第八十話
最後の戦いになるだろう。
サラは食卓で、この世界で最後に飲むことになるお茶を味わって飲む。
これを飲む魔術師協会の知り合いが口を揃えて言う、先祖代々全く変わらないという味。
少々渋味の出始めた、やや濃い目の味だ。よくよく考えてみると、こうしてしっかり味わったことは、これまでに何回あっただろうか。
軽く苦笑し、サラは最後に自分の家を見て回る。
セイファートの屋敷の全権利は既に魔術師協会に譲ってあるし、五歳ぐらいまでしか住んでいなかったため、十年以上を過ごしたこの家こそがサラの家だ。
強固な防御魔術が施されているにもかかわらず、ところどころに傷がある。記憶の底に沈んでいた思い出を引っ張り上げると、大半の傷がサラの付けたものだ。そういえば、幼いころは気ばかりが逸っていて、生まれつきの魔力を暴走させることが多かったか。
自分の部屋も、思い出はたくさんある。幾度無茶をして限界まで戦ったか。幾度倒れ、しかしそのまま次へと赴いたか。
今までこうして生きていられるのは、多くの人に支えられてきたからだ。守るなどと考えていたが、守られていたのは自分の方か。
この最後の最後で思い知るとは、やはり業の深い人生を送ってきた証か。
まぁ、それもこれで終わりだ。
これが最後の戦い。
思い出など、今からは思い返す暇などない。
さて、死線へと向かうとしよう。
と、家の外へ出ようとしたところで、不意に呼びとめられた。
「出立か」
「――蛇神さん? 今日は何かありましたか?」
「まぁ、見送る者ぐらいいた方が良いと思っただけだ。時に、昨日倒した分身体で、何か気になった点などは無かったか?」
いつでも、サラでさえ感知できない間に来ている神がサラに問いかける。
何かを知っているのか、それともただ単に聞いているだけなのか。
「そういえば、不自然に弱かったと思います。恐らく、ゼイヘムトさんあたりなら全力を出すなら両方同時に相手しても勝てるでしょう」
「馬鹿な。分身体とはいえ、王の格だぞ。魔王同士で複数同時に相手するなど……ふむ」
そう言って、蛇神は考え込むように顎に手を当て、まぶたを閉じる。
人類を軽く凌駕する思考速度を持つ神は、二秒ほど考えた末に目を開けた。
「少々まずい事態になっているかもしれんな。デミウルゴスも、あの大英雄達に一度滅ぼされたとはいえ、神だ。厳重に封印されていたとはいえ、、一万年の内に迷宮という小世界そのものをいくらか自分の物にしている可能性もある。
だが、わざわざ管理者である自分の分身体を弱く作る理由か……弱くすれば我々神はある程度の数を創ることが可能だが、そんなことをする理由は見当たらないな。奴の権能に何かあるのかもしれん。
こちらも動くことの出来る、この世界出身の魔王級を即応できるよう準備しておこう」
「ありがとうございます。背後に憂いなく進撃できるというのは、やはり大事ですね。あ、それと」
頭を下げ、サラはふと思いついたように腕輪を外し、蛇神に渡した。その前に『砕くもの』と『神葬真理』のみを、手に取って。
「一族が貴方がたより賜った神器の大半をお返しします。これからの敵にはこれらが必要ですので、申し訳ありませんがこの二つだけは頂いてもよろしかったでしょうか?」
「……いいのか? 神器は地上で暮らすことを選択したお前達への餞別だったから、返す必要などないんだぞ?」
「わたくしは今日、死ぬか世界から放逐されます。それはこの世界の物ですし、きっとこの世界で使われた方が良いと思うんです。ですので、最低限のこの二つだけ、いただければそれで充分すぎます」
「そうか。分かった。行って来い、そして、勝て」
「はい。行ってきます」
見送られ、サラは行く。
その足取りに一切のためらいはない。
ただ、ひたすらに進むのみ。
再び辿り着いた第六層。
表裏を踏破したときにも見たが、扉が具現している。ただし、鎖は巻きついたままだ。
まぁ、どうでもいい。そこに在るのなら、サラに壊せないものはない。
無造作に近付き、サラは鎖に手を掛けた。
触れば分かる。神化銀に数多の術式を刻むことで強度を無限とした、不滅の鎖。これが、最後の試練ということか。
生半可なことでは、この鎖は千切れない。それこそ、ゼイヘムトやシャティリアでさえも傷一つ付けられないだろう。
だが、サラは。
軽くねじるようにして、鎖を引きちぎった。まるで麻紐でも千切るかのような気軽さで。
じゃらじゃらと音を立てて、扉から鎖が解けていく。あとは、ただ進むだけだ。
