のような服。ああ、その服はこの病院が配給してくれる寝間着じゃないか。
「あ、あの、勝手に個室に入ってこられても」
「さーくん、私だよ、覚えてないの?」
キョトンと首をかしげる彼女には大変申し訳ないのだが、俺は彼女を存じ上げない。
「君さ、他人の病室に勝手に入るのはダメだって普通にわかんない?」
「本当に、覚えてないんだね…」
彼女はようやく落ち着いたように肩を落とした。そんな顔されてもわからないし知らないものは仕方がない。
「悪いな、君のことは知らねえわ」
「随分変わっちゃったんだね」
小さく呟いた彼女の言葉に俺は胸の中がどろりと、滲むような痛みを感じる。
「…お前は誰なんだよ」
その言葉に彼女はふっと…儚げに、いや、薄く笑った。
ばたん。落ちていく意識の中でドアが閉まる音がした。
…生きてる。眠い。強制的に起こされる病院生活では寝た時間が遅かったからと言って朝起きる時間が遅くなるわけでもなく、結果睡眠時間3時間半。
「ナナ君、昨日ちゃんと寝た?」
俺を担当している看護師、A奈さんが朝ごはんを持ってきたとき、そう聞いてきた。眠いのがみえみえってわけだ。
「…あんま寝れなくて」
「そっかぁ。大丈夫?」
「別に」
死んでない。昨日地獄からの使者が来たと思ったのに。生きてるのだ。
「おはよ!さーくん!」
「…ッ!?」
ぎょっとして声のする方をみると、あの例の少女がまたふわふわ浮いていた。
「ナナ君?どうしたの?」
「…い、いえ別に」
A奈さんの返事をしてる暇はないからぶっきらぼうな返し方になったが普段からこんなだからA奈さんはさほど気にした様子でもなく、「じゃあまたあとで来るね。ちゃんと全部食べるのよ?」といって病室をでていった。
「…夢じゃ、なかったのかよ」
「違うってば。私はちゃんとここにいるもん」
ほら、と自分自身の指で自分の顔を指さす謎の少女。
「じゃあお前はなんなんだ」
「うー、本当に覚えてないんだね、さーくん…」
少女はあからさまにショボンと肩を落とした。めんどくせぇこいつ…!
「なんだよ。じゃあ名前言ってみろよ、思い出すかも」
禁忌の質問だけどまあ相手が幽霊ならいいや。
「ふッ、名乗るなら先に名乗るべきなんじゃないかぁ?」
「突然のキャラ変!?幽霊なら俺の名前くらいわかるんじゃねえの。地獄からの使者なのかとばかり」
「さーくん!…って地獄からの使者じゃない!」
「さーくんって名前じゃねえけど」
「……………。……?」
「…。いや何黙ってんだよ名乗れっての!」
「貴様が名乗らんからのぉ」
「だから誰だよお前!」
「うるさいなピーチクパーチク!」
「どっちが!!!」
「ナナ君…?どうしたの…?」
「「!」」
謎の幽霊少女はびっくりしたように窓の外へ逃げて行った。…と思って窓を見ると、5階の窓の外にへばりついてこちらを見ていた。鬱陶しい…。
「あ、いや、その…」
「窓…?何も見えないよ…?」
…俺にしか見えていない?じゃあますます怪しいじゃん俺。
「か、関係ありませんよ、A奈さんには」
「そ、そう、だねぇ…」
はは、と苦笑いすると永奈さんはカルテに何か必死に書き込み始めた。変なこと書かれている気がする。勘弁してくれよ…。
「じゃ、じゃあまたお昼にね。あ、屋上行っちゃダメだからね」
またそれか。毎日毎日同じこと言ってて飽きないのがすごいよな。看護師って大変。
といいつつ俺はいつも通り病室を出た。
「うわッ」「あッ」
病室の扉をあけた瞬間、目の前にある男がいた。あいにく俺はこの男の顔を見飽きており、はーと大きなため息をついた。
「…俺の病室の前で何やってんの」
「あ、7番君ッ、あのさ、」
「きもいんだよ、ずっと人の病室の前にいてさ。なんのつもりだよ」
「あのね」
話を最後まで聞くことはなく、俺は無視して歩を進める。
