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トランスレイター

作者: 砂金 回生

 ノアの洪水の後、人間は皆、同じ言葉を話していた。

 人間は石の代わりにレンガを作り、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れた。こうした技術の進歩は人間を傲慢にしていった。天まで届く塔を建てて、有名になろうとしたのである。

 神は、人間の高慢な企てを知り、心配し怒った。そして、人間の言葉を混乱させた。

 今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、バベルの塔を建てようとした人間の傲慢を神が裁いた結果なのである――旧約聖書「創世記」第十一章より


   ※


 東京丸の内の三立(みたち)製作所の本社。日本最大の総合電機メーカーの応接室のソファーに、スーツをスマートに着こなした中東の男が二人座っている。一人は現モロッコ国王アミール・ハサン六世、もう一人は、彼の参謀である。

 三立製作所の社長、三立宏明(みたち ひろあき)は、彼らの向いのソファーでにこやかに座っている。彼の後ろには、通訳者の烏丸明(からすま あきら)が座っていた。

 烏丸は上場企業の重役や政府高官を顧客に持つ一流の通訳者(トランスレイター)だ。今回、モロッコから国王のハサン六世が、自ら三立製作所の本社に来るという事で、急遽烏丸に通訳の依頼が来たのである。

「我が社の準備は万全です。来年から始まるサハラ・ソーラー・プロジェクトには、是非とも、我が社の太陽熱発電パネルを採用して頂きたい」

 三立は笑顔のままハサン六世に言った。

 烏丸はすぐさまその言葉をアラビア語でハサン六世に伝える。

 サハラ・ソーラー・プロジェクトとは、サハラ砂漠の広大な土地と、降り注ぐ灼熱の太陽熱を利用して、太陽熱発電で電力を生み出し、その電力をアフリカやヨーロッパに送電するプロジェクトである。これが実現すると、アフリカの電力需要の大部分とヨーロッパの電力需要の十五パーセントをまかなうことが出来ると言われている。領土にサハラ砂漠を有し、ヨーロッパとアフリカの玄関口とも言われるモロッコが、国家の威信を賭けて進めているプロジェクトでもある。それだけに、彼らはどこの太陽熱パネルを採用するか、慎重に検討しているのだ。

 最終候補に残ったのは、日本を代表する二社。三立製作所と日菱(ひびし)電機である。両社はこれまでこの巨大プロジェクトを受注しようと、熾烈なプレゼンテーション合戦を繰り広げていた。しかし、モロッコ政府はどちらの製品も甲乙が付けられないと、これまで最終的な判断を先送りにしていた。そこで今回、モロッコ国王で国家元首であるハサン六世が直接、交渉に乗り出したのだ。

「それで、仮に御社に太陽熱発電パネルの設置をお任せするとして、概算でいくらかかりますか?」

 ハサン六世は三立の目を見て聞いた。すかさず烏丸がそれを訳し、三立の後頭部にボソボソと伝える。

 三立はウンウンと頷くと、口を開いた。

「それは……」

「お待ち下さい」

 しかし、三立が金額を言おうとした瞬間、烏丸がそれを止めた。

「恐らく、彼らは金額でこのプロジェクトを受注するかどうか決めようとしています」

「う……」

 三立は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 烏丸の考えは正しかった。モロッコ政府は三立と日菱、どちらのパネルを採用するか決めかねていた。どちらのパネルも性能がよく、発電能力にも違いは無かった。それで、ハサン六世は金額を聞いてきたのだ。同じ質の製品があれば、安い方を買う。当たり前の事である。

「御社の提示する金額が日菱電機よりも高い場合、御社の太陽熱パネルは採用されません」

 烏丸は淡々と三立に伝えた。

「し、しかし……」

『今、金額を答えない訳にもいかんだろう?』

 三立は無言で咳払いをした。

 三立製作所は今回のプロジェクトに社運を賭けていると言っても良い。巨大プロジェクトの利益もさることながら、あのサハラ砂漠に自社の太陽熱パネルがズラリと並べば、その宣伝効果は計り知れない。三立の太陽熱パネルは日本中、いや、世界中で注目を集める事になるだろう。三立はどうしても今回のプロジェクトに採用されたかった。しかし、それはライバル会社の日菱電機にとっても同じ筈だ。もし、日菱が三立よりも安い金額を提示すれば、たちまち日菱に仕事を取られてしまう。

