関所破り
前作、『御前試合』の続編です。前作をまずお読みになってからお読みいただければ、より楽しんでいただけると思います。
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御前試合が行われた数日後のことだった。片倉安右衛門は右藤兵衛と、『おっちゃん』のところへ行く約束をしていた。『木刀』を加工した代金の支払いと、礼を言うためにだ。
安右衛門が暮らす離れから、門まで歩いていくと、母と下女のちよが立ち話をしていた。掃除の途中なのだろう、ちよの手には、ほうきが握られていた。ふたりは、なにやら深刻そうな表情で話をしていた。
「ちょっと出かけてきます」
「あら、いってらっしゃい」母が言った。
ここで、いつもならちよの軽口が飛んでくるはずだが、ちよは口を開かなかった。安右衛門はちよの様子が気にかかったが、家をあとにし待ち合わせの場所へと急いだ。
おっちゃんは、いつもの小屋で鹿の角を削っていた。城下から遠く離れた集落の、その外れにぽつんと建てられたこの小屋で、おっちゃんはいつもひとりで動物の皮や角を加工して過ごしている。兵衛の古くからの知り合いらしいが、彼もおっちゃんの名前は知らないらしかった。
兵衛は気を利かせているつもりなのか、集落のひろばで子どもたちと遊んでいる。
「こんにちは」
「おや、いらっしゃい」
「先日はありがとうございました」
「木刀は気に入ってもらえたかな」
「申し分のない仕上がりでした。おかげさまで助かりました」
「それはよかった。頑張った甲斐があったよ」おっちゃんは、ひゃっひゃっと笑った。
「今日はお礼を兼ねて、これをお持ちしました」
安右衛門は懐から、懐紙に包んだきんすを取り出すと、おっちゃんの前に差しだした。
「これはこれは。ありがたく頂きますよ」
おっちゃんは、きんすをうやうやしく受け取ると、中をあらためた。
「こんなに頂いて、いいのかな」
「私の気持ちです。受け取ってください」
「そうですか。ではありがたく頂くとします」
「だが、さすがにこれではもらいすぎだな。そうだ」
おっちゃんは立ち上がると、壁に吊り下げられていた、動物の毛皮で作ったちゃんちゃんこを手に取り、丁寧に畳むと安右衛門に差しだした。
「これを持って行きなさるといい。暖かいし、なにかと役に立つでな」
安右衛門は礼を言い、毛皮のちゃんちゃんこを受け取った。
家に帰ると、安右衛門はいつものように書を読んでいた。こうして書を読むのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。日が暮れ、障子が淡く紅に染まり、時を告げる寺の鐘が遠く聞こえてくると、ちよが夕げを運んできた。だが、やはり様子がおかしい。終始だんまりを決めたまま、ちよは戻っていった。
食事を終えると、安右衛門は母の元へいった。
「母上、よろしいですか」
母は、なにか縫物をしていた。
「おや、どうしたの」
手を止めると、安右衛門を招き入れた。
「ちよのことなんですが」
「そうなんだよ。実はね」
母の話はこうだった。
ちよには、城下から少し離れた村に暮らす母親がいた。父親は、ちよが幼い頃に亡くなってしまっていたので、ちよの母はひとりで田畑を耕して暮らしていた。
昨日のことだ、村からちよの元に使いがきた。使いが言うには、ちよの母が流行り病で倒れてしまった、とのことだった。ちよは、安右衛門の両親に相談をした。安右衛門の両親はすぐに村へ帰るように言ったが、ちよはきっぱりと言った。
「明後日は安右衛門さまがお城に上られる大事な日です。そんなときにお家を空けるわけにはいきません」
先日の御前試合のほうびとして、安右衛門は殿様にお目見えする手はずになっていた。安右衛門は涙が浮かんでくるのを感じていた。
母の話は続いた。
安右衛門の父、又衛門は、今日藩医のところまで行き、流行り病に効く薬はないかと尋ねた。藩医が言うには、あることはあるのだが今は当藩では切らしてしまっている、と。隣りの藩までいけば、あるいは、とも言った。隣りの藩は、大きな宿場町を持ち、流通が盛んにおこなわれていた。また、その宿場町には高名な医師がいると安右衛門も話に聞いたことがあった。
「ならば隣りの藩まで取りに行けば」
