第六十五話
迷宮実習二回目。
今回の実習は前回とは完全に違い、学園教師陣は生徒を殺しにかかっているとしか思えない。
まず、期間は丸一日。その間、迷宮からの出入りは自由。
ただし、学園生以外の協力を得ることは出来ず、死亡同意誓約書まで書かされている。また、範囲も第一階層全体だ。
これが意味するのは一つ。身の程を知れ。ただそれだけだ。
たとえば、この迷宮においては夜に取れる素材の方が基本的に価値が高い。そう、つまり高順位を狙うなら夜に行くべきだ。
だが、その価値以上に夜は危険だ。なにせ、夜は魔物の行動が変わる。明るい内は魔物にとっての必勝法以外では襲い掛かってこないのに対し、夜になると生息域が入り混じる上にどんな状態からでも襲い掛かってくるようになるのだ。
冒険者協会で手に入る情報も、魔物の行動は昼のものしかない。夜間の行動は冒険者協会の情報力でも把握できていないのだ。
一応、戦闘状態に入れば、昼も夜も行動は変わらない。だが、魔物の奇襲から始まる戦闘と、自分達に都合のいい状態で始める戦闘には勝手に大きな差がある。
安全地帯など存在しない。全員が常に警戒を強いられ、一人でも緩めばそこから奇襲が来るかもしれない。
そんな恐怖におびえ続けなければならない、それが夜の迷宮だ。
「――大丈夫か、クレール」
ジンは油断なく周囲に目を向けながら、口を開いた。後ろにいるクレールに目を向けることはないが、その息遣いだけでかなり疲労していることが分かる。
何せ、ジン自身も疲労が溜まってきている。迷宮に入って僅か一時間、充分に休息を取ったうえで綿密な計画を立ててこれだ。
夜の迷宮をなめていた。そうとしか言いようがない。
一番余裕があるのはイーリスだろうか。サラに組んでもらった鍛錬の予定表を毎日実行しつつ、慣れてきたらきつくしているイーリスは、三人の中で最も基礎体力に優れる。サラの薫陶を受けているのは伊達ではない。
とはいえ、常に緊張し続ける、という経験はイーリスにはない。また精神的な幼さも加わり、肉体的な疲労はともかく、精神的な疲労は最も大きいかもしれない。
ジンは思考を巡らせる。
まだ先は長い。一度、ここらで休憩を取るべきだろう。
使い捨ての魔道具である魔物避けの巻物は、とりあえず五枚用意してある。一つに付き三十分ほど魔物を周囲から遠ざける結界を展開するもので、休憩するために持ってきていたのだ。
予定としてはもう一時間ほど進んでから休憩を取るはずだったが、仕方ない。今の状況では下手に無理をすれば、誰か死にかねないだろう。
「イーリス、一度索敵術式を頼む。魔物が近くにいないなら、魔物避けを使うから」
「うん、分かったよ。草木よ、我に教えよ、害なすものを。天網・樹草法」
それは木属性の探知魔術。この千変の樹海は草木で覆われている。そのため、イーリスにとっては最も広く、最も効率よく周囲の様子を知ることが出来る魔術だ。木や草の根の及ぶ地下まで調べられるため、使い勝手は非常にいい。
周囲およそ百ヤードには魔物はいない。これなら大丈夫だろう。
「ん、魔物はいないよ」
イーリスの答えを聞いて、ジンは背嚢を下ろして巻物を取り出し、広げて中心に手を置いた。
「発動」
その一言で巻物に刻まれた魔術が起動し、巻物を中心とした十ヤード四方ほどが安全地帯と化す。
大きく息を吐き、ジンはその場に座り込む。
自覚していたよりも、ずっと疲労度が大きい。疲労回復のための魔術薬も用意してきているが、ジンが飲むにはまだ早いか。
とりあえず、喋る気力すら失っているクレールに、ジンは魔術薬を渡した。
「ほれ、飲んどけ」
「いや、いい。大丈夫だ」
はたから見ても疲労困憊状態のクレールが、それを拒否する。
が、ジンは嘆息しながら無理やり押し付けた。
「青い顔してる奴に言われても、説得力ねぇよ。良いから飲め。じゃなきゃ、ここで引き返すことも考えにゃならん」
強く言われ、クレールは不承不承と言った様子で魔術薬を飲んだ。
即座に効果の出る類の薬ではないため、すぐにクレールの調子が良くなるということはないが、それでも三十分休む間には完調に近いところまで戻るだろう。
大きく息を吐きながら、ジンは今日の工程を思い出す。
