第五十四話
教会の裏庭で、まだ夜も明けきらないうちからその男は剣を振っていた。
何年、何十年と繰り返してきた、日常の一部と化した鍛錬。どれだけ肉体が軋んでも、やらない方が体に悪い気さえする。
「――千。しばらくは軽めにしておこう。さて、言いたいことがあるならさっさと言え」
ほとんど鉄塊に近い素振り用の剣を下ろし、ダンテは軽く汗を拭う。その背後には、彼の配下である数人の騎士が控えていた。
無言で何かを訴えてくる彼らに煩わしくなったのか、ダンテは軽く髪を掻き上げつつ振り返る。
「あの小娘に任せて大丈夫なのでしょうか? 魔術師協会の誇る十二使徒とはいえ、あまりにもまだ……」
騎士の一人が、そんな言葉を漏らす。
なるほど、一理ある。確かにサラは小娘だ。正直、知らなければ、あの子供がレギオンに挑むなど鼻で笑って当然だろう。
だが、知っている側とすれば当然のことだ。
今回だけでなく、過去数度顔を合わせたことのあるダンテは騎士達に苦笑を向けた。
「お前達も見ただろうに。相手の強さを見て計るのは、生き残るには重要なことだぞ」
「しかし」
「そんな感想が出てくる時点で、まだ未熟だ。あれはもう人間とは呼べん。昔会った時はまだ可愛げがあったが、もうあの子には並べんほどに差を付けられてしまったか。五年前は私にさえ教えを請う程度には未熟だったものだがなぁ。
あれでは普通に手合わせするのでさえ、『雷帝』辺りですら手には負えまい。あの年齢であそこまで到達出来てしまう、というのも悲運なものだ」
言いながら、ダンテは大人二人分の重量のある素振り用の剣をひょいと担ぐ。これぐらいの重みがないと、もう練習にすらならないのだ。
まだ何か言いたそうにしている部下に、ダンテは嘆息する。
「サラに心配はいらん。それより、私達は私達でやることをやるぞ。まずは回復系魔術薬の素材を千個分採取からだな」
「は、はい! 了解しました!」
「それが終わったら『大地の地脈珠』と『光輝の石片』、裏階層の『朽ち逝く嘆き』を取りに行くぞ。魔力の集中具合からして、次は法国、その次が帝国だろう。半月に一度しか取れん守護者からの素材、あまり待たせるわけにもいかん」
指示を飛ばすと、ようやく自分達の置かれている状況を思い出したのか、騎士達は急いでどこかへ行く。
騎士達を見送った後、ダンテは大きく息を吐き、軽く空を仰ぎ見た。
「頼んだぞ、セイファートの裔。我々では、それには勝てん」
奥歯が割れんほどに噛み締め、ダンテは苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような顔をする。
自分の手で敵を倒せなかったことに対し、死地で負けたにも関わらず生きて返された事に対し、最も悔しく思っているのがこの男だ。
全員が生きて帰れたことは喜ばしいことだが、しかしそれは覚悟を踏みにじられたことにも等しい。まぁ、その程度なら別にいいが、しかし悔しさは別だ。
目的が達せていること、それ自体も悔しさを助長する。
だから。
ただ、何も言わず、ダンテは準備をするために去っていった。
いくつもの感情を、激情を全て呑み下したままに。
――風が吹き抜ける。
狂気を孕んだ風だ。
目を前に向ければ、そこに在るのは絶望ともいえる重厚な陣容。
感知魔術など意味をなさない。感知出来ても数えきれないのだから、あまりにも多くの反応で塗りつぶされてしまうのだから、使っている意味がないのだ。どうせ、適当に魔術を撃つだけで敵に当たる。
そう、敵の数は億千万――無限にさえ近い。
その奥にいる存在こそが、この第二層の支配者だ。ならば、突き破って進むほかない。
「まずは小手調べで行きましょう。全てを砕く星々をここに。連弾・流星雨」
サラは短い、しかし力ある言葉で魔術を展開する。
それは失われた力の一つ。地上では使うことすら許されない秘跡の一つ。
宇宙属性、中級呪文。巨大な質量を持つ隕石を大量に召喚する大禁呪。
地形を変え、生態系そのものを吹き飛ばすために、地上では使えないが、しかしこの空間でなら使える。何せ、壊しても壊してもすぐさま復元するのだ。どんな無茶でも許される。
凄まじい轟音と共に大質量の巨石が、音すら超える速度で魔物の軍勢に突き刺さる。それは一撃で恐るべき被害をもたらした。