サラは扉に手を掛け、一気に押し開く。
と、そこに広がっていたのは、巨大な神殿だ。天井が見えないほどに高く、無限とも思えるほどの広さを誇る巨大な神殿。
なるほど、封印か。これだけの規模の世界を使わなければ、封じる事さえも困難だということか。
相手にとって不足はない。
巨大な力の存在する方へと足を進めていくと、それはそこにいた。
漆黒の球体。
なにか理解できない模様が全身に刻まれた黒の球体が、神殿の中央に浮かんでいる。
『――来たか、英雄よ』
聞くもの全てを平伏させるかのような威圧感を持つ声が、空気を震わせることなく四方にこだまする。
重厚で落ち着いた、相手を従わせることに慣れた声音。
なるほど、神。
精神防壁のない存在なら、問答無用で従わせていただろう。
『我こそが『神災厄禍』デミウルゴス。金色の英雄よ、貴様の名を問おう』
泰然たる神を前に、サラは『砕くもの』を構えて前に出る。
「『金色の颶風』サラ・セイファート」
『ふむ、我を前に畏れる様子もなし。不遜である。かつて、我と相討った黄昏の騎士団を思い起こさせる。滅びるがいい、英雄よ』
言うが早いか、球体は長大な触腕を伸ばしてサラを打ち据えんとする。
それを戦鎚で消し飛ばし、サラも戦闘態勢を取った。
「滅びるのはそちらです、異界よりの侵略者。貴方は、ここで散ってください」
相手に言葉が届くと同時に、サラは弾かれたように動き出す。
雷すらもはるか後方に置くその速度だが、デミウルゴスは見事なまでにそれに対応してみせる。本体自体に動きはないが、しかし砕かれようと千切られようと消し飛ばされようと一切問題ない触腕がサラにさえ匹敵する速度で受け、流し、弾くのだ。
サラが無理やり押し通ろうとしても、変幻自在で無数の触腕が四方八方からサラを襲うために近付き切れない。
強い。しかも、恐らく持久戦は得手だろう。本体が動きを見せない以上、全身を動かさなければいけないサラとは疲労度の蓄積度合いが違う。
ならば、とサラは戦術を組み替える。
無詠唱での上位四属性の魔弾を次々に打ち込む。よほど特殊な能力を持っていない限りは、魔力での対処を必要とされる。
特殊な能力を持っていれば、その限りではないということだ。
『ふむ』
打ち込んだ魔弾が一斉に消し飛ばされる。
サラもその波動には見覚えがある。月属性による魔力霧散だ。
一つ、サラは頷く。
それはもう見た。もう対処も出来る。
サラは『砕くもの』を自らの内に取り込み、『神葬真理』を取り出す。
あらゆる神格存在に対する絶対。相手が神だというのなら、これが最も楽だろう。
長槍を手に、サラは駆ける。
触腕が殺到して来るが、問題はない。『砕くもの』より遥かに軽い槍は、その射程内に敵の存在を許さない。
触れるだけで全ての触腕を崩壊させ、再生を阻害するその槍は、確かに対神用神器としては絶対と言っていいだろう。
だが、デミウルゴスもそういった神器に対する対処は当然のように身に付けている。特殊な魔力を全身に纏わせることで神器に直接触れず、殺神の力の影響を排する。
言うほど楽なことではない。何せ、サラの技は魔力を切り裂く。
魔力を触腕に纏わせていたとしても、半数は神器の力に当てられて消滅していくのだ。
サラの実力をある程度確認したデミウルゴスは、サラを近づけないよう細心の注意を払いながら語りかける。
『さて、ここで面白い話を聞かせてやろう。まず答える必要もない質問をするが、心の片隅に置いておくといい。
第五層の管理者――つまり、我の分身体を相手に出来る存在は、地上にどれぐらいいる? ああ、答える必要も考える必要もないぞ。ただ、念頭に置いて、次の言葉を聞け』
独り言のように言いながら、デミウルゴスはサラの攻撃を捌き続ける。
『我は、少々環境を整えることで、無尽蔵に分身体を創ることができる。ちなみに、第五層のものは、我の一側面を分身体として創ったものだ』
サラはその言葉の全てを無視し、ほんの僅かずつでもデミウルゴスを削っていく。
一度に削れる量は微量でも、サラほどの速度があればそれは充分と言える。
『この迷宮の封印は既に解けている。貴様がここに辿り着いた時点で、この迷宮を封印する意味がなくなったからだ。つまり、この中にいる存在は――まぁ、魔物は無理だが、魔人達は全員外に出ることが出来るということだ。
意味が分かるか?』
これまでにいた敵対的魔人は全て、サラが滅殺してきた。
今更、ここの魔人が出れることに意味など――!?
