第七十六話
裏の第五層へ到達し、サラが一度家に帰った時の事である。
一息つくために戻ったのだが、息のつけない相手がいることに気付いたのだ。
「蛇神さん? 何か御用ですか?」
「ん? そうだな。さて……」
「あ、そうでした。蛇神さんに一つお願い事があるんでした」
「ふむ、何かね? 言ってみるといい」
「ええ、実は……」
サラはクレールの事を話す。
存在そのものを捻じ曲げる呪い。サラでは手が出しようがないし、他の誰かでも不安が残る。
だから、存在干渉の専門家に立ち会ってもらったうえで解呪を行おうと考えたのだ。
「――人類種も結構やるものだ。いっそ薬など使わず、私が直接直してやろう。その方が確実だし、安全だ。しかし、対価をもらうことになるがいいか?」
「わたくしが払えるものでしたら、何でもどうぞ」
「お前が払うのか? そのクレールとやらに払わせるつもりだったのだが」
「迷宮実習――学園の試験で一番を取るお祝いですから。対価を払わせるのは忍びないです」
サラはあっさりと言う。本心を口にしているが、サラの意図はそれだけではない。
単純に神が要求する対価を一個人が払いきれるとは思えなかったのだ。その点、サラならば大抵の対価なら問題なく支払える。
常人なら魂を要求されるほどの事でも、存在の位階の次元が違うサラならば違うもので支払えるのだ。
「そうだな……お前ほどの存在から対価を取るとなると難しいな。よし、髪を一房と、生爪を三枚、血液をそこの水差しに一杯分寄こせ」
「その程度でよろしいのですか? では、どうぞ」
一切のためらいなく、サラは自分の爪をむしり取って差し出し、髪を一房切り取って布で纏めて蛇神に渡し、手首を切って水差しに血液を満たして渡す。
一瞬の遅滞もない。そうするのが自然であるかのように、サラはそれらの行動を行う。
痛みが無いわけではない。髪を切ることに抵抗が無いわけではない。それでも。サラが躊躇することはない。
するべきことであるのなら、する。ただそれだけだ。
そこに感情の介在する余地はない。――人間味がないと言ってもいいかもしれない。
「確かに受け取った。では、また正確な日時を教えてくれ。契約に則り、解呪を行おう」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
既に、今サラが自分で付けた傷は消えている。傷跡すらない。
恐るべき再生能力だ。ただ、この程度出来なければ魔王級の戦闘には耐えられないのだが。
「それで、蛇神さんも何かわたくしに用事があったのでは?」
「ああ、いや、たいした事じゃないんだ。悪いとは思ったが、白妙の塔で日記を読ませてもらったのだが、その内容について二、三質問したいと思ってな」
「うちの家系の日記は読まれることが前提ですので構いませんが……何か変なところでもありましたか?」
小首をかしげるサラ。蛇神が人間の男なら魅了されていたかもしれない、可愛らしい動作だ。
だが、そんなものが外見だけだということは、日記を読んだ者なら分かるだろう。サラの強さを見る必要すらない。
正気のままに狂気を抱え、その全てを自らの内に抱き止める。
――だから、聞きたいのだ。既にあらゆる能力を駆使したとしても、サラは心を読める存在ではなくなっている。
「なぁ、サラ。お前、あの日記に書いたことは全て本心か?」
「? そうですが、どうしましたか?」
「……あの、死ぬには良い日だ、も本心なのか?」
「それ以外に何があるんです?」
心底不思議そうな顔をして、サラは蛇神を見る。
完全に本気の目だ。どこに不思議な点があるのか分からないとでも言いたげに、真っ直ぐと蛇神を見ている。
これが恐らくサラ以外の一族の答えでもあるのだろう。
毎日、その日その時いつ死んでもいい。否、いつ如何なるときに死ぬとしても、それを受け入れる覚悟が出来ているということだろう。
たとえ、今この瞬間にサラが死んだとしても、未練なく死ぬに違いない。または、デミウルゴスを倒せなかったことを悔やむぐらいか。
その程度なのだ。
根本的に生に執着していない。
