第五十六話
レギオンを下して進んだ、第三層。
長い階段の途中から、サラの鼻腔を潮風のような匂いがくすぐった。
辿り着く前から、大体の光景が分かるというのはある意味すごいことだろう。
果たして、階段を下り終えたサラが目にしたのは、水平線の彼方まで続く広い海だった。
長い海岸線と、申し訳程度に生えている木々。左右を見渡せば、見事な岩場や断崖まで完備されている。
ちょっと全力で広域探査をしてみるが、どうも端が見えない。距離だけでなく、海の深さも、だ。下手をすれば数百マイル四方の圧倒的広さと、一万ヤード以上のばかげた深さを持っている可能性すらある。
救いなのは地上と水深の浅いところには大した魔物がいないところだろうか。地上の魔物と同等か、それ以下の魔物がまばらに存在する程度だ。地中に隠れている様子もないし、この広大な海をくまなく探せとでも言いたいのだろうか。
水中戦を得手とはしないサラは、軽く考えを巡らせながら辺りを見回す。と、今出てきた階段のすぐ脇に多少見慣れてきた石碑があることに気付いた。
「今までは隠してあったのに、ここでは普通に公開されてるんですね」
そんなことをぽつりとこぼしつつ、サラは石碑を読む。
――この第三層、深淵の蒼海。一つの階層にて構成す。
海を守護するは無双の海王。
勇気ある者よ、征して進め。
なるほど、たった一つの階層しかないから、とんでもなく広いらしい。納得の理由だ。
が、正直なところ、サラにはもうここの攻略法は一つしか思い浮かばない。恐らく最上級の魔人が次の層への階段付近で出待ちしているだろうが、そんなもの関係ない。
さて、やることは決まった。後はとりあえずサラ自身もある程度調査をして、戻ればいいだろう。
一つ二つ頷き、サラは軽く海へと目を向ける。
「――それにしても、露骨過ぎるほどの時間稼ぎの階層ですね。あの方がいなければ、一体何年ここで足踏みすることになったでしょうか」
本当にそうだ。海で、それも極めて深いとなれば、よほど水中戦に特化していない限りは無理難題の極みである。単純に次の層への階段を探すだけでも数十年と掛かる可能性がある。
そもそも、第二層のレギオンでさえ、生半可なことでは突破できない。というか、数を集めても完全に上回られる関係上、圧倒的な質を備えた少数で立ち向かわなければいけないため、サラのような化け物がいなければ実質突破不可能だった。
第一層はともかく、第二層以降はもう先へ進ませないようにしているとしか思えない。もしくは、
「これほどの苦難を乗り越えられる存在でなければ、先へ行っても意味がない。そういうことでしょうか。だとすれば、本当にこの奥には一体どれほどの……」
単純に、ふるい落とすためだけにこれだけの難度の迷宮を創りあげているということになる。
迷宮を創造したのは『魔導神』だという話だが、さて、一体どういう意図を持ってこういう構造にしたのか。
他にもいくつも迷宮が存在することはレギオンの言からして明白になったし、なぜここが最初に出現するようになっていたのかも、疑問になってくる。
その疑問の答えは、この最奥にあるのだろうか。
「……考えても仕方ありませんね。とりあえず試料になるものを採集していきましょう。あの方は、地上では雑魚以下ですから」
全て、今考えても詮無いことだ。
まずは動く。どうせいつかは答えの出てくることなのだから。
余計な思考を切り捨て、サラは陸上にあるめぼしいものを片っ端からかき集め始めるのだった。
白妙の塔の最上階で、ブリジットは頭を抱えていた。
最近、頭痛が止む時がない気さえしてくるほどに、目の前にある紙に書かれたことは重大なのだ。
ちなみに非常に簡単にまとめると、『神殿作るのに神化銀と導化銀が腐るほど必要。あと、物凄く強力な魔力を秘めた魔石と、その他希少な鉱石が山のように必要。ついでに信仰心篤い穢れなき乙女も用意してね』である。
まず最初の項目の時点で普通なら却下する。次のが重なれば報告者ごと紙を焼く。最後のはどうとでもなるので、あんまり頭は痛くないか。
が。
これは神々の頂点に立つ十二神の、直々の指令だ。ただの組織の長でしかないブリジットが断ることなんぞ出来るわけもない。そして、断っても益が何一つとしてない。
幸いというべきか、ティエの街に建てる神殿の分の神化銀、導化銀は余裕を持って捻出できる。サラがセイファートの保有していた大量の神化銀を協会に寄付していたし、導化銀は材料をかき集めれば作れるので、協会は元々結構な量を保有していた。
