第六十六話
七日間の迷宮四層攻略自粛期間を終えたサラは、全ての障害を踏み越えて進む。
第四層、本来なら罠に気を付けた上で多種多様な魔物に対する攻略法を見つけ、全ての魔物が宿す猛毒をどうにかしつつ、高一歩間違えれば高所から落下するという恐怖と戦って進むべき場所だ。
その全てを。
サラ・セイファートは無視して進む。
無理なのだ。サラが纏う絶大な魔導練氣はありとあらゆる干渉を無効化する。
強化に時間が掛かる、という点から出した単純な答えだ。最初から強化しておき、圧倒的な速度でサラにとっては無意味に近い迷宮を踏破してしまえばいい。
既に第四層を攻略できるようになってきた冒険者が数組存在する。なら、探索は彼らに任せればいい。サラが行うべきは人類の脅威を最速で取り除くことである。
そう、つまり、最上級魔人を根こそぎ潰しておけば、あとはもう他の誰かで充分対応できるのだから。
途中、邪魔しにでも来たのだろう上級魔人を一蹴し、サラは僅か二分の時間で第十二階層、第十三階層を踏破したサラは、第十四階層に入った瞬間に一度足を止めた。
強い気配が一つある。能力的には魔王級よりは低いが、それでも間違いなく最上級魔人。力の質を感じ取る限り、恐らくは神族か。
迷宮の階層全体を一瞬で支配下に置くほどに苛烈になったサラの領域支配力は、探知魔術を必要とせずに全てを掌握する。
敵とみなした存在の位置を一瞬で把握し、サラはそこへと向かう。大量の魔物がいるため、ここは管理者の階層でないことは分かりきっている。
襲い来る無数の魔物を一瞥すらせずに鏖殺し、サラは小世界を打ち砕く打撃を繰り出す。
轟音と共に階層全体が鳴動し、足場となっている石版が周囲の数十枚ごとまとめて消滅し、一瞬後全てが元に戻る。
ちなみに、サラは今の打撃を最上級魔人にわざと当てなかった。
示威行為だ。敵ならば殺す。こちらにはこれだけの能力がある。だから、貴様はどうする? という無言の問いかけである。
そんなものを行われた方はたまったものではない。いきなり階層に現れた何者かに、いきなり常識外の絶大な攻撃を見せつけられたのだ。
最上級魔人である神族の少女は、思わずへたり込んでサラから距離を取るように後ずさった。
「え、え? あの、な、な、なん、なんなんですか? ひ、そのっ」
敵意は認められない。しかし、サラは一切の油断なく、戦闘態勢を崩さぬままで戦鎚を構え、殺意の視線で少女を射抜きながら口を開いた。
「名前と、ここにいる理由を述べてください。虚偽と判断した場合は四肢の一本は覚悟してもらいます」
「ヒィイッ!? は、話します、話しますから許してくださいぃ……」
もう泣きが入っている少女だが、しかしサラは戦鎚に纏わせる魔力の量を増大させる。現時点で構えているサラごと石版にヒビを入れるほどの重量がある。サラが足元に張っている足場用の障壁越しでさえ、頑丈な石版を砕くほどの重さ。
ただ落としただけでも、人間は原型を留めないだろう。
「余計な言葉は引き延ばしとみなします。次、許しを請うなどの行動をとった場合は右足とさよならしてもらうことになります。無言を貫くなら、十秒ごとに一本砕きます。よく考えて行動してください」
「グ、グラナリア・エル・ベルファードです! 第二階級神族で、ここにいた理由は人間の補助を行う任を『魔導神』アーカム様、『万物の覇王』蛇神様から受けたからです!!」
「その証拠を出せますか?」
「しょ、証拠!? ちょ、ちょっと待ってください! アーカム様から頂いた神器、神器が……ありました! こ、これで、信じていただけると」
可哀そうなぐらいに震え、神族の少女グラナリアはサラに手のひら大の金属片を渡す。
受け取るときすら、背後に宇宙属性魔術特有の歪みを生じさせて妙な行動を取れば即時滅殺出来る準備をしておくあたり、サラの警戒度合いが分かる。
