第七十八話
フロウの診療所の休憩室で、サラは一人静かに覚悟を決めていた。
この件が終われば、もうサラに日常への未練は消える。これが最後に別れを告げる相手になるだろう。
心配なのは、サラがデミウルゴスを滅ぼせるか、ただそれだけだ。他の心配など必要ない。
自分の能力が最早人域どころか魔王すら超えていることを、サラは自覚している。だが、それと同時にサラは神々の高みもまた知っている。
今ならば問答無用に負けるということはないだろう。相手がどれほどのものを持っていたとしても、少なくとも初手で倒されることはありえない。
だが、まだサラはそこまでで止まっている。
現在の全力がどれほどなのかが分からないのだ。全力で魔術を行使した場合、あの荒野の世界でさえ内側から食い破れるほどにまで強くなったがゆえに、逆にどこまでの力を持っているかが分からない。
嘆息し、サラは目を伏せた。
それらは今考えることではない。
まだ第五層表裏双方の管理者も倒していないのだから。
サラがそんな思索をしていると、コンコン、と部屋の扉がノックされた。
誰かなど分かりきっている。足音も三人分聴こえていたし、そもそもサラの感知能力なら意識せずとも個人を識別できる。
「どうぞ、入ってください」
入室を促すと、やはりイーリス、ジン、クレールの三人だった。
彼らを見るのも今日が最後だと考えると、少々名残惜しくもあるものだ。
とはいえ、引き延ばすのも性に会っていないし、時間も惜しい。
どことなく緊張――いや、気圧されている風の三人を前にして、サラはゆっくりと口を開いた。
「迷宮実習、一位おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……」
返事をしたのはクレールだけだ。ジンは当然、という顔をしているし、イーリスはただ笑顔である。蝶であるオリオールの表情に至っては、一応人間であるサラが読み取れるわけもない。
個性が出ていて、良いことだ。
サラは早速、用件を切り出した。
「では、約束のお祝いですが……クレールさん、よろしかったですか?」
「――はい。二人には全部話しました。少しの間、学園を離れることになりそうですけど、大丈夫です」
「分かりました。それでは、まずは分かりやすい順に普通の贈り物からさせていただきますね。
はい、イーリスちゃんにはこれです。どうぞ」
クレールに確認を取ったサラは、笑顔でイーリスに短剣を渡す。
魔力もへったくれもない、しかし純粋に堅牢な短剣。
「武器としての実用性もちゃんと備えていますが、それはお守りみたいなものです。これから、頑張ってくださいね」
「? うん、ありがとう、お姉ちゃん」
イーリスの笑顔に、サラは僅かに心が痛む。けれど、これでいいのだ。
サラがイーリスに直接干渉する機会は、もう二度とない。だから、刻んだ魔術はこれで間違っていないはずだ。
幸せに暮らせますように――加護を与えるでもない、祝福するでもない、ただ祈るだけの術式。事実上、サラが刻んだとしてもこの魔術が何かに影響を与えることはない。
これからのイーリスにサラの影が残ることは好ましくない。死のうが生きようが世界から放逐されるサラの影響など、これ以上大きくするものではないのだから。
頭を切り替え、サラは非常に生温かい笑みを浮かべてジンを見据える。そういえば、戦い以外では久しぶりの感情だ、この楽しいというのは。
嫌な予感がしたのだろう、ジンは大きく深呼吸してサラに向き直った。
「えーっと、それで俺には……」
「これです」
言いつつ、サラは机にドンとそれを置く。
あの鞘と、それに収められた剣だ。この剣のほうはちょっと驚かすためだけに仕込んだものである。
「あと、これが説明書ですね。よーく読んでおいてください。出来れば一言一句暗記するぐらいに」
次にサラが載せたのは分厚い本だ。辞書と同じくらいの厚さがあるだろうか。
一般人にこれを隅々まで読ませるのは一種の拷問としか思えないが、しかし必要な措置だ。なにせ、読み込んだ上で使いこなせば、恐らく十二使徒さえ超えられるかもしれないのだから。
「あの、これって……」
「神器です。この世界の歴史上最も豪勢な方々によって創られた、使いこなすことさえ出来れば人界最強の名を欲しいままに出来るかもしれない、途方もなく使い辛い神器です」
「え?」
「ちなみに魔術が百以上付与されています。ただし、どれも基本的には瞬間的かつ低効果で、効率的な使用にはかなりの熟練が必要でしょう。頑張ってください。
ああ、それと――」
言いながら、サラは鞘から剣を抜き放つ。どう考えても鞘に入りきらない大きさの大剣。
この大剣もそこそこ良いものだ。総鋼鉄製なので少々重いが、まあ許容範囲ないだろう。並の人間が持てる重さではないが。
唖然とする三人を前に、サラはにこりと笑う。
「どんな剣でも入りますので、好きな剣を使ってください。あ、この剣も差し上げますね。それなりに良い物ですので、売れば防具を新調できるかもしれませんよ」
大剣を鞘にしまい直し、サラはジンにそれを渡す。
多分、ジンは剣の方が神器だと思っていただろう。それが普通だし。
この驚いた反応が見れたので、サラとしては大満足だ。一応実用範囲内だし、文句はきっとないだろう。多分。
どうしよう、という表情をしているジンから視線を外し、サラはクレールを見据える。
「では、覚悟はいいですか?」
「はい。大丈夫です」
