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ヤマトとラン丸~愛犬からの贈り物~

作者: 夢人2号

ヤマトとラン丸~愛犬からの贈り物~


「お母さん、行ってくるね」

朝8時前、母親である明日香に声をかけたのは、学校に行こうとしていた娘の茜であった。

「あ、ああ。気をつけてね。それに、忘れ物は無いの?」

明日香は、少し間を置いて返事をした。

「お母さん大丈夫。体の調子でも悪いのだったら、早めにお医者さんに行ってね」

茜は心配顔で言った。

「別にどこも悪くはないわ」

「でもこの頃、変じゃないの」

「そんなことはないわ。それより早く学校に行きなさい。遅刻しちゃうわよ」

「わかった。じゃあ行ってくるからね。悪い所があるのだったら、必ずお医者さんに行ってね」

茜は学校に通うべく、自転車のペダルに足をかけて力を入れてこぎ出した。



里村明日香さとむらあすか42歳、専業主婦。

20年前。夫である一樹かずきが27歳、明日香が22歳の時に2年間の恋愛期間を経て結婚。

1年後に長男の一馬かずまが産まれる。その3年後に長女のあかねを設ける。その一馬、茜の二人の子供も今年の春から、大学生と高校生になっていた。夫の一樹は地方公務員。性格は少し自己中心的なところが見受けられるが、それを除けば、きわめて真面目で明日香にとっては良き夫であり子供達の良き父親でもあった。

いま住いしている家も、約10年前に明日香の希望をほとんどと言うくらい取り入れて買った二階建て戸立て住宅であり、一樹は契約のサインをした程度の夫であった。

そんな理想的な生活を送っている明日香に数年前から悩みが生じていた。

それは、どんな名医でも治す事の出来ない悩みだ。

悩みとは、こういう事である。夫である一樹の体型の激太りと、頭髪の薄さが気になり始めたことである。あと十数年もすればすっかり薄くなると思えば、気になって仕方がない日々を送るようになっていた。

明日香は、洗濯物を洗濯機の中に入れてからスイッチを入れ、掃除に掛かった。毎日やっているので比較的速くこなす事が出来る。

これらの事を始めると、先ほどまで思っていたのも忘れてしまうほど気にならなくなる。

洗濯機から仕上がりブザーが鳴る。明日香は、洗い上がりの洗濯物を二階のベランダまでもって行って、厚手のものから干し、下着類などは外から目立たない所に小物ハンガーで干すようにしている。

夫と息子のものを干してから、娘の下着に手をかけた時、明日香はふと気がついた。

それは、娘の下着は色も形も可愛いものであるが、それに比べて自分のものは色も形もおばさんぽくなっていた。おまけに形はくずれ、ほつれさえあるようなものを洗濯しては穿き続けているような生活を続けていた。

これじゃ、一樹の事を言っていられないと気づき、終わり次第に買い物に出ることにした。

10時10分前。明日香はジーンズにTシャツ。それにパーカーを羽織って一馬が数年前まで乗っていたスポーツサイクルのペダルに足を掛けて走り出した。

買い物をするところは、自転車で15分ほど走った位置にある。

私鉄とJRの路線が平行して走っており、それぞれの駅をつなぐ連絡道の両側に各種の店が並んでいる。近辺には大型スーパーもあり、大半の住民が利用している。

明日香は、ほぼ開店と同時に大型スーパーの店内に入った。そしてエスカレーターを利用して2階の婦人下着売り場を目指す。自分より5歳くらい若い女性が身につける下着を数点選び、レジで精算を済ませる。それから再び1階にある食料品売り場に下り、ここでも数点の買い物をしてスーパーの出口に急いだ。地面が濡れている。明日香は空を見上げた。家をでる時には明るかった空も一転にして曇り空。おまけに小雨まで降り出していた。明日香は10分位様子を見ることにして再び店内に戻り、備え付けのイスに座り待つことにした。暫く様子を見ていたが止む気配がしない。思い切って自転車の前カゴに手提げバッグを入れてペダルをこぎだした。

帰りは、少しではあるが上り勾配になっているのと雨のために思うように進まなかった。

明日香は、途中にあるバイパスの高架下で濡れた顔や髪の毛を拭くため自転車を止めた。バッグからハンカチを取り出して拭いているとき、ワォンと小さく、キャィンと再び子犬らしき鳴き声が、明日香の耳に飛び込んできた。

明日香は辺りを見回してみた。しかし子犬らしい鳴き声の主は目に入らなかった。

高架下の周囲は、土が耕されてはいるが草が生えているだけのたんぼ。

おまけに雨が降っているので人影すら見られなかった。

しかし鳴き声は続き、泣き止まなかった。明日香が声の主の元にたどり着くと、なんと側溝に使われているU字溝の上に不法投棄されている大型冷蔵庫の僅かな隙間の所から聞こえてくるのが分かった。

明日香が優しく『出ておいで』と呼びかけてみる。冷蔵庫の隙間から子犬の鼻先は見える。

全体が黒っぽい色をした毛で覆われた犬がいる。だが怖がっていて出てこようとしない。手を差し出しても後ろに下がる、捨てられて人間不信になっている可哀想な子犬だ。

明日香は、この子犬を救い出して自分が飼ってみようと心に決め、救いの手を差し伸べるが、子犬は明日香の気持ちに反して姿を表さなかった。明日香は少し考えた。食べ物でつり出そうと、先ほど買って来たパンの切れ端を置いてみるとうまく食いついてきた。そこを素早く子犬を捕まえようとしたが逃げられてしまった。この繰り返しを何回かの後にやっとの事で子犬を捕まえる事が出来た。

子犬は、少し痩せており、体を小刻みに震わせていた。

「おい、きみ。こんな所にいれば死んでしまうぞ」

明日香は、子犬の両脇に両手を差し込み高く持ち上げながら言った。

子犬は、身体こそ震わせてはいるものの、目をパチクリさせながらも安心した様子で明日香の顔を見つめた。

明日香は、子犬の顔を自分の顔に持っていき、スリスリをすると子犬からお乳臭さが一気に広がった。

明日香は、子犬を抱きながら携帯を取り出しプッシュした。

何回かの呼び出し音の後、

「もしもし、お母さん。今どこにいるの、迎えに行こうか」

電話に出たのは茜だった。

「茜ちゃん、今お家にいるの」

「そうだけど」

学校は、まだ新学期が始まったばかりなので昼前で終わり、帰宅してくつろいでいるとこに、明日香からの電話だった。

「だったら、お風呂にお湯を張っておいてくれない。いま高架下、だからあと少しで帰り着けるから」

「じゃ、お湯が入る頃には帰ってこられるのね」

「頼んだわよ」

と、明日香は携帯電話をきってから、パーカーの裾をジーンズの中にしまいこみ、子犬の脚を気にしながらお腹の中に入れて、一気に家までたどり着いた。

自転車をガレージに仕舞い込み、玄関ドアを開けて家の中に入る。

「お母さんお帰り、お風呂にお湯を入れておいたからすぐに入ったら」

茜は、そう言いながらも手にしていたタオルを明日香に差し出した。

明日香は、少しだけ頭の毛を拭いて、パーカーの裾をあげて気を付けながら片手で支えながら子犬を取り出した。

「お母さん、このワンちゃんどうしたの」

茜は子犬を受け取り、子犬の鼻を指で軽く突いた。

「その子、捨てられていたみたいなの」

「どこで」

「高架下。少し休んで顔を拭いているときに、この子の鳴き声がして見つけたわけ」

「誰かが飼っていたワンちゃんが逃げ出したのではないの」

「首輪もしていないし、捨てられていたのよ」

「そうかしら・・・・・・」

「そうよ、誰かがウチの犬ですと言ってくれば返してあげればいいのよ」

明日香は、捨てられていた子犬の事を思うと、簡単には手放せないなと心の中で思っていた。明日香は子犬とともにお風呂に入る事にした。そして茜に子犬を拭くバスタオルの用意を頼んでからお風呂に入った。

