第七話
絶望的な体格差。覆しようのない体重差。身を覆う鱗は鋼の切っ先すら通さず、強靭な爪は大樹すらもなぎ倒す。
動きは鈍重にして俊敏。走るのは遅いのだが、爪や牙による攻撃は常人では視認すら不可能な速度を持つ。
生半可な実力ではその前に立つことさえ不可能。高位の魔術師であっても接近された時点で死が確定するほどの強敵。襲撃を受けた部隊は不幸だったと言うほかない。
地上の魔物では古代種以外に並ぶものなき暴風のごとき攻撃を全て紙一重で躱し、サラは拳を振るって応戦する。
圧倒的とさえいえる暴威を前にし、少女の小さな拳がなんの役に立つだろうか。周囲の大木にも負けぬほどに巨大な二足歩行のトカゲが纏う血の色にも似た鱗は鋼よりも強靭なのだ。人間程度の膂力では蚊に刺されたほども感じはしまい。
そう、普通ならば。
人間の限界など軽く通り越した身体強化を行うサラは普通という範疇には収まらない。絶対的なまでの差を桁外れの魔力に物を言わせて覆す。
力まず、焦らず、滞らずに放たれる一撃。凄まじい基礎鍛錬を発射台として放たれたそれは、過剰なまでの強化と相俟って攻城兵器の如き威力で以って魔物を打つ。
恐るべき威力を身に受けたトカゲは血反吐を吐いて飛び退く。見れば、腹部が著しく陥没しているのが分かるだろう。強烈な衝撃が鱗を貫通し、筋肉を裂き、骨を砕き、内臓へと損傷を与えた証拠だ。
並の魔物ならこの時点で戦意をなくして逃亡を始めるだろう。だが、このトカゲは並ではない。恐らくはこの第一階層の覇者。竜種にさえ匹敵する強者なのだ。
とはいえ、たった一撃で甚大な傷を負ったことは間違いない。接近戦では勝ち目のないことを悟ったトカゲは大きく息を吸い込み、嫌に耳に障る咆哮を上げた。
サラはその咆哮と同時に四肢が僅かに痺れたのを感じ取る。
咆哮による神経干渉か。この干渉強度なら神族や魔族にも通用するだろう。肉体への依存度の高い獣人なら半狂乱に陥りかねない。
まさか一番最初の階層でこれほどの魔物が存在するとは。サラは自分の認識が甘かったことを反省し、自分に食らいつこうとしているトカゲを睨み付ける。
そして、油断しているトカゲの横っ面に強烈極まる上段蹴りを叩き込んだ。
確かに優秀な神経攻撃である。身体能力を強化して戦う者にとっては天敵といってもいいだろう。素の戦闘能力も非常に高く、おそらくはこのトカゲ一頭を相手にするだけで軍隊が必要になる強さだと言ってもいい。
このトカゲにとって誤算だったのはサラが高いのは身体能力や魔力だけではないことだ。そう、こんな迷宮に単独での侵入を許されるということは、どんな状況に陥っても解決する手段を保有しているということである。当然、神経干渉などの行動阻害系としては普遍的なものに耐性を持っていないわけがない。
「終わりです」
神速で繰り出される踵落としは雷の如き無慈悲さでトカゲの頭部を粉砕する。先に放たれた拳よりも更に強力な一撃だ。トカゲの頭部は完全に原型を失っており、その体も軽く痙攣するだけで動く気配はない。
再生能力を持っているといけないので、しばらくその場で観察する。数分と経たず痙攣すらおさまったのを確認し、サラはトカゲをリバース・スペースに入れて深く嘆息した。
今回の被害は一組だけだったが、もし纏まっているところを襲撃されていたら更に大きな被害が出ていただろう。索敵術式の反応からして、この辺りに他の魔物は寄ってこないようなのでその点だけは安心だが。
しかし、と吐息し、サラは周囲を見渡す。
今サラが倒したトカゲは他の魔物とは隔絶した強さを持っていた。強い番人がいるところにはいいお宝があるというのが相場である。まぁ、単にトカゲがここを縄張りにしているだけかもしれないし、トカゲの爪や牙がお宝かもしれないが。
目を伏せたサラは、とりあえず周辺を調べることにした。
「少し、精査しましょう。――全ての智をここに。我は智の蒐集者。我の目の届かぬ場所はなく、我の手の届かぬ場所はない」
凄まじい精密さの術式が織り上げられていく。その緻密さたるや魔力の糸で布を織り上げるかのようだ。生半可な制御力ではない。才能に胡坐をかくのではなく、常に自分を高めてきたがゆえの技巧だ。
消費する魔力量も半端ではなく、並の魔術師ならば多くの魔石を用いるか大人数での儀式として行うべき魔術。術の存在自体が各々の一族などに秘匿されているような奥義の類である。