当然の話だ。サラが強くなったとはいえ、身体構造は人間と変わりない。最上級魔人の攻撃ならサラの防御を容易に貫通する。
ここで死ぬわけにはいかない以上、サラの処置は当然なのだ。
「これが、何か」
「え? 疑われたらそれを渡せと指示されていて、ですね、その」
そう、グラナリアが言った瞬間だった。
サラ以外の時が止まる。超高位の時間属性魔術。否、世界干渉魔法によってサラを一時的に時の外に置いたのか。
色を失った世界に、それは現れ出でる。
降臨。その言葉が正しいか。今のサラと比べてさえ、絶対的な差がある存在が目の前に立つ。
男とも女とも取れない美麗な容姿の、神格。
敵意も戦意もない、しかしそれでも桁外れの力を持つそれを見て、サラはゆっくりと口を開いた。
「貴方は……」
「『万物の覇王』蛇神。見事だ、セイファートの裔。第五層、そこに到達したとき、全てを知る権利を与えよう」
サラの問いに答え、蛇神はサラをじっと見る。
全てを見透かされるような視線。ただそこに存在するだけで圧倒されるほどの存在感。
あのギルフィーと同格だろうか。以前はただ気圧されていたが、今は違う。
しっかりと胸を張って見返し、サラは頭を下げた。
「お初にお目にかかります。サラ・セイファートと申します」
「よくぞここまで練磨した。私を見てもひるまぬ、その鍛錬は見事の一言だ。だが、そいつをあまり脅かしてやるな。そいつは特化能力を持たない、補助寄りの第二階級神族。今の貴様なら、なんなく粉砕できてしまう程度に過ぎない」
蛇神は笑いつつ、自身の纏う気配を濃密にする。
サラがどこまで耐えられるかの試験のつもりだろうか。
だとしても、一切問題はない。確かにサラは蛇神に勝つことは出来ないだろう。
だが。
一矢も報いれずに終わるほどにやわな鍛え方をしてきたわけではない。
まるで頭を掴まれて地に直接こすりつけさせられるかのような暴力的な威圧を真っ向から受けながらも、サラは完全な自然体でそれに相対する。
この巨大な力には、力で抗うことは不可能だ。技さえも粉砕するだけの差がある。なら、あと残っているのは意志のみ。
そして、不退転こそがサラ・セイファートを形作る根幹である以上、今のサラを屈させることの出来る者など、存在しない。
蛇神は不意に力の解放を止めると、サラの様子を確認する。力に力で対抗していたのなら不意打ちで止めれば重心を狂わせたりするものだが、そういう揺らぎが一切ない。つまり、サラは本当に平常の状態で立っていたということだ。
なるほど、と軽く漏らし、蛇神は皮肉気な笑みを浮かべた。
「……お前は面白いな。血族の最後が、アレらの中庸の性質を示すか。うん、面白い。
まぁ、そんなことは置いておいて、グラナリアはお前達の区分でいう最上級魔人だが、どちらかというとフロウ寄り――むしろあの子以下の非常に残念な子だ。平均的で事務型だから、戦闘能力は上級魔人上位並、補助能力はギリギリ最上級に届かない程度だったかな。
情報を統括して扱う能力だけなら常軌を逸して高いんだが……戦闘にはまるで役に立たん。まぁ、面白い使い方を考えて役目を振ってやってくれ」
「あの、なにが中庸――」
「気にするな。単にお前達の始まり、その最初の夫婦のど真ん中に近い性質を持っている、と感心しただけだからな。どっちかに寄るのでなく、苛烈さと寛容さを併せ持つとは思っていなかった、それだけだ」
なつかしむように遠い目をする蛇神に、サラは軽く首を傾げる。
自分を通して誰かを見られるというのは、何ともむず痒い気分になるものだ。
「あの、その方々とは……」
「それを含め、第五層に到達してからだ。だが、なんでも教えるわけではないことを覚えておけ。訊かれたことには答えよう。だが、訊かれていないことには答えない」
「了解しました。色々と考えておきます」