明日香は、洗ったショートカットの髪の毛を乾かせている。その横で茜が子犬の毛を拭いてやろうとしていいるのだが、子犬はバスタオルの端を銜えてじゃれていた。

子犬はお風呂に入ったことで、すっかりリラックスしていた。

「お母さん、この子の名前、どうするの」

子犬は、茜に身を任せてじゃれあっていた。

身づくろいを整えた明日香が、茜の側にやってきて、

「そうね・・・・。私がこの子のお世話をするのだけれど、病気やどうしても用事のあるときなんかは、あなたかお兄ちゃんに見て貰うと思うから、茜ちゃんが決めてくれればいいよ」

どお、助けてくれるという顔で、茜に尋ねた。

「この家で、ワンちゃんを飼うの。お父さん怒らないかしら」

「怒るかもね、少し我儘なところがあるから」

「じゃ、ダメと言われたら」

「その時は、この子と出て行くと脅かしてやるわよ」

「お母さんに、そんな事が出来るの」

「見ていて御覧なさい、女、母は強しよ」

茜は暫く考えてから、

「ヤマト・・・・でどう。この子男の子でしょう」

「ヤマト・・・・。強そうだし、茜ちゃんが名付けてくれたもの。それで決まり」

明日香は、ヤマトに向かって声をかけると、ヤマトも自分の事だと気付いて小さくウヮンと吠えて尻尾を思い切り振って、可愛いしぐさを二人に見せた。

ヤマトは、少し温めてもらったミルクを飲み干すとウトウトし始めたと思ったら横になりしだい眠りについた。ヤマトのお腹ははち切れるくらいに膨らんでいるのが可笑しかった。

二人はヤマトの眠っているあいだに、塩化ビニール製の衣装ケースを持ち出し、そこに古いTシャツやバスタオルなどを敷きヤマトの寝床にした。まだ子犬だからこれで間に合うだろう。しかし大きくなれば考えなければいけない問題だった。

「二人とも、何をしているの」

二人が用意しているうちにいつの間にか長男の一馬が帰っていたのだった。

「シィ・・・・」

茜は、ヤマトの寝ている所を指差した。

「こいつ、どうしたんだ。茜が拾ってきたのか」

一馬は、ヤマトを見て、少し驚いた表情をした。

「お母さん、お母さんが拾ってきたの」

「で、こいつをこの家で飼うの」

「もぉ・・・・・。こいつこいつと言わないでよ。この子には、ヤマトと言う立派な名前があるのだから」

「ヤマト、それは強そうな名だ。お母さんが名付けたの」

「ハズレ、私が名付け親なの」

茜が自慢げに言った。

二人の会話が終わるのを待っていた明日香が、

「これからヤマトを飼うんだけど、私に何かあったときはお兄ちゃんも助けてくれる」

「それはいいが、親父がなんというかだね」

一馬も茜と同じ事を言った。

「お父さんが反対すれば、お母さんは家を出て行くと。そうなれば私も行くけど、お兄ちゃんはどうする」

「そこまで考えているんだ。そうなれば俺だって」

「みんなの気持ちをお父さんが聞けば、悲しむだろうね」

明日香は、本気で言った。一樹を嫌っているわけではない。しかし、最近考えている事で、少しずつミゾのようなものが芽え始めているのも事実であった。そんなミゾをヤマトが少しでも縮めてくれることを願っている。幸い二人の子供達は理解をしてくれたが、それが夫である一樹にも伝わってくれればいいと思っていた。




午後7時。ガレージに車が止まり、一樹が玄関ドアを開けてリビングに入ってきた。

地方公務員なのでめったに遅くなる事の無い生真面目な帰宅だ。

リビングでは、二人の子供達がヤマトと遊んでいた。

明日香と一樹はテーブルを挟んで座り、一樹がヤマトを一瞥してから食事を始めた。後の3人は既に終わっている。案外こういったことにはこだわらない性格と言うよりも、家庭の習慣になっていたからである。

明日香は、食事の世話をしながら今日一日のこと、ヤマトを飼うことを強調した。

「僕は犬を飼う事に反対はしない。しかし、ご近所には迷惑にならないように、それに散歩などは出来ないから」

一樹は、反対しない代わりに面倒も見ないとはっきり言い切った。

明日香は予想していた事であり、反対されてヤマトを捨てなさいと言われなかっただけよかった。

一樹の性格を一言で言うと自己中。結婚するまではあまり目立たなかったが、ここ数年顕著に現れ始めた。市職員の彼ら達は、自分のミスだけじゃなく部下や同僚からの責任問題を振りかからなく退職を迎えるための手段を用いてサラリーを貰う人達だから、仕方が無いといえばそういうことになる。

そういった職場でサラリーを貰って生活している明日香達も、多少の我慢もいった。

しかし、もう少し冗談でも言うような旦那であって欲しいのは贅沢な悩みだろうか。

ヤマトを飼ってから約3週間が過ぎ去った。拾ってきた時よりも一回りほど大きくなり、現在では45㎝、体重も5~6kと増え。コロコロとした身体を摺り寄せてくると、可愛くって仕方がなかった。

季節も4月下旬、あと少しすればゴールデンウィークを迎えようとしていた。

今日は、ヤマトにとってお散歩デビューである。今までは家の周辺を、日に数回のオシッコとウンチに行く程度であるが、今日からは少し遠出をしようと明日香自身もジーパンに薄めのトレーナー、手にはウンチを始末する紙とビニールの小袋を入れたヤマト専用のバッグを、そしてもう片方の手にヤマトを繋いだリードをしっかり持って家を出た。時間は朝の8時を少し過ぎた頃。家を出ると車の行きかう道路に出る。道の端っこを意識して歩く。行きかう犬好きの学生や通勤する人達がヤマトを見て、可愛いワンちゃんと言いながら通り過ぎて行ってくれる。また、ヤマトの頭を撫でてくれる人もいるので、思うように散歩が進まなかった。それから、よその犬に鳴いたり鳴かれたり。

犬の散歩にも暗黙のルールがある。すれ違いの時には、お互いに軽く会釈をし、少し慣れればペットの情報交換もしているみたいだ。それに、飼い主にも色々の癖がある。

小型犬だと思いリードを離す人。ウンチを取らない。ウンチを側溝に捨てる。人の存在で取る、取らない人。話しこんで道を開けない人などさまざまな人達がいることに,犬を飼ってみて始めて気付かされることが多かった。

前からマルチーズを連れた初老の女性がやってきた。明日香は、道の端により通り過ぎるのを待っていた。ヤマトは、明日香の足下で伏せの姿勢で待つ。案外気弱な犬だが、攻撃的な犬よりは明日香にとってはいい。

「賢いワンちゃんだこと。男の子、それとも女の子なの」

と、初老の女性がヤマトを見ながら尋ねた。

「お、男の子です」

明日香は、オスと言おうとしたが、ペットを連れている人達では、人間の子供みたいに言う事になっている。

「男の子、大人しくていい子ね。うちの子はチャッピーというのよ。それに女の子なの」

チャッピーは、犬用の服を着せられている。腰の辺りでスカートのようになっている。

飼い主にすれば非常に似合っていると思っているだろうが、犬自体はどう思っているのだろう。

ここ数年前からペットブームなので、数万、数十万のペットも売られていて、犬用ファッションもペットショップで多く売り出されている。

「よくお似合いで、可愛らしいこと」

明日香は、当たり障りの無い事を言った。

「じゃ、ごゆっくりお母さんとお散歩をして頂戴」

初老の女性は、ヤマトを見ながら言い残して数歩も行くと、知り合いだろうか犬を連れている飼い主と話を始めた。




明日香が、ヤマトを飼い始めてから早くも1年の歳月が過ぎた。

捨て犬だったヤマトは、どれほどの大きさになるのかを心配していたが、柴犬を一回り大きくした程度で落ち着いてくれて、明日香の家族も一安心だった。

もしも大型犬に育ってしまえば、明日香が頑張って飼うと言い張ってもとても無理な事だったろう。ヤマトの体型、体重も定まり、明日香や茜でも世話が出来るのでよかった。

さらにヤマトを飼ってみて分かった事は、犬の世話というものは、年中無休のお店と24時間体制の救急医のようで、1年目までは、夜中だろうが、雨、風、台風、雷の鳴る夕立であろうとヤマトのオシッコやウンチ等に出掛けなければならなかった。