「まさか!?」
『聡いな。然りである。余の分身体も、外に出ることができる。それも、無尽蔵と言ったろう。百でも二百でも、千でも万でも出ていくぞ。
さて、どうする? 我はここから出ていくというなら、特に止めはしないし、背後から襲うこともないと約束しよう』
サラは苦虫を百ほどまとめて噛み潰したような顔をする。
アレがどれだけいたところでゼイヘムトやシャティリアがいれば倒すことは可能だろう。彼らならばそれを託すことができる。
だが、それは倒せるだけだ。あの巨大な分身体なら歩いたり倒れたりするだけでも大参事だし、小さい方は下手に人に紛れられたらどれだけの被害が出るか分からない。
「キ、サマァァァアアアアッ!!」
『さあ、どうする?』
「すぐに戻ってきます。それまで、その命預けておきます」
『ハハハハ、戻ってこれるといいなぁ、定命の者よ、限界近き者よ!!』
デミウルゴスの笑い声を背に、サラは地上を目指す。
何故か起動しない地上への転移装置を無視し、全速力で。
そう、数多くの神の分身体が時間稼ぎに存在する迷宮を逆走していく。
地上は地獄と化していた。
次々と現れる巨神の群れ。世界を包み込む幻覚の魔術。
それらは容易く世界の枠組みを打ち砕く。
なるほど、確かにゼイヘムトとシャティリア、ユーフェミアは頑張ったと言っていい。
百を超える巨神を滅ぼし、千の魔神を打ち倒すその姿は世界の守護者を名乗るべき快挙だ。
だが、足りない。足りない。足りない。
あまりにも足りない。
たった三柱で何ができるというのか。
敵は億千万。無限とはいかずとも、無尽蔵に沸き出る絶望の数々。
これを相手にするならば、最低でも魔王級の実力が必要とされるのだ。地上の戦力で、人間で対抗できるものなど、いないと言っても過言ではない。
そんな中、ただ一人、巨神と単騎で戦う者がいた。
ブリジット・フォンテーヌ。
トゥローサの街へと襲い掛かる巨神を、血反吐を吐きながら迎撃する。
自らの命を魔力に変え、今までの生涯で蓄えてきた膨大な魔力も全て使い、虹の力で巨神と互角に戦ってのける。
「世界を満たす元素よ、我が敵を打ち滅ぼせ。虹芒・滅砕牙」
ブリジットの血を吐くような叫びと共に、虹色の巨大な軌跡が巨神を両断する。所詮は第五層の分身体より劣化した分身体だ。それで死ぬ。
だが、ブリジットの方も限界だ。
人間の身で、人間を超えぬまま魔王級の力を揮ったのだ。器たる肉体が持つわけがない。
急速に老いていく自らの身に舌打ちしながら、白妙の塔に戻ろうとしたブリジットはそれを見る。
巨大な地響きを立てて近付いてくる、三体の巨神を。
たった一体でも、ブリジットは命の全てを振り絞らなければならなかった。
それが、三体。完全に終わりと言っていい。
一度目を閉じ、ブリジットは深呼吸をして、目を開ける。
なるほど、絶望的と言っていい。勝てる戦力ではない。これに対処できるのはサラやゼイヘムトといった、超越者だけだ。
ブリジットではどうあがいても対処できない。
それでも、笑う。
勝てないから、どうした。
対処できないから、何だというのか。
自分達は散々セイファートにこういった役目を押し付けてきた。けど、これからはいない。
なら、まず命を賭けるべきは彼らをそう言った死線へと送り込んできた組織の長である自分だろう。
「――ぁぁぁああああああ!!」
声を出し、ブリジットは全身に気合を込める。
まだまだ絞り出せる。
諦めるわけにはいかない。
そうとも、諦めたりしたら、サラが安心できないではないか。
魔力を絞り尽くした末、自らが結晶・灰化するのを覚悟で、ブリジットは全てを振り絞ろうとし――
天から降り注ぐ流星が巨神を穿ち、ねじられた空間が巨神の体を寸断するのを目撃した。
それが意味することを、ブリジットは知っている。
協会の歴史上、セイファート以外に魔王級の能力を持っていたのはただ一人。
「無理はしないで。貴女が倒れたら、誰が協会を纏めるの?」
魔力不足で空中から崩れ落ちそうになったブリジットの体を、だれかが支える。
ああ、何年振りだろうか。この声は。
初代魔術師協会長レジル・ミーサス。
百年の眠りについているはずの彼女が、今、目覚めているのだ。
栗色の髪を風になびかせ、万年の時を生きる女性はブリジットに困ったような笑みを向ける。
「少し休んでいて? ブリジット、貴方がいつもの調子に戻ったら、街を守るのに力を貸して、ね?」
「……はい」
子供に言い聞かせるように言われたブリジットは、目指す高みに全く手が届いていなかったことを思い知らされ、落ち込んだ様子で白妙の塔へと戻っていく。
それを見送り、レジルは再びやってくる敵を睨み据えた。
もうレジルの顔に先ほどまでの優しげな表情はない。般若のような、怒気に燃える顔で巨神と魔神を威圧する。
「貴様らに宣告する。あの人が全てを捨てて守ったこの世界を、みんながつないできたこの世界を蹂躙するというのなら」
ギシリ、と空間が歪む。
絶大なまでの空属性の魔力が世界に悲鳴を上げさせているのだ。
通常空間で使っていい量の魔力ではない。
「死になさい。貴様らの未来はここで刈り取る」
『恐怖せよ。憎悪せよ。嫉妬せよ。絶望せよ。
我こそが『神災厄禍』デミウルゴス。全ての負の感情を力とするものである』
迷宮の奥底で、デミウルゴスはつぶやいた。
聞くものなどいない。
だが、着実に世界は恐怖で包まれてゆく。