安右衛門は身を乗り出して言った。
「それがなかなか難しいらしいの。上の方への届け出やらなにやらで、ひと月はかかってしまうだろうって」
母はふうっとため息をついた。
安右衛門は、なにも知らずにいた自分に腹が立った。悔しかった。そして悲しかった。離れに戻り床についたが、その夜は一睡もできなかった。
翌日、安右衛門は正装をして家を出た。
出がけに、ちよが「いってらっしゃいませ」と声をかけた。その笑顔が、胸に痛かった。
殿様からお褒めの言葉をいただいたあと、安右衛門は寺岡勘太夫に呼ばれた。寺岡は御前試合で審判役を務めていた家老だ。少々の後ろめたさがあったので、安右衛門はなんの話だろうかと、緊張した表情で寺岡の元へ向かった。
「おお、来たか。ささ、そこに座れ、座れ」
「失礼します」おどおどしながら安右衛門は座った。
「本日はご苦労であったな。殿もご機嫌だったろう」
「はい、おかげさまで」
「ところで寺岡さま、お呼びになられたのはいか用で」
「そうだった、そうだった。実はな」
寺岡の口から出た言葉は意外なものだった。
「昨日、お前の父、又衛門が来てな」
安右衛門の父、又衛門は寺岡のところにも薬の相談に来ていた。なんとか寺岡の力で特例として薬を手に入れることは出来ないだろうか、と。寺岡は、難しいが考えてみよう、と又衛門に答えた。
「あちこち手を尽くしてはみたんだが、やはり薬を手に入れるのは難しいようだ」
「残念だが、と又衛門に伝えておくれ」
寺岡はとても申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「父に伝えます。ご尽力感謝いたします」
安右衛門も深々と頭を下げた。
城からの帰り、安右衛門は兵衛の家を訪ねた。兵衛ならあるいは、というかすかな希望にすがる思いだった。だが、そのかすかな希望も失望へと変わった。兵衛は言った。
「あそこまで行くには、途中に関所があるからなあ」
「関所を破るとなると、これは立派なご法度だ。とんちやからめ手でどうこうできる代物じゃない」
「残念だが、今回ばかりは力になれそうもない。すまない」
家に着くと、母が安右衛門を迎えた。母は、ちよが村へ帰ったと告げた。屋敷がとても暗く、静かに感じる。
その夜、安右衛門はある決断を下した。父の部屋へ行くと、父は灯りの下で書き物をしていた。開けた障子の向こうに立つ安右衛門の、その表情を見ると、姿勢を正し部屋へ招き入れた。
安右衛門は、父に自分の決心を伝えた。又衛門は言った。
「おまえがそう決めたのなら好きにしなさい」
安右衛門は無言で深々と頭を下げると、足早に部屋を出て行った。
離れの部屋に戻ると、安右衛門は旅支度を始めた。予備のわらじ、干した芋、竹筒の水筒、それに、おっちゃんからもらった毛皮のちゃんちゃんこを風呂敷に包むと背中に担いだ。初夏とはいえ、山の夜は冷えるだろう。毛皮のちゃんちゃんこはありがたかった。
ひっそりとした城下町を急ぎ足で進んだ。だが、目立ってしまわないようにと留意もした。ここで知り合いに出会ってしまうのは、まずい。こんな深夜に旅支度で出歩いているのは、いかにも不審だ。
幸いに、だれにも会うことなく町の外れまで来ることが出来た。安右衛門は田に囲まれ続く道を、月明かりの下、星を頼りに方向を定め、急ぎ足で歩き続けた。
いくつ山を越えただろうか。安右衛門は道を離れ、山の中へと進んでいった。このまま道を進んでいくと関所にたどり着く。だが安右衛門は関所を越える手段を持っていなかった。山の中のけもの道を進んでいくしかなかった。全身に細かい傷を作りながら安右衛門がけもの道を進んでいくと、前方に明かりが見えた。慎重に近づいて、木の陰から覗き込んでみると、たき火を囲んで数人の男たちが寝ていた。山賊だ。安右衛門のように、関所を通ることが出来ずに山の中を通ってくる、わけありの旅人を襲っているのだろう。見つかったらまずい。安右衛門はそうっとその場を離れようとした。
そのとき、頭上から声がした。
「獲物だぞ」
見上げると、暗くてよく見えなかったが、かすかに人影が動くのを感じる。木の上に見張りがいたようだ。
たき火を囲んでいる男たちが起きだした。
安右衛門は、我を忘れて全力で駆け出した。顔を打つ木の枝の痛みも感じなかった。