ヤマトは、当初ガレージの空きスペースに犬小屋を買って飼う予定をしていたが、子犬の時にそこで寝かせようとしてみた。だが夜鳴きをし、近所に迷惑になるといけないので、家の中に入れて明日香が添い寝をしたため、子犬の頃からのスペースにゲージーで仕切りを設けてけっきょく、座敷犬になってしまった。トイレのしたいときは小さくワンと吠えると一樹以外の手のすいたものが外につれて出る事になっていた。

1年を過ぎてようやくトイレも定まり、1日に2回の散歩でいいようになった。

ヤマトを飼い始めて,明日香の悩みが消え去ったわけではない。しかし1日2回の散歩で1回につき約1時間ほどの間は、少しでも頭の中から消え去っている。

今日は、いつもの散歩コースとは違う東側のコースに行ってみることにした。

犬にとっても気分転換になると教えてくれた飼い主さんがいたので実行をすることにした。

我が家から歩いて僅か5分の所で素晴らしい所に出た。

初めから此処にすればよかったという素晴らしい散歩コースである。

そこは、農業用水路である。この用水路は切り下げになっていて、全体の幅はおよそ10メートル、両側には3メートルの歩道が右岸と左岸にあり、その5メートルほど下がったところに幅3メートルの用水路になっている。普段の水位は、2~30センチメートルほどのものだが、農繁期や増水時には1メートル位になるみたいだ。右岸の横はすぐに住宅が建っているので、右岸の道は敷石で整備され、植栽やベンチなどのものが置かれている遊歩道。もちろん車の通行は禁止されている。一方、左岸の横は、農地になっているのでこちらは未整備の砂利道だった。そして、右岸から左岸に行くには整備された階段をおり、川床にしかれた3枚の大きな切り石を伝って渡るようになっていた。

右岸には整備されているので、小型犬を連れた人が多い。明日香はあえて左岸の道を歩くことにした。こちらの道幅は未整備のためか右岸の倍近くある。その代わり農家の人達や工事用車両が時折ではあるが走ってくることもある。明日香は気楽に歩けるこちらの道の方が好きだった。

家に帰って散歩コースを住民地図で調べると、全長5キロほど南北に流れていた。明日香が見つけた地点は約半分のところで、散歩したのは極僅かな距離であることが分かった。


ヤマトの散歩コースをこちらに変えて1週間後。ある1匹の子犬をよく見かけるようになってきた。その子犬は生後まだ1ヶ月足らずの、シロ、茶、黒の3色の混ざった犬で毛だってフサフサ、まるでヌイグルミの犬が歩いているようでとても愛らしく見えた。

ヤマトも気にして、自分の顔をその犬に向けることがしばしばあった。もちろん野良犬でも捨て犬でもないのはリードに繫がれているから分かる。

明日香は、子犬もさておき、リードを持っている飼い主と思われる男性を注視するようになっていた。男性は50歳くらい、中肉中背で髪の毛も白髪交じりではあるがフサフサしているし,一見ワイルドな感じで、全てにおいて夫である一樹とは正反対のように見えなくはなかった。

午前8時過ぎに犬の散歩をしているからには、通勤している人ではないことは分かる。

ここ1週間、同じ時間帯に明日香と前後はするものの決まって出会うのであった。

そして、明日香が近づくと自分の犬を避けさせる。また一定の距離を保って明日香とヤマトに邪魔にならないように気を配ってくれているのが、明日香には感じられる。

さらに1週間が過ぎた。

明日香がヤマトを連れて散歩をしている時間帯には、男性の姿が見られる。しかし、決まった場所ではないのであくまで時間帯が一緒ということだろう。

お互いにすれ違う場合は、男性のほうから先に空きスペースを見付けて、その場所でヤマトの通り過ぎるのを待ってくれている。そのつど、明日香は軽く会釈をして通り過ぎるのだが、今日は思い切って、

「おはようございます」

と、男性の顔を見ながら声をかけた。

「お、おはようございます」

男性は突然に挨拶をされたので、少し戸惑いを見せて返事を返した。

「可愛らしいワンちゃんですね。男の子ですか,それとも女の子」

「おとこ・・・・。オス犬です」

「オス・・・・。この頃では犬のことなのに、人間の子供みたいな言い方をしますが、少し変ですね。ウチのヤマトもオス犬です」

「ヤマトちゃんですか、強そうな名前ですね。ウチの奴は、ラン丸といいます」

「ヤマトは、ウチの娘が名づけたのですが、ラン丸ちゃんとはいいお名前ですね」

ヤマトは明日香の足下でジッとしているが、ラン丸は僅か5分の立ち話でも落ち着きなくウロウロしていた。

「じゃ、ラン丸ちゃんまたね。いつもすみません」

と、明日香は軽く頭を下げて歩き出した。

男性はただ一言「いえ」といい。少し間をあけて明日香の後ろ姿を見送っている。明日香が振り返り軽く会釈をして再び歩き始めた。

感じのいい人がおられるのだと、ラン丸の飼い主は思った。

「ただいま」

まだお昼前の時間。茜は、玄関ドアを開けるなりリビングに向かって大声を上げる。

その声を聞きつけるなり、ヤマトが自分にあてがわれているスペースからガバッと起き上がり茜の元に走りよる。

「ヤマト、ただいま」

「お帰り、今日は早かったのね」

「今日は中間試験の最終日だと、朝の出かけに言っておいたはずよ」

「そうだったわね、何か言っていたみたいね」

「お母さん、この頃何かボーッとしていない。どこか悪いのじゃない」

「そう、ボーッとしているように見える。体は別に悪くは無いと思うけど。茜ちゃんケーキを買ってあるから二人で食べようか。でも、ヤマトにはあげないでね。ヤマト、すぐにお腹お壊すから」

「だったら、後で食べてあげないと可哀想じゃないの」

「いいの、お家で飼っているのだから、私たちの食べているのを見せておいて我慢をさせる。後で、ヤマトにも専用のおやつを上げればいいのよ」

明日香は、茜にケーキと紅茶、ヤマトにはおやつを用意した。

茜は、ケーキをひと口くちに入れて、

「さっきも言ったけど、この頃のお母さんたまにはボーットしているときもあるけど、そうじゃないときは何か楽しそうじゃないの。やっぱりヤマトがいるから」

「そう、ヤマトが私の心を癒してくれるのかな」

「そうよ、家族全員のね」

「それに、最近とても可愛いワンちゃんに出会うの。当然ヤマトが一番なんだけど。でも、自然と口から可愛いと言ってしまうほどのワンちゃんなの」

「今度の散歩のときに、そのワンちゃんを見てみよう」

「次の日曜日にね。でも8時には家を出るから、茜ちゃん起きられるかな」

休日の日は、どこの家庭も余り早く起きないものだ。特にサラリーマンの家庭には多い。

しかし、犬の散歩などにはこういったことは当てはまらない。事実、犬を飼う前の里村家でも、みんなが起きだすのは9時前後だった。

「大丈夫、目的があれば起きられるわよ」

「じゃ、そういうことでね」

日曜日の午前7時30分。夫と一馬の二人は、まだ寝ているだろう。

茜は,予定通りに起きていつでも出かけられる体勢でリビングの椅子に座って、ヤマトを見ている。ヤマトも、もうすぐ散歩に行けるのが分かるのか、落ち着かない様子だ。

明日香が茜の横に座って、

「ちゃんと起きてこられたみたいね。1人で行ってもよかったんだけど、この前の約束だから、起きてこられなかったら、起こしてあげようと思っていたのよ」

と、言いながら明日香が微笑んだ。

「私だって、可愛いワンちゃんを見てみたいじゃないの。それに、ヤマトともお散歩も行きたいから」

今日は、茜がリードを持つと言うから、人や車に気を付けてとアドバイスをして家を出た。

茜は、家の近くでの散歩は時々していたけど、コースが変わってからの散歩は初めてのことだった。

ヤマトは、一日2回の散歩コースだから、マ-キングをしながらも茜をリードしていく。そして景色が変わる用水路に出て左岸に渡る。ここまで来ればある程度の余裕が出るので、茜が話しかけてきた。