英雄――人柱として、生贄として自らを定義づけているために、無為に死ぬのは御免こうむったとしても敵と相討つ覚悟は常に出来ているのだ。
最大の敵を殺し、後につなぐことが出来るのならばそれで全てが構わないのだ。
蛇神はそれ以上何も言えない。二の句が継げないとはこのことか。
押し黙ってしまった蛇神を不思議そうにサラが見る。そんな不思議な時間が十秒ほど経過したころだった。
ぬるりと影から人が出てくる。全身黒尽くめのキザったらしい男、アルカードだ。
さしもの吸血鬼もごく近い位置から神気を浴びるのは非常につらそうである。が、素で上級魔人であるため、気合さえ入れれば大丈夫なようだ。
「少々遅くなったが、約束を果たしに来たぞ」
「ああ、アルカードさん。貴方が処断したセイファート一族の話でしたね。お茶を淹れますので、座っていてください」
「……え?」
ぽかんと、口を開き、アルカードはそれを見る。
少しの間とはいえ、この吐息だけでアルカードを消し飛ばせそうな化け物と一緒に居なければならないのか。しかもサラ抜きで。
上級以上の魔人が持つ超高速の思考で、アルカードは答えを叩き出す。気にしなきゃいい、と。
巨大な清浄の魔力は太陽光よりもアルカードを灼くが、なんとか頑張れば無視できる程度だ。じりじりと体表が消し飛んでいくような感触があるが、幸い再生不可ではないので吸血鬼特有の超速再生で拮抗できる。
肌が灼かれるのを再生で拮抗するのはきついが、太陽よりはマシだ。
ほどなくして、サラが三人分のお茶を淹れて持ってくる。正直なところ、アルカード的にはサラのお茶はあまり好ましくない。
完璧な手順で完璧な作法で淹れられているのだが、それだけだからだ。
その日その日の狂いというものが存在しない。全てが正確過ぎるために、面白味に欠けるのだ。
とはいえ、いつ飲んでも同じ味が出てくるというのは、それなりに安心感がある。同じ葉を使う限り、サラが違う味を出してくることはないのだ。――セイファートが違う味を出すことはない、と言ってもいいだろう。
何百年も前から、たまに飲んできた茶の味だ。本当に、どうやってこうも正確に子々孫々に継いできたのか。
「さて、我が処断したセイファートの話だ。我は歴史上で三回、セイファートの処断を行ってきた。一回目は三百年前、終わらぬ戦いで血に狂った男だ。二回目は二百年前、愛が深すぎたがゆえに殲滅対象となる激甚災害指定生物を匿った女。
この二人は、ある意味で仕方がなかった。戦う、守るという使命が行き過ぎた結果だからだ。どちらも、被害は一つの村程度でおさまるぐらいだった。後者は自分の全存在でその生物が及ぼす害を抑え込んでいたというのもあるな。
だが、今回の三回目。フレデリックは違った。生まれる家系を間違えた存在だ」
「どういうことですか?」
「一般的な商家や武家にでも生まれれば幸せだっただろうな。少々名誉欲や色欲などが人より強かった男だ。
十年前の魔王ゼイヘムトとの大決戦の最中、自らを仮死状態にすることで生き延び、セイファートの力を何の枷もなく使おうとしていた。周到に準備して隠れていたせいだろうな、発見が遅れ、一国を作りかけるまで我々は気付けなかった。
もっと前に捕まえることが出来ていれば、処断などせずに済んだかもしれない。お前一人にセイファートを背負わせることもなかったかもしれない。あの男もセイファートの技を身に付けていたし、手ほどきを受けることが出来たかも知れない。
すまない。ただ、それだけしか言えない」
殺される覚悟すらして、アルカードは頭を下げる。
この一件がなければ、サラはちゃんとした教えを受けることが出来たはずなのだ。こんな幼さで死地へ挑み続けることもなかったはずなのだ。
そんなアルカードに、サラはゆっくりと声を掛けた。
「頭を上げてください」
「いや、しかし」
「いいんです。頭を上げてください。お願いします」
頼まれ、渋々とアルカードは頭を上げた。
と、サラが深々とお辞儀をする。
「ありがとうございました。その男を殺していただいて」
「え、いや」