ゆえにその効果もサラが普段使うようなものとは桁が違う。文字通りの精密探査魔術だ。
「神眼」
伏せていた目を開けると、サラの視界そのものが一変していた。
常より広い視野で、目に映る物質・非物質を問わない全ての情報が頭に流れ込んでくる。絶対的な知覚能力の付加だ。慣れていない者では十秒ともたずに酔って倒れるほどの情報量。それを多少顔を青ざめさせる程度で全て把握し、掌握するサラの情報処理能力は異常と言ってもいいだろう。
加えて言うなら、この大魔術を使っている状態でさえサラは周囲への警戒を怠っていない。魔物が危険領域に入ったら即時迎撃できるだけの備えをしているのだ。
それだけの備えを出来るため、こういう役回りをしているともいえるのだが。
時間にして約一分ほどもじっくり周囲を観察したサラは、一つ頷いて真っ直ぐに道なき道を進んでいく。
今の魔術で大体この辺りの地形は把握した。サラがトカゲと戦っていた道はどうも輪になっており、広い空間を囲んでいるようだ。輪と言っても曲がりくねったりしている上かなり広いため、きちんと地図を記していないと分からないようにできているようだが。
その輪の中心、囲まれている場所に入るには木や灌木をかき分けて行かなければならない。あのトカゲはここを守っていたのだろう。
いやに繁茂した背の高い草をかき分けた先で、サラが見たのは一つの石碑だった。
広い、本当に広い空間の中、ただ中央に座すたった一つの石碑。石畳もないのにこの場所だけは木々が生えていない。柔らかな草が芝生のように地面を覆っているだけだ。
静謐な空気に包まれた場所。騒ぎや血でここを汚すのが躊躇われるような神聖さがある。
なので、サラは静かに石碑へと歩み寄った。
バタバタと走るような無様な真似はせず、ただただ歩いて。
石碑の前に着いたら、深く一礼する。それから石碑に掛かれている字を読む。古代語、それも上位古代語と呼ばれる神代の文字だ。サラでなければ辞書と睨めっこしながら読むことになったであろう文字である。
――遥か遠き者達へ。
未来を汝らへと託す。
大いなる災厄をここに封ずることしかできぬ我らを呪ってほしい。
「……大いなる、災厄? 何かとんでもないものがこの奥深くに存在するということでしょうか」
軽く首を傾げたサラは常に持ち歩いている紙を一枚取出し、石碑の文字を正確に写し取る。
三度ほど自分の字と石碑の字を見比べたサラは一つ頷いて石碑に背を向けた。
あまり長居していい場所ではない。ここはきっと、墓所のようなものだから。
静かに広間を出て、トカゲと戦った道まで戻ったサラは先ほどの探査魔術で発見したいくつかの物を回収するために動き出す。
この地で散った協会員達の遺品。無いよりは、ある方がいいとそう信じて。
宣言通り一時間と立たずに帰還したサラは、驚愕と恐怖の視線で以って迎えられた。
当然か、右拳と踵にのみ血の跡を付けただけでそれ以外はほとんど汚れすらしていないのだ。六人からなる部隊の五人までが抵抗すらできずに潰された魔物を相手にして、毛筋ほどの傷も負っていないというのは化け物と言うほかない。
なんら負の感情を抱いていないのはイーリスぐらいか。サラの実力を知っている者でさえ、これほどまでの隔絶を目の当たりにすれば絶句するほかないのだ。
「トカゲを倒し、とりあえず丸ごと持ってきました。あと、死体は見つかりませんでしたが、犠牲になった部隊の遺品は見つかりましたのでそれを回収してきました」
提出します、と付け加え、サラは拾ってきた遺品をどさどさっと机の上に置く。
誰かの肖像が入っていると思われるロケットペンダント、何かのエンブレム、内に想いを秘めたタリスマン、剣が数本、盾が二つ、杖の本体である宝玉、指輪、その他諸々。
藪に散らばっていたものの中でも、所有者が分かりそうなものを見繕って持ってきたのだ。本人の破片も散らばっていたが、流石に原型を留めていないどころか文字通りの破片だったため回収していない。指一本とかを持ってきても誰の物か分かるわけもないのだし。なので、一か所に集めて光と火の複合属性魔術で火葬しておいた。この辺りは言う必要がないため口にはしないが。
「……遺品の回収までしてくれたか。どうだった? 件の魔物だが、君以外でも倒せそうか?」