「ここの景色は綺麗だし、人も車も通らないからいいね」

「いい所を見つけたでしょう。それにこちら側は、めったによその犬に出会わないから安心してお散歩が出来るわけ」

「へぇ・・・・。それより、この頃のお母さん服に気を遣っていない」

「別に意識はしていないつもりだけど、犬の散歩といえどもあまりありきたりの服じゃまずいじゃない。今着ている物だって安物よ」

「安い高いはいいの・・・・。お母さんが服に気を遣ってくれれば、私嬉しい」

「どうして」

「だって、服に気を遣うという事は、綺麗なお母さんでいるということよ」

「そんなふうに言ってくれてありがとう」

二人が会話をしているうちに、ヤマトの足が停止した。そして、明日香の顔を見て指示を仰いだ。明日香は前方を見た。

前方には、ラン丸を連れて散歩をしている男性が歩いていた。

明日香は,ヤマトに行くように指示をした。

「お母さん、後から行って大丈夫。ヤマトとケンカしないの」

「ヤマトは大人しく賢いし、ラン丸ちゃんはまだ子犬だし。それに、あの子ちゃんと伏せをして道を開けてくれるの」

「あの子が、ラン丸ちゃんというの」

「そうよ、生後まだ一ヶ月くらいかな」

二人は、少しスピードを落としながら歩いていると、明日香が言ったように道が少し広くなった地点で、男性が歩を止めラン丸もその場で伏せをする。

ヤマトは、再び明日香を見て指示を仰ぐ。茜は、そのまま行きなさいと言うようにリードを使って指示を出す。ヤマトはそのまま歩き出し、ラン丸の前を通り過ぎる。

二人も、ラン丸の前を通り過ぎる前に明日香が、男性の顔を見て、

「おはようございます、いつもすみません」

と、言ってから頭を軽く下げた。

「いえ、おはようございます」

返事をした男性は、自分の犬がヤマトに飛びかからないように目で追いながら、二人に対して会釈を返した。

三人は、僅かな挨拶を交わしてその場を行き違った。

「おかあさん、あれだけ」

暫く進んでから、茜が尋ねた。

「あれだけって」

「だから、会話というか」

「会話?・・・・。あれだけよ」

「いつもそうなの、もっと色々お話をしているものだと思った」

「あの方は、いつもヤマトに道を譲って下さるの。で、無口な人みたい。そんな事より、ラン丸ちゃんはどうだったの」

「メッチャ可愛かった。まるでヌイグルミが歩いているみたい。でも、私には、ヤマトね」

「ラン丸ちゃんはかわいいわよ。で、・・・・・」

「で、とはどういう意味」

「だから、連れておられる飼い主さん」

「あの、おじさんのこと」

「そうよ・・・・」

「おかあさん、まさか」

「まさか、って、どういう意味」

「不倫」

「不倫、誰と」

「だから、あのおじさんと」

「とんでもない、あなた今見ていたじゃないの。私とあの方との会話は一言、それも挨拶程度」

「それは、私が一緒だったからじゃないの」

「よく言うわよ。そんな関係じゃありません」

「じゃ、どういう意味」

「あの飼い主さんとても優しいの。それにちょっぴりタイプなの」

「タイプなら、やはり不倫じゃないの」

幸い、周囲は田畑でしかも人影がないからいいようなもので、二人の会話はとても街中では出来ないような内容であった。

「要するに、優しくて好みの男性と言う事で、あの方と、どうこうするわけではないわ」

「お母さんの言いたい事は、なんとなく分かってきた。子供の頃の初恋みたいなことを言っているのでしょう」

「そういうことかな・・・・」

「どおりで、ここ数日機嫌がよいわけだ」

「そんな簡単な事ではないと思うけど、そのように見えた」

「うん、でもお母さんが明るく、美しくオシャレをするなんて、私にとっては非常にうれしい事よ。それに不倫なんてことになって、お父さんと別れるようなことにでもなっても、お兄ちゃんは知らないけど、私は、お母さんについていくからね」

「そんな事は絶対ありませんし、しません」

「分からないよ・・・・・」

茜と明日香は、冗談を言い合いながら、ヤマトの散歩を続けながら家路に向かった。




梅雨が明けて、暑い夏がやってきた、

犬にとっても人間にとってもお互いにつらい季節を迎える。

犬は、たくさんの毛に包まれている。人間は薄着になれるが、犬はそうもいかない。最近の犬は、毛の刈り込みをして暑さをやわらげている飼い主もいるにはいるが、このやり方には賛否両論あるみたいだ。犬の毛は、身体を守っているために刈ってはいけないという獣医師もいるみたいだ。

ヤマトもラン丸も雑種で中型犬。どちらかといえば運動量も多い。でも毛の刈り込みはしていない。だから暑さに向かっての散歩は夜明け間近と日没前後に限られるため、お互いに出会う回数も減っていた。

それでも、明日香はラン丸とその飼い主に出会うことを楽しみに毎日欠かさずに、ヤマトの散歩を続けていた。

この1年余り、明日香が身体を悪くして茜や一馬に代わってもらったのは、ほんの僅かの日数だった。それほど丈夫な体の持ち主ではなかった明日香も、ヤマトを飼いだしてからというものうかつに病気にもなれないという気持ちが身体を丈夫にさせていた。

でもヤマトに出会わなければ、犬も飼っていなかったはずだ。そうなれば、明日香は神経のバランスを崩していたかもしれなかった。

時おり見掛けるラン丸は幼犬から少しずつ逞しくなり、今ではヤマト程の体型に近づいてきた。今日は、少し遠くを散歩しているラン丸を見ながら、このまま大型犬になれば大変だと、この前あったときに飼い主の男性が言っていた事を思い出していた。

今年は9月に入ってもまだまだ暑さが続き、10月になってからようやく幾分かしのぎやすい日が続くようになってきた。

そんな、ここ数日。明日香の体に変調が見られるようになって来た。

明日香自身は、ただの夏バテと考えていたが、何時までたっても疲れ、さらにだるさが抜けない日々を送っていた。主婦である限り家事、そこにヤマトの散歩が重なれば何時まで経っても良くなる見込みがなかった。

明日香は、このままでは家族の皆に迷惑が掛かると思い、大型スーパーの近くにある市民病院で診察を受けた。血液検査の結果、内臓器官の一部に異状に高い数値が出たことが分かったので、1週間後に再検査入院をすることになった。期間は約2週間程度。

家庭の主婦が2週間といえども入院ともなれば、家族の皆に言っておかなければならないことがたくさんある。が、一番心配な事はヤマトの散歩の事である。ヤマトは、一日の大半は寝ているようなものだが、朝夕の散歩だけは避けられないだろう。だからこれらの事は、一馬と茜に頼んだ。