すると俺の目の前にまた女が浮遊してくる。その顔はなんだか怒っているように見える。ぷくっと頬を膨らませていた。
「さーくん、さっきの男の子悲しそうな顔してたよ。用があったんじゃないの?」
「っせえ。あいつはいつも俺の病室の前にいんだよ。キモチワルイ」
「ねえそこ立ち入り禁止だよ」
そう、立ち入り禁止の非常階段をのぼっていく。でもその屋上は。
「…はあ、落ち着く」
「ねえさーくんってば」
「お前そろそろ鬱陶しいからどっかいってくんない?」
せっかく静かな空間だからとここにきているのになんだかよくわからない幽霊のせいで台無しである。すると幽霊はすっと静かに消えて行った。
屋上は強い風が吹いていた。
いつもの通り、柵まで歩き、外を眺める。
「地獄からの使者ならよかったのになあ」
昨晩幽霊が見えたとき、少しほっとした。やっと死ねるのかなって少し期待した。そして朝いつも通り目覚めていつもと変わらぬ日々に少しだけ落胆した。
ここは市内で一番大きい病院。俺はそこに入院してかれこれ5年ほどになるだろうか。治る見込みもない難病に侵された俺の身体はただただ延命治療を受けるしかなく、なんだかんだと5年も生きてきた。それでも俺は知っている。
「…ゆーて7番だからなあ」
どんどん番号がわかくなっていく。俺に与えられた番号が。もう7、一桁まできた。それが何を意味するか。高校生にもなった俺はもう気づいていた。
この世界から“名前”という概念が消えたのは俺が生まれるもうずーっと昔の話。300年以上も前だと授業で習っている。
俺の歴史知識で申し訳ないが、今から500年以上も前、この国にはマイナンバー制度というものができたらしい。マイナンバーは国民一人ひとりに番号を振り分けたもので、それをカード化したものだ。最初は個人情報がうんぬんとかであまり広まらなかったらしい。しかし、時代がたつにつれ、マイナンバーは広まり番号で人々は管理されるようになった。だんだんと国民は気づく。
“名前なんかより、番号の方が管理がしやすいじゃないか”
そうしたさなか、ついに政府が出したのは、「名前を持つことを禁止する」法律だった。
マイナンバーとは別に、人はそれぞれに様々な番号をもっている。例えば俺なら学校では3番。この病院では7番だ。特に番号がなにで決められているかはわからないが、病院においては一つの暗黙の了解というものがあった。…それは。
「早い番号ほど死期が近い、ねえ…」
病院では毎年番号が振り分けられる。俺はその番号が年々若くなっていく。それはどんどん俺の死期が近いことを示唆していた。この病院で7番目に早く死ぬ可能性がある。そういうことなのだ。
ぐっと柵を掴む手に力を込める。そして外へと身体を傾けてはるか下を見つめ「ストーーーーーーーップ!!!」
「はぁ!?」
下の道路をみていたはずなのに視界に急に現れたあの幽霊に俺は思わずしりもちをついた。
「なんなんだよお前!」
「しんじゃだめ!!!」
「は?」
「自分から命を落とすなんて許さない!」
「い、いやだからあの」
「私はッ!さーくんに生きててほしいよお…!」
「死なねえから!」
「え…?」
ぽかん顔で見つめる幽霊。俺は小さく溜息をついた。
「しなねーよ。なんもしなくてもどうせすぐに死ぬしな」
「さーくん…」
「あ、俺7番だからさ。な、すぐ死ぬって。まあそのさーくん呼びはやめてナナとか7番とか呼べよ、幽霊」
ちょこんとしりもちをついた俺の隣に座る幽霊はしばらく黙っていたが、急にこちらを向いた。その顔はなんだか決意に満ち溢れていたがなぜだろうか。
「…わかった。ナナって呼ぶよ。でも幽霊って呼ぶのはやめて」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ。幽霊に番号もねえだろ」
「…!確かに…。そうだなあ、椿って呼んでよ」