どれだけ走ったのだろう。あっ、と思うと、安右衛門の右足が宙を踏み、そのまま崖の下へ転げ落ちてしまった。幸いに傾斜の緩やかな、柔らかな土の上を転げ落ちたので、安右衛門は怪我をせずにすんだ。落ちた先は、川の岸辺だった。ここはどこだろう。安右衛門は夜空を見上げた。
そのとき、なにか近づいてくるものが、川辺の小石を踏む音がした。安右衛門は、とっさにそちらに顔を向け目をこらした。大きな塊と、それより小さな塊が合わせてふたつ、こちらに近づいてくる。熊だ。おそらく母熊と子熊の親子だろう。親子連れの熊は危険だと聞いたことがある。安右衛門は迷った。全力で走って逃げようか。いや、だめだ。追いつかれて襲われてしまうのが落ちだ。ならばどうする。
考えがまとまらず、立ち尽くしていると、親子の熊は安右衛門のすぐ近くまで来てしまった。安右衛門は、もうだめだと覚悟を決め、目をつぶりその場にじっと動かずに立っていた。母熊が、安右衛門に鼻先を近づけると、ふんふんと臭いをかいだ。そしてそのまま立ち去ってしまった。ほっとした安右衛門が、でもなんでだろうと不思議に思いながら自分の身体を触ってみると、手のひらに動物の毛先の感触があった。そうか、おっちゃんからもらった、この毛皮のせいか。ある仮定に思い当たり、安右衛門は改めておっちゃんに感謝した。
先ほどの山賊たちに出会わないように、川に沿って少し歩いた安右衛門は、緩やかな傾斜を見つけるとそこから山へと登って行った。ほどなくして、山の頂近くで頭上が開けた場所に出た。あまりにも静かで星のきらめきが音として聞こえてくるような気さえする。安右衛門は天空を仰ぎ見て、知っている星の並びをさがした。そして、方角の見当をつけると再び歩き始めた。
宿場町に到着したときのことを、安右衛門はあまり覚えていなかった。昼過ぎの賑やかな街道に、泥だらけでぼろぼろの姿をした若者が現れ、町の人々は驚きと興味で対応した。そとの人間との応対に慣れた宿場町の人々は、この、みすぼらしい姿をした若い訪問者に対しても親切であった。安右衛門が医者の場所を尋ねると、旅籠に努める若者が、安右衛門の身体に気を使いながら連れて行ってくれた。
医者に会うと、安右衛門はまくし立てるように事情を説明した。話の前後がおかしくなり、医者は苦労して安右衛門の話を聞き、たまに質問を返していたが、やがて話の全容を把握した。医者は壁面を端から端まで埋め尽く薬棚の、無数に並んだ小さな引き出しのひとつを引き出すと、中から包みを取り出した。すると、また違う引き出しに手を伸ばし中から包みを取り出す。その作業を続けながら「おおい」と声をあげた。奥から若い娘が出てきた。
「いらっしゃいませ」
軽い会釈をしながら娘は言うと、医者が小脇にかかえた、いくつかの包みを受け取った。
「そうさな、二十日分くらいでいいか」
医者が言うと、娘はうなずき、作業台に着いた。慣れた手で薬を混ぜると、小さく分け、それぞれを薄い紙で包んでいった。
代金を払い、薬でふくらんだ包みを受け取ると、安右衛門は礼を言って店を出ていこうとした。そのとき、医者が安右衛門を引き留めた。
「お待ちなさい」
「なんでしょうか」
「お前さん、このまま、すぐに国へ帰るつもりかい」
「はい、一刻をあらそいますので」
「ならば、これを飲んでいくといい」
医者は、薬棚の小さな引き出しから包みを取り出すと、中から丸薬を三つぶ手のひらに転がし、安右衛門に渡した。
「効き目は保証するよ。いやいや、お代は結構だ。これはおまけだよ」
「ありがとうございます。いただきます」
安右衛門はその場で丸薬をぐいっと喉の奥に流し込むと、通りへと出て行った。
通りには、さきほど案内をしてくれた若者が、心配そうな面持ちで安右衛門を待っていた。安右衛門が若者に礼を言い、立ち去ろうとすると、若者が言った。
「だんな、すぐにお帰りなさるつもりで。そいつは無理だ、行き倒れになっちまう」
「悪いことは言わねえ。少し休んでいった方がいい」
しかし、安右衛門は、若者の気づかいに対し再度礼を言うと、足早に宿場町をあとにした。