そして明日が入院という夕方、ヤマトを連れて早めに家を出た。

明日香は、ラン丸の飼い主に二人の子供達がヤマトの散歩をしていても、自分と変わらいように願っておこうと、ラン丸に会える事を祈った。

明日香の祈りは届いた。

ラン丸を連れた男性が5分もしないうちにやってきた。

明日香は、ラン丸の飼い主に自分の方から近付いって行った。

ラン丸の飼い主の男性は、今までに1度も無かった明日香の行動にビックリをしていた。

「こんにちは」

明日香は、先ず挨拶をした

ラン丸の飼い主も挨拶を返しながら、その場を立ち去ろうとした。

「あのぉ・・・・。少しお話をさせて頂いてもいいですか」

いつも会っていても挨拶程度なのに、明日香にしては思い切った行動にでた。

「私にですか」

男性は予想をしていなく、少し戸惑いを見せた。

「はい、少しお時間を・・・・」

「別に急ぎの用事もありませんから」

二人は、堤の広いスペースをみつけて、そこにある平石の上に腰を下ろした。それにしたがい、ヤマトとラン丸の2匹の犬もそれぞれの飼い主の元で伏せ姿勢をとった。

「突然お声をかけて、すみません」

「いえ・・・・。奥さんに声を掛けて頂けるとは、意外なもので。正直ビックリをしています」

「そうですか、私、随分前から一度お礼を言わなくてはと。ここ2日ほどあの場所で、お待ちしていましたの。で、今日も駄目かと思いながら待っていますと、お見えになられたもので」

「ああ・・・。こいつ」

いったん言葉を切って、ラン丸を見ながら、

「ラン丸の奴、去勢手術をやったのはいいが,少し幼すぎたのか術後に死にかけまして、

それが元で家でも横になりっぱなし、ようやく今朝になって調子が良くなり、散歩に連れ出したというわけですよ」

「そうだったのですか、さぞご心配の事でしょう」

「やはり飼えば可愛いもの。いつもなら力強く引っ張りまわされているものが、急におとなしく立ち上がることもせず、身体のほうも幾分か冷たくなった時は大変心配をしました」

ラン丸は、今朝になって小さくワォンと外に向かって吠えたため、少しの時間を散歩につれ出し、今ではほとんど元気を取り戻していた。

「それじゃ、あまり長話も無理みたいですね」

明日香は、気をつかいながら言った。

「いえ、そんなに気を遣われなくてもいいですよ。動物は、自分の体の悪い時は、ジッと耐え忍びます。こうして散歩に出てくるという事は、まず大丈夫です」

男性にとっても、明日香の存在が大きかった。

「いつもヤマトに道を譲っていただき、また鉢合わせをしないように気を配っていただいて、大変感謝をしておりますのよ」

若いオス犬同士がお互い向き合うとケンカになることがある。ヤマトは気弱そうだが、ラン丸はまだ1歳の力の余った犬。たとえジャレあっていても制御が効かない場合もある。それは、躾等で治すらしいが、動物の習性が出てしまえば、大変な事故になりかねないというのが、男性の持論である。

「いえ、『いつもすみません』と挨拶をされているのに、こちらの方はただ『いえ』か『どうも』だけの言葉足らずで、どう思われていたのが心配でした」

「そうですか、私としては喜んでおりましたのよ。お互い譲り合えば通れるのに、また少し下がってもらえばいいものでも、意地でも譲らないという性格でしょうか、そういった飼い主さんがおられるのに、嬉しく思っております」

「私もこの犬を飼い始めてそういったことを痛感しました。犬の好きの人ならもう少し心の優しい人が多いと思っていたのですが、案外逆な人が一部ではありますがおられるのですね。初めてお会いした時から、奥さんは優しい人だと感じていましたよ」

「そう言っていただいて有難うございます。話は変りますが、私明日から検査入院をいたしますの。それで、このヤマトの散歩は、息子か娘のどちらかがまいると思いますの。そのときに出会われましたら、よろしくお願いをしたくてお待ちしていたわけなんです」

「検査入院、立ち入るようで申し訳がありませんが、どこかお悪いのですか」

「私自身は、どこも悪くはないと思うのですが、事前の血液検査で少し数値が高く出たものがありましたので、念のために」

「それは、大変なことですね。娘さんは時々見かけますが、息子さんはあまりお見かけしませんね。でも、ヤマトちゃんと一緒なら分かりますから。それより、ご家族もそうでしょうが、一番お帰りを待っているのはヤマトちゃんですからね」

「私もそのように思います。家族は会いにこられますが、犬のヤマトでは無理。一番寂しい思いをするのはヤマトだと思いますから」

明日香は、男性に対して幾とどなく頭を下げて家路を急いだ。




明日香が、入院して2日が過ぎた。明日香の病状は検査結果により、一時的なストレスによるもので、2週間の入院の治療でほぼ完治するという事であった。

明日香の心配は、婦人科による最悪の病状を想像していたため、先ずは一安心という事だった。

明日香の入院後の里村家は、食事はスーパーの惣菜物、掃除洗濯は日を決めて茜がやっていた。

ヤマトの散歩が一番大変で、明日香のように一時間もかけられなかったが、ヤマトも分かっているみたいで、決して無理の言わない賢い犬だった。

茜と一馬の2人は明日香の見舞いとヤマトの世話をするほうにと分担を決めて明日香の退院までがんばる事にした。時には、時間があるものから携帯電話で連絡を取り合い無駄のないようにした。

入院した3日目の昼過ぎ、一馬が病室に姿を現した。

明日香の入院は、2週間ということで個室を用意してもらった。

明日香は、一馬を見るなり開口一番、

「ヤマトはどうしているの。あなた達を困らせていない」

と、切り出した。

「ヤマトの事なら心配なんか要らないよ。俺と茜の二人でちゃんと面倒を見ているし、ヤマトだって今の状況を理解するほどの賢い犬さ」

「それを聞いて安心したわ。あなた達に負担をかけるようだけど、もう少しの我慢をしてね」

「そんな事気にしないで。少しゆっくりすればいいのさ」

「そんなのんびりとは行きません。ヤマトが待っているもの」

「お母さんは、ヤマトの事ばっかりだね」

一馬が、そう言って笑った。

「私、いま一番大切なのはヤマトなの。あの子がいてくれるから、頑張って治そうと思っているわけよ」

「僕たちじゃ、駄目なんだ」

「そういうことじゃないの。あの子は何も出来ないのよ、食事も、トイレも、お散歩もどれをとっても」

「まぁ・・・・・。そうかもしれないね」

「で、お父さんは」

「お父さんって、ここには来ていないの」

「そうじゃなく、ヤマトに対してよ」

「あまり関心がないみたい。ヤマトだって、そのところは知っている感じ」

「そう、お父さんに怒られていなければいいわ。あなた達は学校に行く前や、帰宅してからだもの。ごめんね」

「そんなことはいいよ。ヤマトは、お母さんの最後の子供みたいなものでしょう」

「そうね、あの子が来てからとても忙しくて、他のことなんか気にならなかったのに。どうしてストレスなんかで身体を壊したのかしら」

「済んだことは、気にしない。それより一日でも早く家に帰ってきてよ」

「わかった。で、ヤマトの散歩中にトラブルなんか起こさない」

「トラブルなんかない。ただ小型犬を放しながら歩いている飼い主には頭にくるけど、ヤマトのほうが吠えないし、興奮もしない賢い奴だからやりやすいよ」

「それが心配だったの。私なら、2年半ほどやってきたから何とかトラブルもなく過ごせたけど。お兄ちゃんは若いから自分から道をあけるという事をしないのじゃない。とくに年を取った人には多いわね、あれって、自尊心がそうさせるのかしらね」

「そんな感はする。そんな人に限って怖い顔をしているね」

「で、その人じゃないんだけど。中年の男性で、物凄く可愛いワンちゃんを連れておられる方を見かけない」

「どんな犬」

「毛色は3色。しろ、茶、黒が少し混ざった中型犬」

「ああ、その犬だったら、飼い主さんがヤマトを気にしながらいつも早めに道を譲ってくれるし、ヤマトに出会はないようにコースを変えてくれるのだけど。お母さんは、その飼い主さんと親しいの」

