あるオッサンの休日 中編
お越しいただきありがとうございます。
読めるものになっているのか…不安です。
「あ、もしもし、ぶちょーさんですか?」
「違いますよ」(ぷっ…)
聞かなかったことにする。うん…
ワインの栓に手をかけた。翼を拡げた鷲のイラストが猛々しいオーストラリア産は、価格もお手頃でここ数年お気に入り銘柄だ。
再び響くマスク卿…
息遣いが聞こえてきそうな、今にもマスク卿が迫ってきそうな不穏なメロディー。いいよ、貴方は来なくて良い…現実を振り切るようにワインに目をやる。この一杯を口に含めば今日の俺はもう出掛けられない…飲酒運転は犯罪です。
だいたい報告書を作っているだけの織谷にいったい何が起きるというのか。どーせ、しょうもない用事に決まっている。
この傑作をあいつに喰わせてやったらどんな顔するだろう…なんてことを先程まで思っていたことなど、すっかり忘却の彼方だ。まさかね、休みの日にメシ喰わせてくれなんていう都合よいお誘いであるわけもなし…
「…いや、あの、ぶちょー、ですよね?」
まさか切られるとは思っていなかったのだろう。織谷のあまりに自信なさげな情けない様子にほだされかける…いや、俺ちょろすぎね?
都合のよい妄想もたまには悪くない…もしかして俺はコイツに会いたかったのかも知れぬ。
「…どした?」
「いや、あの…」
「うん?」
「ついうっかり俺…、鍵置いたまま事務所…」
「知らん」(ぷっ)
今度こそ新世界のワインを開け、お気に入りのグラスに注ぐ。閉じこみしてしまった部下など知らん。
まぁ寒空に途方にくれる織谷の姿が思い浮かぶが…何て言うかその…今、酒のんだら旨い気がする(非道) 思わずグラスの中に深い赤が揺れた。
十五年ほど前、総合スーパーの売り場の片隅に包装すら無く、ペアもバラされて打ち捨てられるように最下段の棚で埃を被っていたそれは、安いくせに指で弾くと妙に澄んだクリスタルガラスの音が響いて…夏目さん一人でお釣りのくる値段に何かの間違いではとビクつきながらレジに持って行った記憶があるグラス。
まぁ一年ほどで割ってしまい、売り場に問合せ、本部に問合せして、売り場のお姉さま方のお口添えや尽力まで頂き、元々の商品を企画したバイヤーさんにまでたどり着けたのは本当に幸運だった。 コラボ先まで教えてもらえ、今では2脚揃えているそれ。お気に入りのオーストリアのメーカー品(お値段当初の五倍)はアラフォーおっさんの密かな贅沢だ。
飲み口の大きさや角度により、口をつけた時の鼻の位置などを調整して香りや口当たりが最適になるように設計された形状…らしい。 難しいことは兎も角として、実際千円程のワインが二~三千円クオリティーに感じるのだから仕方ない。
なにしろ初めは六百円のグラスとして出会ったにも関わらず、その効果を実感してしまったのだから。
プラシボ? 一生信じてれば良いだけだろう。
最近、特に思うのは、若者が知らない…こういったことを教えてやりたいなっていう感情だ。旨いものや旨い酒、楽しいこと…俺が成人した頃は、そういったお話はまだ世間には残っていたし、漫画やアニメの中には在ったように思う。
景気の良い人達の間では今でも残っているのだろうが、気付いたときには既に豊かだった時代の残滓でしかなかった。
その残り滓でさえも、今となっては見なくなったように思うし、残念ながら俺自身も経験させては貰えなかったが、自分も良い歳になった今、先輩達も気持ちとしては皆、自分達が更に上の先輩達から貰った物を俺達にも経験させてやりたいと思っていてくれたようには思う。景気が、社会が、それを許さなかっただけで。
ただ、かつては先達がそうして垣間見せてくれたものや、経験させてくれた世界が、憧れや願望となり社会を前へ前へ推し進める力の一端だったのではないかと思ったりもするのだ。
「ぶちょー、助けてくださいよ~」
織谷の声で、とりとめなく流されていた思考が戻ってくる。
「わりぃ、もう飲んじゃったわ」
「…ぶちょーん家、歩いて10分じゃないっすか」
「…」
守衛さんなんて大層なものが居ない弊社では、鍵を持たずに外出して閉め出されたヤツが、ツテを頼って俺に連絡してきたりする。まぁ毎年一人二人は居るもんだが、まさか直属の部下に呼び出されるとはな…確かに俺んち歩いて十分。
お前が鍵を取りに来て、ついでに飯喰ってくんなら考えてやらないでもない…とか脳裏に浮かんだが、オッサン怖くてそんなこと言えんかった。
そもそも、ID預けるのは違反だし。
コイツは一応、俺の部下で、そう意味では助けに行ってやるべきだが…なんかなー。今、どんな顔して織谷に会えば良いのか分からん気がするわ。そもそも、微妙に避けてた筈なのに、休日まで顔会わせるとか。
先日まで感じていた隔意は兎も角、視界の端の、今まさに出来上がる直前のトマトソースと鶏肉が俺の心を引き留める。
部下か…うまい飯か。ついでにトースターからも香ばしい香りが漂ってるしな。
「当然うまい飯だよな」と心の会議では本能系美食族たちが雄たけびを上げていたが、多数決では無所属派の賛同を得た社会派人権族が僅差で勝ちを収めたようだ。
未練がましく、出来上がったそれらを一瞥すると思わずため息が出てきた。
「よりにもよって、このタイミング」
声に出して肩を落とした。思わず「ガックリ」と口で言ってしまいたいくらいの心境だ。
「スんマセン…」
お読み頂きありがとうございます。ちまちま直しながらもう少し書かせて下さい。
がんばります。