第1話 俺の日常
「つ、つ、疲れた……!」
心からの叫びが、俺の口から漏れた。
地獄のような養成所のレッスンがようやく終わった解放感と、
講師に厳しく叱られた疲労感で、俺の精神状態はどん底を彷徨っていた。
そして、今”俺たち”は、養成所の近くの喫茶店にいた。
「和飛、この程度でダウンしてたらこの先暗いぞ?」
「う、うるせーな! 別にダウンしてねーよ!」
「どうだか?」
今、俺の顔をじろじろとニヤニヤした表情で見つめるこいつは栗田正明。
俺とは同期で養成所に通っていて、まあ一応親友だと思っている。
外見は至って普通で、紺色のショートヘアー、そして黒縁の眼鏡が特徴なやつだ。
本当に外見だけだったら、知性溢れるかっこいいやつだと思うんだが……
「いや~それにしても、レッスンの台本に妹キャラが出てくるなんてな!」
「はぁ、そう言うと思ったぜ」
「やっぱ、ああいうツンデレな妹も、俺の理性をそそるぜ!」
「妹だったらなんでもいいのかよ、お前は……」
「ああ、なんといっても妹は全世界共通の癒しだからな! ぐふふっ」
……とまあ、見た通りというか、こいつは超がつくほどシスコンなのだ。
ろくに妹がいないくせに、妹もののアニメとかだとはぁはぁ言って見てやがる。
まあ、シスコンというのも分からなくもないのだが……
「それより和飛、この間の進級審査、どうだったの?」
「聖乃、そう言うことは気軽に聞くもんじゃないぞ」
「あ~通らなかったんだね……」
「う、うるさい! 俺はああいう審査系が苦手なんだ!」
今栗田の隣に座っていて、俺に思い出させてほしくないことを思い出させたこの
男勝りの女は、葛ノ葉聖乃。
男勝りというのは主に性格面のことで、外見は完全に女性だ。
茶髪のゆるふわなショートヘアーで、髪留めのウサギさんをいつもつけている。
聖乃は俺や栗田より少し遅くに養成所にやってきたのだが、実力主義の養成所では
俺や栗田をあっという間に抜かして、今では最高科のクラスの研修科にいる。
そんな俺や栗田は、最低科のクラスの基礎科にいるのだ。
そして、この俺、栗田や聖乃が言っていた和飛という名前は、他でもない俺の名だ。
伊吹和飛、こいつらと同じく声優の卵で、まだ実力もない。
だが俺には大きな夢、目標がある。
俺の名を声優界に轟かせること。
この夢をかなえるために、俺は今でもめげずに養成所に通っているし、何より、
”あいつ”との約束のためだ。
あいつ……七瀬彩音。
わずか一年で事務所所属を懸けたオーディションに合格し、今ではアニメや音楽界
などに引っ張りだこな彼女は、俺と栗田と同じ時期に養成所に入った同期だ。
透き通るような癒し声とその声に反するような小柄な体型。
ルックスと性格も含めて、すでに一部では”天使”という異名をとっている。
そんな彼女と交わした約束を、俺は今も心に留めて、挫折しそうになったとき、
心が折れそうになった時に、いつも思い出して踏ん張れてきている。
要するに、俺が声優を目指してこれているのは、彩音のおかげだって言うことだ。
「それより、和飛はこの後何か用事あるの?」
「ああ、この後バイトだ」
「でた、週五のコンビニバイト」
「うるせーな、俺の収入源はバイトのお金しかねーんだよ」
そう、俺は週五シフトのコンビニバイトで、何とか生計をたてている。
一人暮らしということもあるが、何より家から縁を切られた身なので、
当然仕送りなどもないし、バイトでしかお金は入らない。
何故縁を切られたか……というのはまた今度話すとしよう。
「今日はみんなでカラオケに行きたかったのにな~」
そう言う聖乃は、ぐっと顔をテーブルにもたれかけた。
「まあ、俺は特にこの後用事はないが、和飛がいないんだったらな……」
「悪いな、俺の生活のためだ、こればっかりは譲れない」
「せっかく和飛の歌声聞けると思ったのにな~……」
「俺の歌声なんか聞きたかったら今でもここで歌ってやるぞ?」
「おう! だったら俺も和飛とデュエットするぜ!」
「いやいや! ここで歌い始めたら完全に私たちイカれた奴らだと思われるでしょ!」
あ~確かにそうか……
まあ、俺はともかく栗田はイカれた奴だからあの言葉に語弊はないんだがな。
「なあ、和飛。お前今物凄い失礼なことを思ってただろ?」
「い、いや!? 全然!?」
「嘘がバレバレだよ、和飛」
聖乃にそうコメントされたところで、俺はふと喫茶店にあった時計に目をやった。
……おっと、もう間もなくバイトの時間だ。
俺は頼んでいたカフェラテを一気飲みすると、自分の席を立った。
「もうすぐバイトだから、俺はもう出るぜ」
「おう、またな」
「じゃあね、和飛」
「じゃあな」
俺は言葉短めにそれだけ呟くと、そのまま喫茶店を後にしてバイト先へと向かった。
*************
「疲れた~……」
家に帰ってくるなり、俺はベッドへと直行してそのまま倒れかけた。
かれこれ一年コンビニでバイトしてるけど、やっぱ疲れるぜ。
レジ打ちはもちろん、品出しや店内の掃除、接客もこなさないといけないし、
何よりタバコの銘柄を覚えるのは本当に苦労した。
まあ、今となってはどうってことないがな。
「あ~あ、さっさと発声練習でもして寝よ」
声優を目指すもの、そしてもちろん声優にとって、発声練習は欠かせない。
コツコツと積み重ねていく。
これが、声優になるには一番必要ななんじゃないかと、俺は思う。
……まあ、当然彩音みたいに天性の才能もあって損ではないが。
むしろ物凄い得である。
「ふぅ……もう寝よ」
発声練習を終えた俺は、途中から睡魔に襲われていてそれどころじゃなかった。
今日はレッスンもきつかったし、バイトもしたので疲労感が半端ない。
さぁ早く眠っていい夢でも見よう。
俺がそう思い、ベッドに体を入れようとした、その時だった。
プルルルル
「ん? メールか?」
こんな夜遅くに誰だよ、と思ったのだがあいにく俺のアドレス帳には数えられる
ぐらいしか入っていないので誰がメールをよこしたのか、安易に予想できた。
「……やっぱり栗田か」
差出人に栗田正明の名前を見つけると、俺はそのままメールの内容を見た。
「今放送されている深夜アニメの”妹がかわいすぎて仕方がない件”の
ヒロインにして妹の稲葉愛梨たんがかわいすぎて仕方がない件……」
あ、あの野郎……こんな疲れてる時に……!
こんなどうでもいい話、今度会ってからでいいだろ!?
「知るか! 疲れてる時にこんなくだらないメールよこすな!」
俺は怒っているアピール全開にそうメールを返信すると、そのまま携帯を投げ出して
ベッドに体を入れ、深い深い眠りについた。