「別に特に親しいわけじゃないけど。ただいつも道を譲ってくださるから、お兄ちゃんや茜ちゃんの場合も、どうかなと思って聞いたまで」

「茜の場合も同じみたいだよ」




明日香が入院をした最初の土曜日。

茜が炊事、洗濯と忙しくしているところに、一樹がやってきた。

「ヤマトの散歩、俺が行こうか」

今までしたこともないから遠慮しながら尋ねた。

「いいよ、お兄ちゃんは」

「あいつ、朝の早くから出て行ったぞ」

「うっ、そう。ヤマトの散歩をどうするつもりなのよ」

茜は、居なくなった一馬に愚痴った。

「だから、俺が行く」

「行くと言っても、ヤマトに1度も構ったこともないのに。それにウンチの始末をしなければいけないのよ」

「ウンチの始末は常識だが、ヤマトのほうが俺についてきてくれるかなぁ・・・・。それにお前達の行っているコースも知らないし。何なら、茜と一緒に行こうか」

「嫌よ、恥ずかしいから」

「恥ずかしいか、じゃ俺1人で行ってくるか」

「行って来て、散歩コースはヤマトに任せておけば、後は着いて行くだけだからね。ヤマトは賢い犬だから、リードを強く引っ張る事もないし、ただ、よその犬にだけは注意をしておいてね」

一樹は行って来ると言い残し、茜の注意を頭に刻み家を出た。

ヤマトも一樹がリードを持っていることに戸惑いを覚えたが、今の状況をすぐに理解をし

て表に飛び出していった。

ヤマトは、リードを引っ張る。力を込めてではない。外に出た開放感からだろう。

必要に応じてマーキングを繰り返しながら堤に出た。

これまで、幸いにも他の犬には出会っていなかった。

一樹が、この地域に住いして始めてみる景色だった。職場と家の往復。たまに家にいても車での買い物。歩くことをしなかったせいで、近くにこんな素晴らしい所があったなんてびっくりした。

右岸から左岸に渡ると足下は砂利道だが人通りが極端に減るので気楽さが増した。

両側の載り面は、間近に草を刈った為か草の臭いもしていた。よく見てみると所々に芝生を植えていたのだろうが、今ではほとんどが草に覆いつくされていた。

ヤマトは休むことなく足を進める。しかし、一樹の事を気遣いながらの散歩だ。

ヤマトの動きが止まった。数メートル先にヤマトと似た大きさの犬がいるのが目に止まった。

しかし、ヤマトの方はお構いのなくその犬の横をすり抜けようとした。

一樹は、犬を連れている男性に会釈をした。

「おはようございます」

と、相手方から言われた。

「おはようございます」

挨拶を返すと。再び、

「今日はお父さんとお散歩ですか」

と、ヤマトか一樹のどちらともなく声をかけてきたが、一樹は、返す言葉も見当たらなく、その場所を離れた。

1時間後。一樹は明日香の入院をしている病室にいた。

市民病院は、四階建てと比較的小さい。建設当時は、人口比率に合致していたが、現在では急速に人口増加をしたため、少し重篤な病気や事故による重症患者は、隣街の総合病院へと搬送されている。建物は、中庭を挟んでコの字型に建てられている。一応の診療科目の全てはあるが、医師不足から週1回の診療日もある。市にとっての今後の課題は、1日でも早くの総合病院の建設であろう。

明日香は元気そうな顔色だ。入院当初は、1日のうち数回の点滴をしていたが、ここ数日は日に一回の点滴でよいので助かっている。二日後の月曜日に血液検査をしてその結果次第で退院の許可が下りるという事だった。

「おはよう、気分はどうだ」

「別に、悪くはないわね」

明日香は、笑顔で答えた。

「今朝、ここに来る前、ヤマトの散歩を行って来たのだよ」

「ヤマトの・・・・・」

明日香は、一樹の言った事が信じられなかった。一樹はヤマトを飼うに当たって、反対も賛成もしなく中立の立場で。ヤマトを飼ってから約2年間、嫌う事もしないが、可愛がる事もしなかった夫であった。

「ヤマトも初めは腰を引いていたが、リードをつけて外に出れば、あとはヤマトのペースでスムーズに1時間ほど」

「へぇ~~~。で、どうだったの」

「全てが初めてのことだった。しかし僅か5分程度の所に、あんなに素晴らしい景色があったなんて、驚きだったよ」

「あの景色には、私も素晴らしいと感じたわ。ヤマトがいなければ近所に住んでいながら、生涯知らない場所だったかもね」

「ほんとだね。ところで犬の飼い主をお父さん、お母さんという言い方を直接聞いたのも初めてのことだったよ」

「それ、誰がおっしゃったの」

「堤に出てしばらくすると、ヤマトと同じ大きさで3色の犬を連れられた中年の男性の方から」

「何って、・・・・」

「だから、今日はお父さんと、お散歩ですかと」

「そう、それで何と答えたの」

「ただ、頷いていただけ」

「それだけ」

「それだけ。初めてお目にかかった人に何って言ったらいいのか分からないじゃないか」

一樹は、明日香になじられたように感じた。

「そうね、ヤマトの散歩を初めて行ってくれたのに、ごめん。でも、あの子可愛かったでしょう」

「あの子って、犬の事」

「いまじゃ、犬といってはダメ。ワンちゃんとね。それのオスは男の子、メスは女の子というふうにね。あの子は、ラン丸ちゃんと言ってね、男の子。あの飼い主さんは、そう言った事にはこだわっておられないみたいだけど、ペットにしておられる人達にはワンちゃんと言う事になるの」

「難しいものだ。で、そのラン丸ちゃんの飼い主さんとは親しいのかい」

「いいえ、いつも道を譲ってくださるだけで、特に親しいわけではないわ。妬いている」

「妬きはしないが気にはなるな」

「なぜ・・・・」

明日香は、一樹の言ったことに興味を感じた。

「なんとなく、俺と違うタイプの人だから」

「たとえば、どんなところが」

「見た目かな、身体も歳のわりには、スリムだし。それにワイルドな、でも実は繊細で、優しい所も感じられるな」

「そう言われると、あなたの言っている風にも感じられるね」

一樹は、明日香の返事に気を悪くし、話をやめてしばらくして出て行った。

明日香は、一樹がラン丸の飼い主の事を気にしているのかと思いをめぐらした。もし、反対の立場だったら、自分だっていい気はしないなと思っているところに、今度は茜がやって来た。