「椿ぃ?なんで花の名前なんだよ」
「いいから!椿!私は椿!」
なんだよめんどくせえな。ま、いっか。にしても人…じゃないけど誰かに番号以外で呼ぶなんて変な感じだ。この幽霊がどこから来たとか誰だとかもうどうでもよくなっていた。ただ、誰もしゃべり相手がいないこの病院で、めんどくさい人間関係もくそもない幽霊っていう存在なら都合いい話相手になると思った。幽霊なら裏切りもないだろう。そんな打算的考え。それでも俺は椿にこういった。
「はいはいわかったよ、椿。これからよろしくな」
仰向けになって他愛もない話をする。ああ、こんなどうでもいい話をしたのは何年ぶりか。タノシイな、なんて思わないこともない。仰向けになると今日は雲一つない青空だった。
しかし。
「あー!ちょっとナナ君!屋上には来ちゃダメって毎日いってるでしょ!」
「げ」
「げ、じゃない!病室戻る!おひるごはんの時間よ」
A奈さんに早々に見つかってしまうのだった。
「今行きますよ…。…ほら椿、お前もどっかいけ」
すると椿は「ありがとねッ、久しぶりにさーくんといっぱいおしゃべりできて楽しかったよ」といって消えて行った。ナナって呼ぶんじゃなかったのかよ。
それから椿はほぼ毎日俺のもとへと来ていた。だから俺も都合よくどうでもいいことを話す話し相手としていつも屋上でしゃべっていた。
そんなこんなで一週間ほど過ぎたある朝、窓の外は雨だった。
「ちッ…屋上はだめか」
夕方三時くらいまでは読書などをして過ごしていたがあまりにも暇だ。これだから雨の日は嫌い。椿もこういう時に限ってこないから本当にタイミングの悪い女だなと思う。
このままベッドに座っていても腰が痛くなりそうなので病院内のコンビニにパンでも買いに行こうかと立ち上がる。そして部屋を出ると…
「わッ」「うわッ」
また例のごとくあの男がいるのである。
もういちいち相手にするのも面倒なので無視をしてコンビニへ向かう。しかし。
「な、7番君!」
「…」
「7番君ってば!」
「うっるせえ!その番号で呼ぶな!!!」
雨音しかしない、暗く静かな廊下に響く俺の怒号。振り返ることは、ない。
「もうなんなんだよ!」
「ご、ごめん、俺7番君とお話したくて…」
“3番くんすげえな!”“サッカーめっちゃうめえ!”“テスト満点!?教えてよ!”“仲良くしようぜ!”
“お見舞いは最初の一回しかこない。その程度の関係だったんだよ”
「…うるせえっつってんだろ、去れよ」
「7番君、」
「去れって!もう俺に構うな!お前もどうせ…ッ」
ズキン。心に走る痛みに最後まで言葉はつむげない。
ただ、そのまま背を向けたまま俺はコンビニへと向かった。後ろからあいつが追ってくる様子はなかった。
病室に戻り、パンを貪る。
「さーくん、ねえ…」
さーくん。その響きにどこか懐かしく感じるのはなぜだろう。あの幽霊と初めて会うのに。
椿。
あいつが来ない。別に寂しくなんてないけど。つい窓辺を何度も見てしまうのはあいつが来ると期待しているからだろうか。どさりと枕に顔をうずめると次第に意識は薄らいでいった。
“さーくん!さーくん!こっちだよ、こっち!”
“いち!あんま走ると怪我すっぞ!”
“そんなことな、あッ!…うわーん、いたいよー!”
“だからいっただろ、ほら、俺の手つかめ”
“うん!さーくんだいすき!”
“さーくん!今日は何して遊ぶ?”
“サッカーでもするか?”
“さっかー?いちでもできる?”
“ああできるさ、こうやってな、ボールをけるんだ”
“わッ、あは、これが邪魔だけどたのしい!さーくん、いちもいつかさーくんみたいにこんな管だらけの身体じゃなくても生きていけるかな”
“あったりめえだろ。そしたらもっと広い場所で思いっきり走ろう”
“いち、いるか?”
“今日はいねえのか”
“いち?今日もいねえの?”
“いち…?”