「良い答えだな。そろそろ時間だ。また会おう、神殺しの系譜たるセイファートの末裔よ」
言い終わるのと同時に蛇神は消え、世界に色が戻る。
残されたのは怯えているグラナリアと、頬を撫でる風ぐらいか。
サラは強化を解いてグラナリアへと手を伸ばした。
「まぁ、とりあえずここを出ましょうか」
「え? あの、その……」
「貴女への疑いは晴れましたが、どうもお荷物のようですので、地上に置きに行くだけです。道に迷われても大変ですので、地上に案内して魔術師協会――とりあえず保護してくれる組織のところまでは連れて行きます。
そこからは自分の才覚で何とかしてください。わたくしのような存在は他にいないので、基本的には貴女より強い存在はいないはずですので」
サラの伸ばした手を、グラナリアは取る。殺気や戦意が無くてもおっかなびっくりなのは、心の底にまで刻まれた恐怖からだろうか。
グラナリアを起こしながら、サラは内心で嘆息した。これで今日はもう迷宮攻略は切り上げになってしまう。情報と引き換えになるため文句は言えないが、しかしもう少し進みたかった、とサラは思うのだった。
今回の迷宮実習は中止、そして森灰色熊の変種が根絶されたことが確認されるまで延期されることとなった。
幸運なことに死者はいない。腕や脚を失うものはいたが、それぐらいならフロウの治癒魔術で跡形もなく治るので問題はない。――重傷を負った生徒が自主退学することになったとしても、問題はない。
その報告を聞いて、最も安堵したのは誰だろうか。学園の校長になったものだろうか? それとも生徒の親族だろうか?
違う。ディルだ。
森灰色熊の変種自体がそもそもディルの行ったとある実験の産物なのだが、今回の大規模発生は一切彼女の関知していない、一種の事故であった。
死者が出ず、また森灰色熊の変種自体の戦闘能力が第一層にいてもおかしくない程度だったためにそこまでの大事にならなかったが、もし死者が出ていればディルは一巻の終わりだっただろう。
何もできずに死ぬ、という最悪の結果が避けられたディルはとりあえず胸を撫で下ろしながらイーリスを探していた。
色々調べ終わったのと、またちょうどいい話題もあるため、接触を図ろうとしているのだ。
ちょうど寮の庭を見ると、一人――と一匹でいるイーリスと白い蝶を発見する。好都合だ。あのフェルミエールが今回の件でディルに干渉してくることはないはず。
考えていた段取りを何度か頭の中で繰り返しつつ、ディルはイーリスへと近づいた。
「こんにちは。話を聞いたが、なかなか大変だったようだね」
イーリスの肩にいる蝶、オリオールが凄まじい敵意を向けてくるが、気には留めない。今この場の交渉はディルに許された権限によるものだ。中立役であるオリオールに邪魔される筋合いはない。
しかし、とディルは内心で感心した。
よくもまぁあの迷宮内でこのフェルミエールを見つけ、また手なづけたものだ、と。それを表情に出すことはないが、人間の可能性と言うものも認めてもいい、そういう気にはなる。
――ディルにとっては、何一切価値のないものだが。
「はい。わたし達の班には重傷者はでな――出ませんでしたけど、酷い怪我をした人を見ました」
「ああ、君達の適切な処置がなければ、彼は命がなかっただろう。見舞いに行ったが、もう元気そうにしていた」
事実だ。ディルも教えた生徒が重傷を負ったと聞いて見に行ったが、ピンピンしていた。治療特化最上級魔人の手に掛かれば、四肢が全部もげても問答無用で元通りになるというから恐ろしい。
そして、死者の蘇生も限定的ながら可能となる。
ディルは、その魔法がつい最近行使されたことを、知っている。
「ところで、君はサラ嬢と仲がいいそうだね?」
「……はいっ。お姉ちゃんがどうかしましたか?」
無垢な笑顔を向けてくるイーリスに、僅かにディルは心を痛める。