「お母さん、荷物を置いておくね」

明日香は、持ってきた着替えの入っているバッグをベッドの端に置いた。

「ヤマトは、どうしている」

ヤマトの事は、夫に今聞いたばかりだけれども、茜の口からも聞きたかった。

「お父さんから聞かなかったの。ここに来るって言っていたけど」

「聞いたわよ。あれからのヤマトの様子よ」

「お父さんとお散歩に行ったものだから疲れて、今はお休み中。だからその間にここに来たわけ」

「お父さんとヤマトのお散歩、うまくいったのかしら」

「それほど心配。お父さんも怒っていないし、ヤマトもしけてなかったから、大丈夫」

「だって、ヤマトが家に来たときから一度も相手をしなかったのよ。心配は当然の事だわ」

「もう、心配しないで。明日も朝の散歩は行くらしいから」

「まあ、家に居ない者がとやかく言えないか。二日後の月曜日の検査をして、結果次第で退院になるの」

「よかったね。早くお家に帰ってくれなければ、何かと家の雰囲気が悪いから」

「きっと退院するから、あと少しの我慢をしてね」

「そんな事はいいけど、ヤマトが待っているから」

「分かっている。お母さんヤマトもそうだけど、ラン丸ちゃんにも早く会いたいからね」

「ラン丸ちゃんじゃなく、飼い主さんじゃないの」

「ち、違うわよ。そうだ、そのことを言っていた時にお父さんが急に黙り込んで、帰っていったんだわ」

「誤解をしているのかな」

「さぁ~~~。今朝会ったと言っていたから、その時はいい人だと。だから私もいい人よと言ってしまったの・・・・。それから急にだんまり」

「妬いているのね。お父さん妬くのだったら、お母さんに優しくしておけば良かったのに」

「そんなもの、人の良さは、居なくなってから分かるのよ」

「じゃ、私帰るね」

「あと少し我慢をしてね。家に帰れば、家の事もヤマトの事もみんなやるからね」

「大丈夫だって。皆ですればいいの。お母さんが1人で頑張る必要はないから」

「ありがとう」

明日香は、感謝の気持ちを込めて、茜に礼を言った。

真っ直ぐな性格に育ってくれて助かる思いだった。

茜が帰ってしまった後。ヤマトとの出会いや、今までの2年間を振り返りながら、ベッドに横になるとウトウトし始め、早くヤマトに会いたいという気持ちがましてきた。




一樹が、リビングでヤマトの様子を見ている。

見られているヤマトも顔は伏せているものの、時おり上目遣いに一樹の動きを見ている。

そんなヤマトが突然座り、玄関ドアのあたりをピタッと見つめる。

僅かの間だ。玄関前で誰かの足音がした。ドアを開けようとしたとき、ヤマトが小さくワンと鳴きドアの開くのを待っている様子だ。

玄関前にいる一馬は、ヤマトの鳴き声を聞き、家に誰もいなく何かを訴えているのかもしれないと思い、リビングに急いで入りヤマトの顔を見た。

ヤマトは、一樹と一緒にいた。しかし一馬の顔を見たヤマトは、体中で喜びの表現をした。

それを見ていた一樹が、

「やはり、お前たちにはかなわんな」

と、小さく呟いた。

「仕方がないよ。でも、親父がヤマトといるなんて信じられないよ」

「そんなふうに見えるか」

「見える」

「そっか」

一樹は少し寂しそうに言った。

一馬のほうは、いったん自室に戻り普段着に着替えて、再びリビングに下りてきて、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れるなり一気に飲み干した。

「なあ・・・・、一馬」

「なに」

「俺に足りないものは、何だろう」

「足りないもの。急にどうしたんだよ」

「この頃思うんだけど、俺、母さんに嫌われてるんじゃないかと思うんだ」

「親父が、母さんに」

「はっきりこうだと言う決め手はないのだが。おぼろげに」

「夫婦間の事を聞かれても」

「そう言う事じゃないんだ」

「分かった。妬いてるんだ」

「だれに」

「ヤマト、ヤマトにだよ」

「それじゃ、ないと思うんだが」

一樹は、ラン丸の飼い主に妬いているのだ。しかし、こんな事は息子にもいえなかった。

「はっきり言っていい」

「いいに決まっている。俺から口にしたことだからな」

「先ず、ヤマトだ」

「ヤマトがどうした」

「お母さんが可愛がるには、ちゃんとした理由があるんだ。ヤマトは自分で勝手にトイレもいけない。誰かがリードを着けてなければならない」

「分かる」

「で、勝手に出歩いて、人や他人のペットに噛み付きでもしたら大変なことになる。被害者の申し出に寄れば、ヤマトは殺処分にされる。人間なら裁判を受け減刑もあるが、ペットには当然そんなことはない。この頃、世間ではペットも家族の一員なんて言っているが、いざそういう事故に巻き込まれれば、過失であっても有無を言わさず畜生という事で処分される。だから最悪の事態にならないように気をつけて世話をしている。と言うのが母さんの口癖だよ」

「ヤマトの事は十分わかった。本題は俺のことだ」

「親父のこと、言いにくいな」

「この際、お前の思っていることを、はっきり言ってくれ」

「じゃ、遠慮なく言うと、優しさだよ」

「優しさ・・・・・」

一樹自身は、なんとなく理解ができなかったが、ここで怒らずに、最後まで話を聞いてみようと思った。

「そう、優しさ。言い換えると思いやりというやつだよ」

一馬の父親に対する心情は、こうだった。

明日香がヤマトをつれて帰ってきた日に、一言「一緒に飼おう」と言ってあげて欲しかったと。

あの日、明日香の心に穴が開いていてヤマトに出会った。あの時あの場所で止まらなかったらヤマトもこの家には飼われていなかっただろう。それに、ペツトショップで買ってきたわけではなく、捨てられていた犬をひろってくるということは、それだけ明日香の気持が、ヤマトに感じたのだろうと。そんな明日香に、一樹は思いやりを示さず、それでストレスを感じ、入院をしたのだろうと一馬が、間違ってはいるかもしれないと断りながらも一樹に説明をした。

「お前の言っている事が、正解かもな」

「親父、生きていくうえで正解、不正解なんかないよ。家族だったら協力する。でも本人が、犬が怖いなら仕方のないことだと思うよ」

「そうだ、お前の言うことが正しい。お母さんが退院をしてきたら、思いやりの心で迎えてやろう」

「でも、無理にはダメだよ。自然じゃなきゃ」

「そうだな」

一樹は、そう言ったものの、どうすれば自然に振舞えるのかが、思案のしどころだった。




翌朝。茜が、ヤマトの散歩に行こうと準備をしていた。

「茜、俺も一緒に行ってもいいか」

一樹は、今日も行くつもりで起きていたので、茜に遠慮しながら尋ねた。

「別にいいけど」

茜は、嫌だというと思っていたので、思ったより素直だった。

年頃の娘は、恥ずかしがって父親とは行かないものだと思い込んでいた。

「少し待ってくれ、すぐに支度をするから」

「朝ご飯、まだなんでしょう。食べてれば」

「いいや、行く。ヤマトの散歩で、下腹の肉を落としたいし、身体を鍛えたいからな」

「じゃ、表で待っている。但し5分間だけしか待たないよ。遅かったら後から来てくれればいいよ」

茜は、ヤマトの首輪にリードを繋ぎ、玄関ドアを開けて外に出た。

今日もいい天気だ。雨降りの散歩は片手に傘、もう片手にはリードを持たなくてはならない。ヤマトは比較的大人しい犬だが、とっさのときに女の子では困る事がある。雨風の日には最悪だ。

一樹は、5分後に出てきた。そして二人していつもの散歩コースをたどる。

比較的、人の通行の少ない堤にでて、

「茜」

と、一樹が呼びかけた。

「なに」

「お父さんは、優しさというか、思いやりにかけているか」

茜の顔が、一瞬こわばった。

「誰がそんな事を・・・・・。お母さんと喧嘩でもしたの」

「いいや、昨日一馬に言われたんだ」

茜は、少し緊張をした。

「いいんだ。お父さんから、一馬に聞いたんだから」

「お兄ちゃんがそんな事を」

「ああ・・・・・」

「それで、お父さんは怒らなかったの」

「怒る必要はないさ。自分から言ったんだから。それにお母さんのストレスの原因も知りたかったしな」

「お母さんのストレスの原因・・・・」

「そうだ、家族の中で1人でも体の悪い者がいれば家が暗くなるだろう。それに、お母さんのストレスの原因について誰が悪いという事でもないんだ。でも、心当たりがあれば改めればいい。お母さんだけじゃない、家族全員の皆がストレスを感じるならよくないじゃないか」

「お母さんのストレスの原因をお父さんのせいだというの」

「そうじゃないけど、自分のしている事は意外に分からないからな」

「お母さんのストレスの原因は、はっきり分からない。お母さんの胸の内の事だもの。でも、ヤマトが来てから服装だってオシャレになったし、時々だけど香水までつけているよ。だから家族の誰からのストレスじゃなく、犬の散歩は疲れるし、気は使わなければいけない。それで無理をしていたんじゃないのかな」