僅か一時間の間に、十体ほどの魔物との戦闘があった。入り口近くを歩いていた二十分ほどに魔物が出てこなかったことを考えるなら四十分かそこらで十体。かなり多いと言っていい。
もっと奥の方なら、階層後半辺りなら魔物がごろごろ出てくるのも不思議はないが、まだ始まりもいいところでこの遭遇率はあり得ない。
しかも、どことなく昼の魔物より強い。
昼ならある程度傷を負わせればひるんだりするのに、夜の魔物は痛みも恐れも知らないかのように攻撃を繰り出してくる。
夜の迷宮が危ない、未熟なうちは絶対に行くなと言われる理由がよく分かると言うものだ。下手しなくても、夜に突っ込んだ学園生達には少なくない死者が出ているだろう。
正直、目的を達せるかどうかすら疑問になってきた。
今回の目標は第一階層中盤辺りに生えるという、月夜茸だ。キノコ自体に特徴はないが、生える木が月光を浴びて光るらしいが……それらしいものはまだ見えない。
もっと奥の方に生えているということだろう。
夜間に取れる素材は貴重なため、こういう目立つ感じの物でも高価になる。第二層以降で夜限定ともなれば、もう相場が存在しないために売り手の言い値で売られることが多い。
そのため、夜間限定に取れる素材の中では比較的難易度が低く、それでいて希少な月夜茸を狙っていたのだが……見通しが甘かったと言わざるを得ない。
安全を確保するために予定を変更するべきか、それとも無理を押して進むべきか。
ジン一人で考えていても埒があかないので、とりあえず全員に提案してみることにした。
「で、どうしようか。ここに来るまでの消耗度がかなり高い。この先に出てくる魔物は、多分今までよりも多いと思う。進むべきか、退くべきか、意見を聞きたい」
「行こう。薬も飲んだし、このまま休めばちゃんと動ける」
その言葉に、クレールが敏感に反応する。
恐らく、今現在、クレールが一番力不足を痛感しているだろう。だが、それでも無理を押して進むだけの理由がクレールにはある。
それだけに最も冷静さから遠いのもまたクレールだ。
随分と気が逸っているようだし、ジンはクレールを無視してイーリスの方に目をやる。
と、イーリスは近くの藪から選んで草か花を毟っているところだった。
「……なんかよさげなのでもあったのか?」
「『白雲草』の花が咲いてたから。葉っぱや根っこはよく見るけど、花が咲いてるのは初めてだったから、たくさん取っておこうと思うの」
「あー、確かに花はあんまり聞いたことないな。で、進んだ方がいいと思うか?」
「もうちょっとだけ、行ってみよ? まだ休憩できる巻物は余裕あるし、買ったお薬もあんまり使ってないから」
イーリスが今現在の三人の中では一番冷静だろうか。
現状の分析も出来ているし、休憩中に無理のない範囲で採取なども行っている。
撤退を念頭に置いて考えていたジンや、進むことしか頭にないクレールよりは随分とマシなはずだ。
が、一応、最も冷静な客観視点で物事を見ることが出来ている存在にも聞いておかなければならない。
「オリオール、どう思う?」
『ん~、イーリスちゃんと同意見かなぁ? 月夜茸が見つからなくても、もう少し先に行けばいい薬草とかが多くなるから。無理するのは良くないけど、多少は踏み込んでみた方がいいと思うよぉ』
多数決で三対一。
ジンは一つ頷いて進むことを決めた。
この判断が思いっきり間違っていたことに気付いた時には、もう手遅れになるのだが。
夜、冒険者協会に呼び出されたサラは、話を聞いて表情を引き締めた。
「――森灰色熊の変種、ですか」
「そう報告が来ています。前々から存在は確認されていたんだけど、目撃例や交戦報告が少なかったため、あまり周知されていなかったみたいです。が、つい先だって大量発生していることが確認されまして。
既に腕利き数組に依頼を出して向かってもらいましたが、何分数が多いのと、学園生の実習が重なってしまったので、早期に対処したいんです。
サラさん、手を貸してもらえますか?」
「当然です。その変種の見た目などを教えて下さい」
受付の女性から話を聞き、サラの表情が引き締まる。