この笑顔を、神族たる自分が壊すことになる。それがどうしようもなく辛く、しかし深い愉悦をもたらす。
「彼女がつい最近、一度死んだことを知っているかね」
「――え?」
イーリスの顔から表情が抜け落ちる。
相手を騙すのに最も有効な手段、それは真実を使うことだ。特にこういう純粋な子供に嘘をついても仕方がない。
真実を以って、相手の思考を誘導する。嘘は言っていないが、詐術の一種と言っていい。
「彼女は第七階層探索中に、一度死んでいる。闘技場に唯一姿を見せた試合の、一か月前かそこらにな。覚えていないか? その辺りで彼女が授業をしなくなっただろう」
「あ……」
「あのとき、一か月かけて体を回復させていたのだ。最も近くにいた君なら分からないか? それがどれだけの傷を彼女に与えていたのかが」
言われて、イーリスはサラの事を思い出す。
たいていの傷なら一日と言わず数秒で治癒しきったサラが、一か月も動けずにいた。サラが一度死んでいた、その事実が頭を打ちのめしていて良く分からないが、想像を絶する傷を負ったということは間違いない。
そして、ディルの言葉に嘘偽りがあれば、オリオールがすぐさま訂正を加えるはずだ。
まだ幼く、周りを頼っているイーリスは、今混乱の極みにいた。
「――だから、な。もし、私があの子を戦いの輪から解き放つ方法を知っているとしたら、どうする? ただ、それは私が行うことはできない。君しか、彼女に最も近い君にしかできないことなんだが……」
そんなイーリスの胸中を、ディルは手に取るように把握していた。
幼い精神性を持つ相手に、ある程度高位の神族が持つ表層読心能力を用いればほぼ全ての情動変化を読み取れる。
この程度の芸当、他愛のないことだ。見たところ、イーリスの精神性は十歳前後ほどだろう。能力的にはかなり高くとも、見た目相応に心は幼い。
だからというべきか、現状はディルの思いのままに進んでいる。あとは、逃げ道を用意してやるだけだ。
ここで精神を追い詰め切っても、良いことなどない。強制した場合、オリオールからサラへの情報提供が行われる可能性がある。それだけは避けなければならない。
「今、答えを出す必要はない。明日、いつでもいいから答えを聞かせて欲しい」
それでは、と言い残し、ディルはその場を去る。
一晩時間を与えることになるが、仕方ない。これでディルの手を振り払うなら、導くものとしてそれはそれで嬉しい結果だ。
サラを戦いの輪から外す、それ自体に確実な方法などないし、ディルが行おうとしていたのはサラが自身に掛けている呪法を根こそぎ取っ払うものだ。
恐らく、サラに第四層素材で作られる解呪の水を気付かせずに飲ませられるのはイーリスしかいないし、加えて言うならそれを飲ませても解呪できるかどうかは完全に不明だ。僅かにでも弱体化してくれたらいいなぁ、程度に過ぎない。
どうせ駄目で元々、という精神で狙っていることだ。首尾よく行くなら解呪の水をディルが強化することも考慮に入れておくが――それはイーリスの回答を聞いてからでいい。
今は準備を進めるべきだ。
そう、確定していないことよりもサラを殺すために用意した神器『一なる神矢』に力を注ぐことの方が重要となる。
主となるサラ殺害方法はこの神器に頼ることになるから、限界を取っ払ったうえで可能な限り魔力を詰め込んでおかなければ。
さっさとディルが去って行ったあと、残されたイーリスは色を失った表情でよろよろと自室へと戻っていく。
オリオールは声を掛けることも出来ない。今は、そっとしておく以外にない。
だが。
ディル達と対立する立場としてではなく、サラの知り合いとして、なら一言イーリスに言わなければならないことがある。
今の混乱も、夜には消えるだろう。その時まで待てばいい。
オリオールはイーリスが最良の決断をすることを祈り、今はただそっと寄り添うのだった。