やっとのことで自分の藩の境界にたどり着いたとき、安右衛門は身も心もぼろぼろになっていた。身体中は傷だらけで、滲んだ血が固まり、まだら模様を描いていた。四肢の先端は痺れ、感覚がない。見覚えのある景色を眺めると、ずいぶんと長い時間ここを離れていたような気になる。
安右衛門は、そのまま、ちよの故郷の村を目指した。今にも倒れてしまいそうな身体と、折れてしまいそうな心に鞭を打った。
日が沈みかけるころ、安右衛門はちよの村に着いた。畑仕事を終え、帰る支度をしていた農民の夫婦に声をかけ、ちよの家を訪ねた。夫婦は安右衛門の姿に驚き、顔を見合わせていたが、ちよの家までの行き方を丁寧に教えてくれた。
ちよの家の前に立つと、安右衛門は最後の力をふり絞り、腹の底から大声をあげた。
「ごめん。ちよ。ちよはいるか」
戸が開き、ちよが姿をみせた。
「若さま。どうして」驚いた顔で安右衛門を見つめる。
安右衛門はふらふらと、ちよに歩み寄ると懐に大事に抱えていた包みを取り出し、差しだした。その包みを見た瞬間、ちよは全てを理解した。
「ばかあ」
ちよは、安右衛門にしがみつくと泣き出した。
安右衛門は泣きじゃくるちよの肩を、包み込むようにそっと抱いた。腕の中で、ちよの肩が小刻みに震えるのを感じていた。
『ちよはこんなに小さかったかな』
朦朧とする意識の中、思う。
『ちよの体はこんなに柔らかかったのか』
安右衛門は、ちよの体から立ち上る甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして、意識を失い、そのまま倒れこんでしまった。
夏がきた。
安右衛門は、今日も離れの自分の部屋で書を読んでいた。熱い空気がこもった部屋には、蝉の声が降り積もっていくようだった。
関所破りの一件は、結果から言うとお咎めなしに終わった。のちに、父の又衛門がほのめかすように語ったが、安右衛門の関所破りはうわさとなり、一部の家臣たちの間で問題となった。が、それを家老の寺岡勘太夫が手を尽くし封じ込めたという。また、違うところで耳にした話によると、藤巻徹之助が筆頭家老の小谷忠房に、片倉安右衛門お咎めなきよう、と願い出たという。御前試合で安右衛門と戦った、あの藤巻だ。小谷は、御前試合いらい藤巻にぞっこんとなっていたので、藤巻の願いを快く承諾したという話だった。
安右衛門に以前のような日常が戻ってきた。
ただ、以前と異なっていたのは、たびたび寺岡に呼び出されるようになっていた。寺岡の屋敷に出向くと、ふたりで囲碁をうつ。囲碁の興が乗ってくると、寺岡は切りだした。
「のう、安右衛門。そろそろ城に仕える気はないか」
「なんなら、わしが口を利いてやるぞ」
すると安右衛門は答える。
「ありがたき申し出、もったいのうございます」
「ですが、わが身、まだ学業習得の道半ばゆえ、謹んでお断り申す」
寺岡はふふと笑う。このやり取りは、ふたりが碁をうつ際の恒例となっていた。
また、このごろ兵衛が安右衛門の離れに顔を出すようになっていた。
兵衛は、離れの戸口をくぐり、安右衛門の顔を見つけると。
「よ、関所破り」と、声をかける。
すると安右衛門は言う。
「よせよ。だれが聞いているとも限らない」
だが、その声には怒気は、はらんではいなかった。
「若さま、すいかをお持ちしましたよ」
ちよが離れにやってきて、言った。安右衛門は書を読むのを中断した。
あのあとしばらくして、ちよは片倉の屋敷に戻ってきた。話によると、ちよの母の容態もだいぶ良くなり、今では畑仕事もしているらしい。ちよは、あいかわらず口うるさく、たまに安右衛門をからかったが、そんなとき、安右衛門はちよの声を笑顔で聞いていた。
「そうそう、若さまにお手紙です」
ちよは、懐から手紙を取り出すと、安右衛門に渡した。そして、散らかしたままの着物や布団を、ぶつぶつ言いながら片づけ始めた。
「誰からだろう」安右衛門は手紙を開いて読み始めた。
「おい、ちよ」
「なんです」ちよは、手を休めずに答える。
「この手紙は兄上からだ」
「まあ、なんですって」
ちよは、いそいそと寄ってきて、安右衛門の隣にちょこんと座った。
「来月、お帰りになられるらしい」
「なんて素敵な。待ち遠しいですわ」
ちよは満面の笑みで話し続ける。
「わたし、お話したいことが、たくさんありますの」
嬉しそうに話し続けるちよを、安右衛門は笑顔で見つめていた。