「現時点では難しいと言わざるを得ません。また、魔物はとある石碑を守っていました。その石碑の記述も提出しますが、少し気になることがあるので明日以降も続けてわたくし単騎ないしイーリスちゃんと二人での出撃の許可を頂きたいです。下手すると、今回のトカゲは複数存在するかもしれないので」
「こちらとしては死んでくれさえしなければ何をやっても構わないが……大丈夫か? この速さで討伐し、回収まで行っているということは移動などに強い魔術を使っているはずだ。今日ゆっくり寝ただけで回復できるのか?」
「問題ありません。わたくしは通常の呼吸さえ出来れば、一定量の魔力を回復し続けることができます。既に消費した魔力の大半は回復を終えました。あと数分で魔力自体は完全に回復できるでしょう」
自分の魔力量を調べつつ、サラは断言する。これは驚異の回復力だ。普通でも呼吸、食事、睡眠などで魔力量は回復するし、大幅に回復しようと思えばいくつか方法もある。だが、普通の呼吸だけでは一日続けても魔力総量の一割も回復できない。それなのに呼吸だけで充分以上の魔力回復を行える、というのはそれだけで一つの武器だ。技術でも体質でも、他からすれば垂涎の対象になるだろう。
サラにとってはそんなことはどうでもいい。必要に迫られたから習得しただけであって、他に手段があればそちらを使えばいいのだし。
「大したもんだ。まぁ、問題ないなら、許可を出そう。ただ、やることはちゃんとやってくれよ。荷物もまとめてあるし、転移術者も準備が終わってる」
「はい。皆さんが持ち帰ったものは、もう一覧にまとめ終わってるんですか?」
「それが我々の仕事だからね。まぁ、採集してきてもらったものを部隊ごとにまとめて、それぞれ番号振っただけだから大した手間でもない。転移を担ってもらってる術者の方がよほど大変だろうな」
「そんなものですか。では、わたくしは荷物を回収後、術者の方と共にトゥローサへ帰投し、荷物を引き渡したのち帰還します」
「頼んだ」
一礼し、サラはイーリスを連れて天幕を出て、採集物の集積場所へと向かう。
天幕の裏にある縄と杭で囲まれた場所には、よくもまあこれほどの量を集めたものだ、と感心するほど多くの採集物であふれていた。
中身を確認せず、サラは囲まれた場所にある物をそのままリバース・スペースの中へと落とし込む。このままの状態で向こうへと運べばいいので、サラが確認する必要はないのだ。
その光景を見ていた転移術者三人は驚いたように口を開けたまま固まってしまう。まぁ、リバース・スペースの行使を初めて見た者は大体こういう反応を返してくるので、サラはもう慣れっこだが。
「転移をお願いします」
サラが笑みを向けると、転移術者達は慌ててサラの近くに来て詠唱を始めた。
「此方と彼方を結ぶ道よ、開け」
「我らは道を開くもの」
「我らが理に従い、空を通じて彼の地へと至らん」
三人の術者による連鎖詠唱。複数人の同調した魔術行使は一人で行う魔術の数倍の効果を発揮する。また、複数で演算などを行うため、精度の上昇も期待できるのだ。当然だが欠点もあり、参加者全員の意思統一が必要だったりと制限も多い。
だが、緊急時に使用するのでもない限りは、全く問題ない。むしろ安定するために推奨すべきだろう。とはいえ、複数人での魔術行使に初心者の内から慣れ過ぎると、単独で魔術を使えなくなる恐れがあるため注意しなければならないが。
加えて言うなら、今回の転移魔術には試作型の転移補助装置を用いている。サラ一人でも高速飛翔魔術でこのティエの街とトゥローサの街を数時間で往復できるが、わざわざ転移などという多量の対価を必要とする術を使うのはこの試作品の実験のためである。長距離空間転移の実験が実地で出来るというのは割と貴重な機会なのだ。
『空間跳躍』
三人の声が揃い、魔術が発動する。
体から重みが消える強烈な浮遊感がサラを襲う。慣れていないと吐き気を覚えたり、酷い時は意識を失うと言われる転移酔いだ。が、慣れてしまえばどうということはないし、むしろ結構気持ちいい。
実際には一秒と掛からなかったであろう時間ののち、重さの戻った体で前を向けばそこには本拠地である白妙の塔がある。
自分の仕事を果たすため、サラはイーリスと共に塔の中へと入って行った。