 三立は答えに迷った。日菱がいくらを提示するのか分からない以上、下手に金額を提示するのは危険だった。

「因に、日菱電機さんには、もう、行かれましたか?」

 三立は話を逸らした。ハサン六世から日菱の提示金額を聞き出そうとしたのだ。烏丸はそれをアラビア語に訳す。

「いえ、まだ日菱電機には行っていません」

 ハサン六世は小さく首を振った。

 その時だった。烏丸は三立にボソリと言った。

「日菱電機の提示金額については、お教え出来ません」

 ハサン六世の言葉と全く内容が違ったが、モロッコ人の二人と日本人の三立は烏丸が勝手に言葉を変えた事に気付いていない。この場で、彼らの会話の全てを理解出来るのは、通訳者である烏丸だけだからだ。

「そうですか……」

 三立はため息を付いた。やはり、日菱の提示金額は教えてくれないか――。三立は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。

 その時、ハサン六世の参謀が、ハサン六世にボソボソと話をした。

 それを見て烏丸がニヤリと笑った。

「今、聞こえました」

 烏丸はボソボソと三立に伝える。

「参謀が話しているのが聞こえました。日菱の提示金額は一兆円です」

 三立の目が大きく見開かれた。一兆円という金額は、広大なサハラ砂漠に太陽熱パネルを設置するのにかかる費用、仕入れ値である。日菱が一兆円を提示したという事は、彼らは今回のプロジェクトで利益を出す事を考えていないという事になる。

「恐らく、日菱は今回のプロジェクトで利益を出そうとはしていないのでしょう。広大なサハラ砂漠に自社の太陽熱パネルを並べれば、その宣伝効果は計り知れません。彼らの太陽熱パネルは、世界中から注目される事になります」

 烏丸は淡々と三立に伝えた。

 三立は歯軋りをした。一兆円という金額は仕入れ値である。つまり、それ以下の金額だと、たとえプロジェクトを受注出来たとしても赤字になってしまう。しかし、日菱が一兆円を提示している以上、それ以下の金額でしか三立は受注する事が出来ないのだ。三立は断腸の思いで決断を下した。

「我々の提示金額は九千五百億円です!」

 三立は少し前のめりになった。日菱に負ける訳にはいかない――。

 烏丸がそれをハサン六世に伝える。

「ほ、本当ですか?」

 今度はハサン六世の目が見開かれた。参謀の顔がパッと明るくなる。

「なんて事だ! 信じられない! 九千五百億円だって?」

「そ、その金額は我々の予想外です。御社の技術力に感服します。まさか、僅か九千五百億円でサハラ砂漠に太陽熱パネルを設置出来るとは……。これは、我々も御社と契約しない訳にはいきませんな」

 ハサン六世は満足して立ち上がり、スッと右手を三立に差し出した。

 烏丸がハサン六世の言葉を伝えると、三立の顔もパッと明るくなった。

「有り難うございます!」

 三立はハサン六世の手を握り、満面の笑みを見せた。

 契約成立だ――。

 ハサン六世は快く契約書にサインし、大満足で三立の本社を後にした。

「よろしかったのですか?」

 ハサン六世を見送った後、烏丸が三立に聞いた。

「なあに、今回の出費は我が社の太陽熱パネルを世界中に知らしめる為の広告費だと思えばよい。日菱の思い通りにさせてなるものか」

 三立は歯を見せて笑った。

「それより、ありがとう烏丸君! 君のお陰で金額が分かって、日菱のやつらを出し抜く事が出来たよ! 流石、一流の通訳者(トランスレイター)だ。ボーナスは弾ませてもらうよ!」

「ありがとうございます」

 烏丸は一礼すると、振り返り、三立の本社から出て行った。

 そして、地下駐車場に停めてあったレクサスに乗り込むと、烏丸は携帯電話をスーツの胸ポケットから取り出し、ボタンを押した。

「はい」

「烏丸です」

「……どうだった?」

「決まりました。入札金額は九千五百億円です」

「フッ! ハハハ! そうか、九千五百億か! これで、三立は五百億もの赤字事業を請け負った事になる訳だ」

「三立さんは広告費だと言っていましたよ」

「ハハハ! 五百億の広告費か……、笑わせる……。ありがとう、烏丸君! これで、暫く三立は身動きが出来なくなる。我々の狙い通りだよ。流石、一流の通訳者(トランスレイター)だ。ボーナスは弾ませてもらうよ!」

「ありがとうございます、日菱さん」

 烏丸は携帯を胸ポケットに入れると、レクサスのエンジンを入れ、地下駐車場から出て行った。

                                  完


私の作品を読んで頂き、有り難うございます。

言葉を伝える難しさを考えていると、この作品が出来ました。

しかし、本当に自分の気持ちを言葉で伝えるのは、難しいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 自身が通訳者を目指している故、この作品はとても面白かったです。ありがとうございました。
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