「俺も、昨日たった一日のことだけどそうとう気を遣った。気を遣わないような能天気な人もいるが、ほとんどの人は気を配りながら散歩をしているな」

「だからお母さんのストレスも、きっとそれよ」

二人で話しに夢中になっていると、ラン丸を連れた男性が少し広い場所でヤマトの通るのを待ていてくれた。

茜は、無言で会釈をした。一樹もそれに倣った。

「今日は、お嬢さんとご一緒にお散歩ですか。ヤマトちゃんは、家族の皆に可愛がられて幸せですね」

と、言いながら微笑んだ。

二人は、返す言葉がなかった。『はい、幸せです』とは、自分達の口からは憚られた。

茜は、突然話を変え、

「あのぅ・・・。ラン丸ちゃんの写真を撮ってもいいですか」

男性に断りを入れた。

「ラン丸の・・・・。それは飼い主にとして大変うれしい事。どうぞ」

男性は、嬉しそうであった。

「はい、母が入院をしていまして、ヤマトのものは時々見ていますが、ラン丸ちゃんの話がでる時があるのです。その際に見せようかと」

「入院」

「はい、でも、あと数日で退院をするはずです」

「そうですか、お気をつけてお大事に。ラン丸で元気が出るのでしたらいいですね。こいつも喜びますよ」

茜は、携帯で数枚の写真を撮り。礼を言ってからその場を離れた。




明日香は、月曜日に検査をし、その結果が分かったのは水曜日だった。

結果はよく、この週末に退院をすることになった。

今後の治療は、通院をして投薬を続ければ、1ヶ月もすれば完治するという事だった。

土曜日の昼前、一樹に迎えられて2週間ぶりに我が家に戻ってきた。

明日香が家に戻るのと同時に、ヤマトは尾を振り千切れんばかりに体中で喜びを表現し、明日香の元に来て、身体をすりつけて来た。

明日香は、何を置いてもヤマトの期待に応える為、姿勢を低くしてヤマトの首の辺りを両手で挟みこむようにし、顔を近づけてスキンシップをし続けた。

ようやく、ヤマトの興奮が収まった頃を見計らってから両手を離し、

「ヤマト、ただいま。寂しくなかった。もう何処にも行かないよ。ずっと一緒だから明日の朝から、またお散歩に行こうね」

明日香は、少し涙声になっていた。

ヤマトは、明日香の言った事が分かったみたいで、小さくウヮンと吠え自分に与えられているスペースに戻り落ち着きを取り戻した。

翌朝。明日香は普段の生活に戻った。一樹、一馬、茜の3人は、自分の留守中に疲れているからあまり音をたてないようにして家を出た。

その点、犬はそういったこととは関係なしに、決められた生活を送っていた。

2週間ぶりの散歩。しかし入院中でも病院の階段の上り下りなど適度な運動をしていたので、体力の低下はしていないのでさほど苦痛ではなかった。

街並みや犬の散歩をさせている人達。僅か2週間で変わるはずがないのに明日香には全てのものが新鮮に見える。

ヤマトの歩は、明日香を気遣いながらの歩行である。

人間だったら、僅か5分もすれば歩行を乱すものだが、ヤマトの歩くリズムは乱れない。

犬は違う。人間以上に、他者に対する優しさや思いやりを持っている。

やがて堤に出る。右岸から左岸へと切り石の飛び石を伝って渡る。

こちら側は、ほとんど犬の散歩をする人がいないので気楽に歩くことができる。

少し歩くと、ヤマトが前方にいる何かを捕らえ、明日香の顔を振り返った。

明日香も、もちろん前方にいるなにかを理解していた。

おそらく、前方にラン丸がいるのだろう。

やはりそうだった。ラン丸を連れた飼い主が近づいてきて、少し広い場所を見付けて立ち止まると、ラン丸も伏せの姿勢をしいて大人しく待つ。

「おはようございます。いつも済みません」

明日香は、会うたびにこのような挨拶をしていた。

「いゃ・・・・・。おはようございます」

ラン丸の飼い主も、会うたびにこの程度の返事しか言わなかった。

「退院をされたのですか」

男性は、もう少し立ち入った事も聞きたかったが、ここまで聞くのがやっとだった。

「はい、昨日。色々とご迷惑をおかけしました」

「いえ、迷惑だなんて」

「少しいいですか」

明日香は、入院中のお礼を言おうと思った。犬は、共に飼い主の足下で伏せている。

「私、入院中はヤマトとラン丸ちゃんの写真をみながら、1日でも早くに退院をすることを祈っておりましたの」

「そうですか、ヤマトちゃんは家族の皆に愛され、可愛がられて幸せですね」

「そのように見えまして」

明日香は、いったん言葉を切って、

「ラン丸ちゃんも、幸せじゃないですか」

と、続けた。

「こいつですか」

男性は、我が犬に視線を落として、しばらくしてから明日香の顔を見た。

「こいつね、実は貰った犬なんですよ」

「貰われたのですか。誰かお知り合いに」

「ラン丸と出会う前に、自分の身体のためと思って歩いていたんですよ。その折にたまたま通った近所の雑貨屋の前に括られていたのを見つけ、貰ったんです」

「じゃ、そのお店の方のワンちゃん」

「それがお店の知り合いの方から2日間預かっていたそうです。人の通りが多いという事で。

最初に見つけたというより、あの子と目があって、もうだめ。家内にも相談も無しにすぐそのまま家に連れて帰ったものだから、散歩は私しか行けないという事になってしまったのです。家にいるときは,時々相手をして遊んでくれているみたいですが」

自分の言い訳を照れくさそうに語った。

「お子さんは」

「いません。だからから、風邪一つ引けない状態なのです」

「どうしてもの場合は」

「近くに甥っ子がいて、頼むのですが。1日で懲りてしまいます」

「ラン丸ちゃんには、いい事じゃないですか」

「どうしてそのように」

「ラン丸ちゃんを貰ってあげなければ、ひょっとして処分をされていたのかもしれませんよ。そういう意味で、ラン丸ちゃんにとっては幸せだということです」

「そういうふうに考えられますか。もともと私の散歩の連れにと貰った犬だと思っていたのですが、奥さんの言われるように考えますと、私とラン丸は一緒に暮らす事に定められた運命だったのでしょうか」

「そういう意味でなら、そちらさんと同じですわ。このヤマトだって私がたまたま立ち止まった所に捨てられていたのです。で、その子がこのヤマトなのです。私もこのヤマトと暮らす運命にあったのでしょうか」

「奥さんの行為のほうが素晴らしいですね。これからは、この散歩中だけのお友達ということでいかがです。ご迷惑ですか」

「そうですね、私たちでは誤解もありますが、ヤマトとラン丸ちゃんの犬とも。いや、この頃ではワンちゃんですから、ワンともでしょうか」

そう言いながら、明日香が微笑んだ。




明日香がヤマトを飼い始めてから、3年目に入る。

ヤマトを飼う前に悩んでいた事は、何だったんだろうかと言うほどの毎日を送っている。

ストレスで入院して以来、いたって健康になった。その上、身嗜みも良くなった。

別に流行の服を追っているのじゃなく、四季折々の服に気を遣うようになった。

それに合わすように髪形、靴、アクセサリーなどの小物等に気を配る。

明日香自身も世間並みに綺麗なのだから、先ず家庭が明るくなり、そして近所の人達までもが明日香に気さくに声をかけ、近所付き合いも自然と良くなってきた。

そして、最初に悩んでいた一樹のことも、頭髪は無理としても。ヤマトの散歩を利用してダイエットに励み、今では過去の体型よりも少しではあるが締まりかけていた。

休日も、家庭に居るときはダラダラせず、暇を見つけてはヤマトと遊ぶ事が多くなってきた。

今では、一家全員がヤマトを中心に動き始めた。

このような事がいつまで続くかは分からないが、1日でも長く続くように願う明日香であった。


今日も晴天の朝。

明日香は、普段通り、ヤマトの首輪にリードをつけ、片手にはウンチを始末するバッグを提げながら、玄関を出てヤマトに顔を向けて、

「今日もラン丸ちゃんに会えるかなぁ・・・・・・」

と、一声かけると、ヤマトも一声小さくワンと吠えた。

ヤマトの勘は当たるのだと思い。

ラン丸に合えることを願いながら、

「じゃ、行こうか」

と明日香は、ヤマトに声を掛け1歩踏み出した。



おわり

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