しかし、それらは協会の資産だ。頑張って加工すれば強力な武器になる希少な金属を、ほいほい使うわけにもいかない。
ただ、神殿を建てることによって得られる『加護』が非常に魅力的なのも確かだ。神々にとっては微少とはいえ、それぞれが得意とする力の一部を分け与えてもらえるのだから。
だいぶ頑張れば再度入手できる神化銀他と、ここを逃せば次はない『加護』。どちらを選ぶかは明白なのだが、しかし組織の長として悩み抜く必要はある。
と、そんな時だった。
コンコン、と軽くノックの音が響く。まだ定時連絡の時間ではないが、一体誰だろうか。
「いいわ、入りなさい」
「失礼します」
ブリジットが許可を出すと、入ってきたのはサラだった。ちょっと前に会った時より、二回りも三回りも強大になっているようだが、戦闘直後と言った様子で随分と消耗しているようだ。身だしなみだけは整えているが、それでも最低限度に過ぎない。
サラが今日、第二層の最後、最上級の魔人に挑んだということはブリジットも知っている。何か、重要な情報を持ってきたとみて、ブリジットの姿勢が自然と正された。
「どうしたの?」
「第二層『光明の洞窟』を踏破しました。第十階層を守る最上級魔人『地を覆うもの』レギオンを撃破し、第三層『深淵の蒼海』へ到達。とりあえず、各国で見つかってきている地中の大構造物が迷宮であるという言質をいただいてきました」
「そう、やっぱり迷宮なのね。反応が強まってる国には、冒険者協会から運営法を知った人材を派遣して、準備を整えておかないと……
後は錬金術師や迷宮の素材の加工技術を持った職人も、ね。初期に足掛かりを作る役目は、大分慣れてきた騎士達がいるからいいけど、それ以外の後方支援だけは欠かさないように――って、なんでうちがこんなことやる羽目に」
嘆息し、ブリジットは再び頭を抱えた。
たった千人しかいない一組織が、なんで世界中からあてにされ始めているのか。どうせなら色々な国の魔術師も参加して、負担を軽減してほしいのだが、各国も優秀な魔術師を手放すわけにはいかないのでそう上手くはいかない。
本当に、どうしてこうなったと声を大にしたくなってくる。
が、組織を纏める者として、そんなこと出来るわけもない。それに、サラがわざわざ自分でここに来たということはたったそれだけを報告しに来ただけではないだろう。ちゃんと話を聞く必要がある。
「ふぅ、それで、他に何かある?」
「はい。第三層はわたくしでは無理です。感知しきれないほどの広範囲と、深さを持つ海が階層の九割九分を占めていますから。ですので、わたくしは『海鳴り』ボード・ビート・ロードさんの招集を要請します」
「そんなに広いの? アレ、よほど馬鹿げた広さがないとゴミよ?」
「恐ろしく広いです。わたくしが探知に全力を尽くしても半分、いえ、十分の一も走査しきれないほどに」
サラは自分の所感を述べる。それを聞き、ブリジットは頷きを返した。
それほどの広さ深さがある巨大な水たまりなら大丈夫だろう。狭い場所では何もできないが、広い海ならば絶対無敵なのだから。
「分かったわ。本日付でボードに指令を出しておきます。ふふ、打ち破られようのない、最短記録が出来そうね」
「はい。あの方なら、あの程度の広さ、五分で終わりますし」
サラとブリジットは人の悪い笑みを浮かべあう。
それはあらゆる想定の外に存在するものを知っているが故の、余裕。真に全知全能の存在でもなければ、あの怪物の存在を予見することなど出来はしない。
魔術師協会の誇る、秘密――秘密のままにしておきたかった兵器が投入される以上、第三層は投入直後に完全攻略されるだろう。
アレに、限定的に神すら超える正真正銘の怪物に勝ちうる存在などいないのだから。
「ま、ボードがそっちに行くまでは休んでて頂戴。良い見通しが出来て来たし、雑事はこっちが全部引き受けるから」
「はい。流石に疲れました。やはり最上級の魔人は次元が違いますね。まさか宇宙属性の上級術を耐えきるとは」
「――あの秘術に!? それより、完成させたの? あの大禁呪を!?」
目を見開き、ブリジットは声を張り上げる。
それほどのことだ。かのスーパーノヴァは、その桁外れの火力ゆえに制御を誤れば世界を滅ぼしかねない。
ブリジットに頷きを返し、サラは口を開く。
「はい。その次も、実用が見えてきています。そして、最後。魔術の究極たる最強呪文まで、あと少しで見えそうです」