イーリス達の心配はしていない。どんなに強い魔物でも、オリオールの障壁術を抜けるような怪物は第一層にはまずいないからだ。あれをブチ抜くには、最低でも第四層の守護者級の攻撃力が必要になる。そんなもんを使える魔物が第一、第二層にいたら、ダンテなどの冒険者最強戦力が常駐して狩り回らなければならない。
とりあえず、今回は原因を探し出して、再発抑制または法則を見出すべきだろう。
「普通の森灰色熊より二回り大きく、白い斑点が毛皮にある、ですね。分かりました。とりあえず全滅させてきます」
「えーっと、後から向かうルンさんの調査の為に、一頭ぐらいは生かしておいてくださいね」
「了解しました。一頭以外は根絶やしにしてきます」
豪快な返事をし、サラは協会を出、すぐに飛翔魔術で迷宮へと向かう。
その様を見た町の人々は驚いたかもしれない。建物から出てきた少女がいきなりどっかへすっ飛んで行ったのだから。まぁ、協会の前なので、そういう異常現象には慣れっこな人が多いかもしれないが。
音速をギリ超えない程度の速度で迷宮まで飛んで行ったサラは、そのまま第一階層へと向かい、殺戮を開始する。しかし、やはり数が多い。第一階層全域を覆う探知魔術を展開し、弱い人間の近くにいる灰色熊から処理に走るのだった。
「ウオオオオオッ!!」
ガキン、と音を立ててジンの剣が巨大灰色熊の爪を弾く。
ジンの剣も安物ではないが、しかし一級品でもない。迷宮に潜るのに最低限必要な程度のものだ。
尋常じゃなく爪の発達した巨熊の攻撃に何度も耐えられるような代物ではない。
だが、ジンは前に出ざるを得ない。なぜなら、後ろには絶対に通せないからだ。
ジン、イーリス、クレールの三人だけならオリオールの障壁があるため、一方的に打倒できるだろう。しかし、オリオールの力は隠さなければならないものだ。他人がいては使えない。
そう、今ジンの後ろには重軽傷者が複数いる。イーリスとクレールはそれらの手当てに回っているため、ジンはたった一人で森灰色熊の変種と戦う羽目に陥っていた。
魔力で全身を強化しているジンよりは鈍重だが、しかし攻撃の一発一発が常識外れに重い。純粋に体重が重いのと、異常発達した筋力が生み出す威力だ。
戦闘直前にイーリスに武器強化の魔術を付与されていなかったら、一合か二合で剣自体が折られていただろう。
単体なので何とかなっているが、もしこれが複数いたら三人でも危なかったかもしれない。
「焼き尽くす火よ! 炎弾炸裂!」
僅かに距離が空いた隙に、ジンはすかさず魔術を叩き込む。
三秒、魔力を練ることが出来ればジンでも少しは有効な攻撃が出来るが、しかし今回の魔術は目くらまし程度にしか効果が出ない。瞬時に魔術を発動させて有効打を与えるには、技量があまりにも足りないのだ。
だが、僅かな間でも視界を奪えれば充分。
ジンは果敢に前へ出て、自分を見失っている巨熊を斬り付けた。
確かな手ごたえが返ってくるが、分かる。浅い。
この熊は体毛自体が頑強でしなやか、また皮下に大量の脂肪と筋肉を蓄えているため、生半可な攻撃では致命傷にならない。
斬撃は効果が薄い。だが、剣を何本も持っているならともかく、重傷を与えられる刺突は武器を失う可能性が高い。
一瞬で様々な判断をしたジンは、斬り付けた勢いに倒れ込む力を加え、刺すようにして熊の左足首の腱を切り裂く。
片足でも使えなくなれば、それだけで戦闘能力は大幅に下がる。動きが鈍くなってくれれば、ジンにも勝ち目が出てくるという判断だ。
しかし熊はその傷を気にすることさえなく、振り向きざまにジンを思いっきり殴りつけた。
倒れ込む体勢にあったジンがその攻撃を避けることなど出来ない。全く踏ん張りが利かない状態で強烈な打撃を受けたジンは、弾丸のように飛ばされてしたたかに背中を木に打ち付けられた。
「カハッ!?」
肺の中の空気が全て吐き出され、激痛に視界が明滅する。
巨熊がジンへ向かってくるのが見える。幸運だ。完全に無防備な者達が攻撃されることがなかった。
無様に転がって追撃を避け、先ほど付けた足の傷へダメ押しの切り付けを行う。骨が見えるところまで切り裂いたが、それでも熊は一切ひるまない。熊の攻撃で木が砕け散ったのを見て、ジンの背筋が凍る。
先ほどは裏拳のような形で、しかも振り向きざまで威力が甘かったので助かったが、まともに喰らえばジン程度では命はない。