「当時のわたくしでは、恐らく返り討ちにあっていたでしょう。一族の恥は一族で雪ぐが掟でしたのに、その役目を変わっていただいて申し訳ありません」
至誠の心が込められた言葉だ。
一切の嘘偽りが含まれていない。この少女は本気でこれを言っているのだ。
「出来る事なら、わたくしがその男を打ち殺してやりたかったところです。それが出来なかったこと、それだけがただ悔しいですね」
「……それだけ、か?」
「それ以外に何かありますか? あのゼイヘムトさんを前にし、自らだけ生き残ろうという性根がまず許せません。たとえ、生きていたとしても、そのような下郎から教わることなど何一つとしてありません。
敵前逃亡など、情状酌量の余地なく死刑です。その後の行動も到底許せるものではありません。
そんな者を処分していただいたのです。感謝以外に何をいたしましょうか」
本気だ。完全に本気で言っている。
部屋の温度が僅かな時間で氷点下に達したかのような錯覚を、アルカードは覚えた。サラが殺気を放っているわけではない。だが、何故か背筋が凍るような感覚が常に足元から襲ってきていた。
そんな空気の中、ふむ、とあごを撫でて蛇神が口を開いた。
「どうやってそいつを殺したのだ? お前はそれほど強くないようだが」
「え? ああ、目の前に姿を見せた後、後ろの影に転移して一突きで……」
「ほほう。影渡りの一族――ん? お前、もしかして純血の魔族か。これはまた珍しい」
「生まれて五百年ばかりの若輩ですがね。――さて、用事も終えたし、影は影に帰るとしよう。サラ、もう会うこともないだろう。生きるか死ぬか分からんが、死ぬまでは元気でな」
「ええ、アルカードさんもお元気で」
それだけ言い交わし、アルカードは影に溶けて消える。
あっという間にサラの感知範囲外まで消えていく速度は、流石と言うべきか。サラの知覚能力ですら初見では追いきれないほどだ。
それにしても、あっさりとした別れである。
御涙頂戴もクソもない。お互い明日に死んでもおかしくない身のため、こんなものなのだ。
「いや、良いモノを見れたし、聞けた。気分がいい。何か聞きたいこととかはないか?」
機嫌良さそうに、蛇神が言う。
そう言われても急には聞きたいことなど思い浮かぶわけもない。
サラは軽く首を捻ると、なんとなく口を開いた。
「では、一つお聞きします。この世界に元いたはずの神様がたはいないんですか? 神格存在のうちの大体はそうだと思いますけど、蛇神さんたちほど強くはないですよね」
「この世界を創った神々の事か。原初神族、そう呼ばれていた。一柱がこの世界という枠を創り、その下にいた三柱が中を満たしたのだ。が、まぁ色々あって、全員死んだ。一柱だけは、世界を守るための礎となったんだがな。
そうだな、名前くらいは教えておこう。創造神『愚者の王』ライオネル・ルーゲイン。物質――混沌の創造者『狂神』クロヴァルド。理の創造者『無限』インフィニティ。そして、生命の創造者『世界の女神』アスフィリア・ルーゲイン。
皆、我々に勝るとも劣らぬ力の持ち主だった。世界樹、あれこそがアスフィリアの遺した究極の世界維持装置だ。あらゆる汚染を吸い上げ浄化し、無尽蔵に魔力を創造することで世界を保ち続ける。見事なものだよ、本当に」
言いながら茶を飲み干し、蛇神はゆっくりと立ち上がった。
もう、話は終わりのようだ。
「さて、解呪の日になったら、呼べ。お前が私の名を呼べばすぐわかる。またな」
蛇神はそう言うと影も形もなく消え失せる。今までは分からなかったが、これは恐ろしく高度な魔術だ。
自分の存在する位置を書き換え、移動したのだ。正直、どうやったのかサラにも分からない。ある程度直感的には理解できるが、それ以上の理解を頭が拒むのだ。恐らくは理解したら常識が消え失せるだろうほどの力だ。
これは強さとは関係ないことだが、しかしすごい。真似できる気が一切しない。いや、してはいけない類のものだろう。
サラは嘆息しながら食器を片づけ、そして。
今日はもう無理をせず、休むことにした。まだ無理をする時ではない。
まだ、本当の敵には出会えてすら、いないのだから。