「次……最上級呪文ね。一点集中の『ガンマレイバースト』と広域殲滅の『ミリオンサンズ』。どちらも下手に打てば、大陸ひとつなら余波で消し飛ぶ洒落にすらならない神代の代物。それどころかその上なんて……どの神話漁っても最強呪文なんて最終戦争ぐらいでしか……」
さっきまでより遥かに深く、ブリジットは頭を抱え込む。神々の最終戦争、その決戦のときぐらいにしか使われた記録のない超絶火力の魔術が見えそうだと言われればそうもなる。しかも、それを言ったのが実現できそうなサラなら尚更である。
だが、それぐらいでないと魔王やそれに匹敵する連中とは張り合えない。ゼイヘムトの申告ではセイファート一族との戦いの際、水と火の最強呪文を行使したらしいし、セイファートの誰かも命と引き換えにした地の最強呪文でそれを相殺したらしい。
頭の痛くなる問題だが、しかしもうサラぐらいしかどうにかできる存在がいないので仕方ない。
「まぁいいわ。とりあえず体をゆっくり休めなさい。ただでさえ、あなたは無茶をしすぎるんだから」
「はい。では、失礼します」
一礼し、サラは部屋から退出していく。
それを見送り、ブリジットはもう一度頭を抱えた。
本格的にサラが宇宙属性に特化してきたようだ。下位八属性全てを極めた者だけが到達できる上位四属性だが、その中でも攻撃に完全に特化しているのが宇宙だ。防御や補助、汎用性は一切考えられていないが、とにもかくにも敵を粉砕することにかけては他に並ぶものがない。
完全に、サラは迷宮攻略――特に最上級の魔人との戦闘のみを見据えて自分を鍛えている。ちらっと見ただけだが、肉体のほうも常軌を逸して鍛え上げられてきている。もう今の時点でさえ、最上級の魔人以外は敵にすらならないだろう。
嘆息し、ブリジットはたった一言だけ、つぶやく。
誰にも聞こえないよう、サラに聞こえないよう、本当に小さな声で。
「ごめんね」
と。
「――悪いな、ディル。私は人の側につく」
第一階層にある家でディルとイャルが向かい合っている。
静かに発せられた言葉に、ディルは凍りついた。
「どう、して? あのお方の復活を、望まないというの?」
動揺を隠そうとしているが、その試みは完全に失敗している。ディルは震える手でカップを持ち上げ、唇を湿らせた。
落ち着こうにも落ち着けずにいるディルを見もせずに、イャルは楽しそうに笑う。
「どうして? その言葉にこそ、返そう。どうして、そんなことを聞く? 私の目的は元より一つ。今も、昔も変わることはない。
人の欲望を、願いを、祈りを! あの熱を! 涙を! 覚悟を! 魂の強き輝きを! 私が望むのはただそれだけ。人に滅びてもらっては困る。そう、私はそのためだけにここに封印されたのだから」
狂気を宿したイャルはただ冷徹に、ディルを見据える。
完全に交渉が決裂したようだ。能力としては互角だが、純粋に戦闘能力よりも『願いをかなえること』に特化したイャルは物理的には存在していないため、概念次元への攻撃手段を持たないディルでは交渉の机を蹴っ飛ばすこともできない。
しばらく怒りに身を震わせていたディルだが、ややあって落ち着くと、静かにカップを置いて立ち上がった。
「後悔するわよ」
「させてみるがいい。その暇があればな。言っておくが、もう第二層は突破されたぞ。おそらく、第三層も攻略手段を有しているだろうな」
「――ッ! サラッ、セイファート……! あの小娘、まさか、ここまで!!」
「はは、年増が若い女に嫉妬しているように見えるぞ。さて、用がなくなったなら帰るがいい。もう、貴様と私は袂を分かったのだから」
お帰りはあちらだ、と芝居がかった仕草でイャルが玄関を指すと、ディルはドンと机をたたいて立ち上がった。
そして、カップをイャルに投げつけ、大股で家から出て行った。
カップをぶつけられたイャルは肩をすくめて、それを見送る。表に出ている体は影のようなものなので、透過したカップが割れないよう受け止めておくことは忘れない。
散々あおったが、イャルに後悔はない。討伐隊を編成されるかもしれないが、それはそれで面白い。人が人の意志で自らを滅ぼすのならそれもまた一興と考えているのだ。
「さて、次に訪れる者は一体どんなものを見せてくれる? 私の予測を、愉しみを超えてくれる存在は現れるや否や……はは、楽しみだ」
笑い、イャルはただ待ち続ける。
次に訪れる者を。願いを。ただ、ただひたすらに。
第五章 了