しかし、勝機はある。
痛みも恐怖も感じない魔物でも、しかし腱を切られれば少しは動きにくくはなるらしい。
恐るべきことに骨が見えるレベルまで切り裂いて、ようやく少しは鈍ったかなぐらいだが、それでも鈍ったのは確か。足を庇ったりはしなくても動きに支障があるようで、上手いこと動けず一歩ごとに膝を地に着けたりしている。
幸運なのは、これで相手が肉体に依存していることが分かったことだ。なら、目を潰して視界を奪えば、やりやすくなる。
体勢を低く保ち、ジンは攻撃を転がりつつ避けて下肢を中心に攻めたてる。さほど頭のいい相手ではない。本能を使ってくる昼ならまだしも、攻撃以外に何もしてこない夜なら、もう動きを見切っている。
一度、二度と攻撃を躱し、距離を取る。と、熊は跳躍して飛び込んできた。
分かっていたことだ。夜の魔物は、常に敵へとその時出来る最大威力の攻撃を繰り出してくる。なら、それを利用して行動を誘導することも可能だ。
最高の集中力を発揮し、ジンは飛び掛かってくる熊の下をくぐりつつ顔面を斬り付けた。
あやまたず、熊の右目を剣が抉る。視界を半分奪えれば、もう勝ちと言ってもいい。
ジンを見失った熊の後ろに回り、脊髄を切り裂く形で背骨の隙間に満身の力を込めて剣を突き刺した。
熊の悲鳴とも咆哮ともつかない叫びが夜を切り裂く。
それを聞きながら、ジンはただ静かに魔力を練り、差し込んだ剣の先から放出する。
「燃え尽きろ、魔物。炎滅剣」
剣から噴き出した炎が熊の体内を焼き尽くしていく。守りのない体内から焼かれた熊は、口や鼻から煙を吹き出し、音を立てて崩れ落ちた。当然、もう起き上がることはない。
剣を抜き、ジンは大きく息を吐いてイーリス達の方へと戻る。魔物避けの巻物を使う暇もなかったのだろう、イーリスとクレールは重傷者への治療で必死で、軽傷者はあの巨熊に襲われた恐怖からかまだまともに動けないようだ。
仕方ない、とジンが魔物避けの巻物を取り出そうとした時だった。
「ひぃい!」
誰かの声がジンの耳朶を打つ。と、怪我人たちの向こう側から、もう一頭の変種灰色熊が向かってくるのが見えた。
あとは、もう体が勝手に動く。
ほぼ死を覚悟して、ジンは全魔力を剣に込め、巨熊を迎撃しようとし――
いきなり目の前に現れて巨熊を蹴り飛ばした金色の誰かにぶつかった。
小柄な少女の背中。ただ、女性に特有の柔らかさなどは感じない。鋼鉄のような硬さで大樹のように揺るがないその背中にぶつかったジンは思いっきり顔面を強打して転げまわることになった。
「どうしたんですか、ジンさん」
どこからか突如として現れたサラは、とりあえずこの一帯に数時間は効果を持続する魔物避けの結界を張る。
そして、全員が生きていることを確認すると、最高級の治療用魔術薬を人数分取り出した。
「みなさん、現在ここは危険な状態になっています。朝まで有効な結界を張りましたので、誰かが迎えに来るまではここを動かないでください。この薬は差し上げますので、自由に使ってくださいね。では」
足元で悶絶しているジンを無視して、唖然としている学園生達に魔術薬を渡し、サラはその場から掻き消える。雷光にも似た超速度での移動は、未熟な学園生達には視認すら出来ないものだ。
誰も、それに声を掛けることすら出来ない。
しかし、魔物避けの巻物と似た魔力で周囲が覆われていることに気付き、誰ともなく大きく嘆息して気を抜いた。
また、渡された魔術薬が四肢欠損すら治癒できるもので、重傷者を完全に治せるものだと分かった時には、襲われた班の者達は涙すら浮かべてしまう。
弛緩した空気の中、ジンは自分の力の足りなさを実感する。
運よくサラが来てくれたので助かったし、魔物避けの結界を張ってくれたので休めているが、これらは全て自分達が勝ち取ったものではない。また、森灰色熊の変種に勝てたのも、向こうの攻撃が単調だったからだ。
研鑽が足りない。なにせ、ほとんど同い年に近いサラがあの強さなのだ。ジンももっと上に行けるはずだ。
強くなりたい。
ジンはその思いを強くしつつ、ゆっくりと木を背にして座り込む。
三時間後、熟練の冒険者達が救助に来るまで、彼らはただ待っていることしか、出来なかった。