“いち…”
「…いち」
頬には涙が伝っていた。
思い出した。全部。
居てもたってもいられない俺は病室を飛び出した。
非常階段の横をすり抜ける。椿がここが立ち入り禁止の非常階段なのかなんでわかったのか、それはあいつが昔ここに入院していたからだ。
そして俺はもうずいぶん来ていなかった、病院の外の裏庭に来た。なんで俺が全くここに来なかったのか。それは俺がきっと無意識にここを避けていたんだ。
「椿。…いや、」
あいつのことを。
「いち!」
あいつの存在を。
「いち!いるんだろ!」
記憶から消し去るために。
「遅いよ。さーくん」
後ろを振り返る。そこには長い髪の毛をゆらした「いち」が立っていた。
「いち」
あの日何度呼んでも現れなかったいちがここにいる。それにとてつもなく安堵した。
「さーくん」
いち、という呼び名はあいつが病院内で1番を与えられてたんじゃないか?つまりそれは…。
「お前…死んだんだな」
するといちは目を見開き、ふっとはかなげに笑みを浮かべた。
「えへへ、そうみたい。やっと私のこと思い出してくれたんだね」
「お前、成長しすぎて面影ねえんだもん」
小さい時はもっと顔が丸くて、髪の毛も短かった。あと、体中、管がいっぱい巻き付いていた。
「死んじゃったけど、死んじゃってよかったって、思ってるんだ、私」
「……」
「小さい頃は体中が管だらけで全然動けなかった。でも死んだらほらこの通り!」
くるりくるりと空中を舞ういちはとても楽しそう。死を嘆いてはいなかった。
「自由に外にいける。自由に移動できる。自由に動ける。幽霊になった私は自由なの。いろんなところにいけるの」
「そうか、よかった…な」
「あ、ほんとに思ってないでしょ。本当だよ?生きてたときのさーくんとの思い出は今でも大切。それでも私は、死んでよかった。幽霊としての今のほうがずっと楽しいんだ」
本当に、それでいいんだろうか。
俺の心はゆらゆらと揺らぐ。
「幽霊になった後、すぐにここに来たけどもうさーくんは居なかった」
「お前が死んだ日、俺はそんなこと知る由もなくいつもみたいにここにきてお前を待った。でもお前はいつまでも現れなくて…。しばらく通ってもいなかったからいつの間にかここを避けるように過ごしてしまった」
「私はいないからさーくんを探してこの町中を探した。さーくんの住んでるところなんて知らなかったから…」
「そんなさなか俺は難病にかかってしまった。そして奇遇にもここに入院した」
「私はもうこの病院には戻ってこなかった」
「「すれ違いすぎ!」」
はは、と二人で笑う。
「もう何年も避けてた病院に足を踏み入れたらさーくんがいて驚いた。…と同時に嬉しかったんだ。でもさーくんは私のことなんて忘れてて…」
「わりわり。今思い出したから勘弁」
「さーくん、死んじゃうの、やだよ…」
そういっていちは俺にぎゅっと抱き着いた。幽霊だから、抱きしめられた感覚なんてこれっぽっちもないけど…。
「…そのことなんだけどさ。お前、このままで本当にいいのか」
「どういうこと?」
「成仏できてねえんじゃねえの」
「ッ!」
「なにか、この世界に未練があるから、成仏できてねえんだろ。こんなところでずっとさまよってるのがその証拠だ」
「わ、私は今みたいにいろんなところに飛べるのが幸せで…」
「俺が嫌なんだよ!」
「さーくん…」
「この世界にお前残して死ねるかよ。きっと天国がある。お前はそこに行くべき人間だろ」
「…さーくんも一緒?」
一緒の保証なんてどこでもない。それでも俺はいちのことをしっかり成仏させてやりたかった。だから。
「ああ、俺も一緒だ。…俺が必ずお前を成仏させてやる」
いちは少し迷ったのか目を泳がせた。
しかし、少しの間をおいて俺を見つめる。
「幽霊仲間がいってた。成仏できないのはやり残したことがあるから。誰かとの約束を果たしていないからだって」
「約束…」
「私はさーくんと何か、約束をしたんじゃないかな」
「約束って、なんの?」
「ごめん、覚えてない…」
まあ、そんな簡単にはいかねえよな。
よし!
「わかった!じゃあこれからその“約束”を思い出そうじゃん?んでそれを果たせばお前はめでたく成仏ってこと!」
「そ、そうだね!さーくん、がんばろ!私はやるぞ!おー!」
これで、俺のしにたい願望が薄れるといいな、なんて。俺はこんなときでも自分のことばっかりだ。でも、あいつを成仏させたい気持ちは嘘じゃない。俺は近いうちに死ぬ。そしたら誰があいつを成仏させてあげられるんだ。その約束は間違いなく俺と交わした約束だという不思議な自信がある。だから。俺が死ぬ前にやってあげられることはやってあげたいのだ。
こうして俺はまた、いちと再会し、生きる意味を見いだせた。いちの成仏大作戦に向け、俺は天高く、拳を突き上げた。