「分かりました。わたくしも十全の防御を皆さんに張ります。多分死ぬことはないと思いますが、出来る限り気を強く持ってください」
「……あの、薬じゃないんですか?」
「いえ。あれは解けるかどうか疑問が残りましたので、そういう関係の専門家に頼むことにしました。ですので、頑張って意識を保ってください」
真剣な顔で、サラは全員に警戒を促す。
困惑の表情を見せる三人だが、サラの本気の表情を見て何も言えなくなってしまう。
サラも、脅し続けるのは本意ではない。だから、さっさと呼んでしまうことにした。
「蛇神さん。出番です」
「ようやくか」
いつの間にか。
いつの間にか、サラの隣にそれは座っていた。
優雅に茶など飲んでいる、その仕草だけで部屋全体に凄まじい負荷を与える化け物。
精神防壁のない存在は見ただけで恐怖と畏怖で全てを支配されるだろう。だが、先に部屋全体をサラが支配し、三人に多重の防壁を掛けた上、オリオールが魔術的城塞で完全に防護している。
ここまでして、ようやく意識を失わずに済むのだ。平然と話すことのできるサラやブリジットの肝の太さがよく分かるだろう。
「君だな。性別反転の呪いとは、また面倒なものを。だが、安心するといい。もう終わる」
蛇神が指を弾くと同時にサラは見た。
クレールの魂に絡みつき歪めていた黒い何かが一瞬で蒸発し、即座にしかし体や精神に一切の負荷をかけることなく魂が元のかたちへと戻っていく様を。
かなり根が深いもののはずだが、造作もなく呪いだけを破壊するのは流石神というべきか。
とはいえ、何年も今のかたちを保っていた体は呪いの破壊からの負荷に関係なく、元のかたちへと戻るにあたって大きな苦痛をもたらす。
「ぎ、あ、い、ぎぃいいいいい!?」
全身を苛む激痛にうめき声を上げ、クレールは椅子ごと床に倒れ込んだ。
服の胸の部分を掴み、苦悶にもだえ苦しむ。
「く、クレール?」
「触るな! 肉体変性過程で他者が触れると、存在に混ざって妙なことになるぞ!」
イーリスが手を伸ばしかけるが、蛇神からの鋭い声にビクッと手を引っ込める。
しかし、苦しんでいるクレールと蛇神を交互に見て、泣きそうな目で口を開いた。
「でも……!」
「大丈夫ですよ。これだけ大きな声を上げられるなら、全く問題ありません。危険なのは声すら上げられなくなったときです。
それに、死にさえしなければ治せる存在がここにいます。ええ、何も、問題はありません」
サラの言葉を聞き、イーリスは目を見開く。
イーリスにとっては初めてだろう。サラの異常なまでの自他への厳しさを垣間見るのは。
根本的にサラは死にさえしなければ、四肢を永久に欠損したりしなければ、何も問題ないと考えている。これは圧倒的強者の思考だ。
痛いのも苦しいのも辛いのも、何もかも全てを己の糧と出来る、求道者の思考。これぐらいの損傷ならどれぐらい動ける、腕一本無くなったらどう重心が狂う等、理解できてはいけない類のもの。
イーリスも今、サラの持つ狂気に気付く。この、最後の時に、ようやく。
そうこうしているうちにクレールはもがくのをやめ、荒く息を吐きながらゆっくりと起き上がった。
「……元に、戻った、のか?」
言いながら、クレールは自身の身体を確認する。声も今までより一段高い。
握りこぶし一つ分ほど身長が縮み、体つきが女性的な丸みを帯びている。今までの体格的に服の大きさが合っていないはずだが、体の線にあった大きさに変わっているのは蛇神の仕業か。まぁ、学園の男物の制服では豊かに実った双丘を収めることは出来ないので、当然の処置か。
サラがちょっと人外の範疇で深みまで探るが、クレールの身体に異常は見られない。
もう安定しているようだし、大丈夫だろう。
「うむ、完璧だ。急激に肉体が変性したから、内分泌系が狂っている可能性がある。しばらくは定期的にフロウに体を診てもらえ。
では、私があまり地上に長居するのも良くないから、もう帰るぞ。じゃあな」
言いたいことだけ言い、蛇神はさっさと姿を消す。
何か言う暇もなく消えた蛇神を意識から外し、サラはゆっくりと全員を見渡した。
「やることは終わりましたし、わたくしも帰ります。クレールさん、フロウさんはちゃんと診察をしてくれるので、もし異常が出たりしたらすぐに診てもらってくださいね
イーリスちゃん、これからも元気に過ごして下さいね。ジンさん、その神器、まだ名前が無いので適当に付けてあげてください」
一人ずつに声を掛け、最後にサラはオリオールに念話を飛ばす。
『では、とこしえの別れです。もう二度と会えないでしょう。恐らく、今日明日……遅くとも明後日には絶後の事が起こるでしょう。皆さんのことを、お願いします』
それだけ言って部屋を出て行こうとするサラに、オリオールが慌てて呼び止める。
『待って、どこまで辿り着いたの!?』
『表裏第五層、最深部へ。あとはもう、デミウルゴスの分身体と本体を残すのみです』
『!?』
絶句するオリオールを尻目に、サラは扉に手を掛けようとし、最後に一度だけ振り向く。
そして、スカートの裾をつまみ、軽く持ち上げながら深々と一礼した。
「では、みなさん。さようなら」
明確な別れの言葉。
その意味に気付けているのは、オリオールのみ。イーリスでさえも、サラのその行動の意味は分からず――誰も、サラに声を掛けることは、できない。
なんとなく満足したように、サラはゆっくりと歩き去る。
残されたものは、サラの雰囲気の違いに何か察することが出来ただろうか?
サラはその日のうちに第五層管理者へと挑む。
その歩みは、決して止まることはなく――