一発につき、およそ数千もの数の上級魔族相当の魔物たちを粉砕する。それが、およそ百。数十万以上の魔族を僅か一つの魔術で殺しつくし――しかし軍勢が揺らぐことは一切ない。
どれだけの数を粉砕できようと、それは所詮億分の一以下。僅か万単位では一秒と経たずに元通りとなる。
桁外れの規模の攻撃術でさえ、圧倒的な数の前では無意味。この魔術を千、万と重ねたところで勝ち目はない。
サラの今の攻撃がきっかけとなり、遠くから魔物達が殺到してくる。単純にぶつかれば、いかにサラとて押しつぶされるだろう。
ならば。ならば。ならば。
真に全力を以って相手をするほかない。
「来たれ、古より我が血に刻まれし鋼鉄の大天使。禁断の兵器、全て砕く砲撃の巨像! 汝が名は、スカーレットである!」
空間が割れ、サラの背後に城と同等の巨体を誇る美しい天使の像が現れる。
無機物にも関わらず有機的な美しさと輝きを持つ大天使は、桁外れの威容を以って全周の魔物を威圧する。
それは創世時代に創られた、神と魔と人の全ての智と力を結集した、最強の兵器。
一万の年月を越え、それは地上に降臨した。
「行きましょう、スカーレット。魔を倒すのは人の役目、神を殺すは人の業! 生きるため、世界を守るために!」
大天使の目が開かれる。背に負う八対十六枚の巨大な翼が展開される。
一対に付き一つの属性を掌り、大気中に存在するあらゆる魔力を吸収する魔力収集機関の翼が、まさに無尽蔵に魔力の回収を始めた。
一秒ごとに膨大な魔力がスカーレットに集まっていくが、しかし即座にこの大群勢に対抗できるほどの魔力が集まるわけではない。
ゆえに、術者たるサラがここにいる。
「――来たれ、至高たる神の剣。我が呼び声に応え、その真なる力を我が前に見せよ!」
それは正式な詠唱。
腕輪から本当の意味で神器を引き抜くための。
以前に、己の肉体を砕いた、己を殺した最強の神器を抜き放つための。
僅か一部でさえ、完全な形でさえなかった神剣でさえそうだった。僅か一瞬だけ顕現させ、たった一度だけ振っただけで。
しかし、今度は完全な形での顕現だ。それがどういう意味を持つのか、知らぬサラではない。
そう、以前と同じに扱えば、死ぬ。そんなことは分かりきっている。
なら――使えるようにしてしまえばいいのだ。
「これが、わたくしの出した答えです! 行きましょう、『世界剣・百式』!」
サラが腕輪から引き抜いた剣が、解け、百に分解されて空に浮かぶ。
力がまとまっていては使えない、ならば分けてしまえばいいのだ。元より世界一つ分の力を有するのが、この『世界剣・百式』。百に分割したところで、その力は圧倒的だ。
統括して制御するために、一本だけ手元に残し、サラは百の剣を自在に操って魔物の群れへと吶喊する。
各々上級の魔人と同等の力を持つ木偶達へど真ん中から突っ込み、サラはその力を存分に揮い尽くす。
剣の一振りで百の木偶を滅ぼし、舞い踊る剣は一糸乱れぬ動きで木偶をバラバラにしていく。
並の軍勢ならば、五分と経たぬうちに完全に粉砕されていただろう。百万程度なら、十分あれば事足りる。
だが、どれだけ屠ろうと、どれだけ切り裂こうと、全くその数が減る様子を見せない。それどころか増えている可能性すらある。
まさに『地を覆うもの』。恐らく、力を落とせばもっと数を増やせるのだろう。世界全てを己の眷属で覆い尽くせる、その怖さがある。
サラは敵をなぎ倒しながら、自分の不明を笑う。
彼女自身も今まで数万程度ならなぎ倒してきた。今回もその延長線上で、最奥にいる最上級の魔人との戦いを想定していた。が、このざまはどうだ。あまりの敵の数に、押し戻されないだけで必死。前に進むことすら出来ていない。
「フフ、ハハハ、アハハハハハハハハ!」
狂ったように、サラは笑いだす。
今までの戦術、戦略が一切通用しない。何も、何も、何もだ。
単純な数、自分より圧倒的に弱い存在が集まっただけでここまで何もできなくなるのか。
なるほど、これは強い。これは怖い。そして、何より楽しい!
何一つとして思い通りにならない、そのことがこれ以上なく楽しい。
「さぁ! 始めましょう! 神の剣よ! 全てを切り裂け! 滅・神嵐刃!」
サラは瞬時に術式を展開し、『世界剣・百式』を媒介にした魔術を展開する。
それはかつて放った滅・乱閃刃と、それほど違いはない。そう、範囲と威力を除けば違いはない。
『世界剣・百式』の切っ先から彼方へと続く凄まじい閃光が放たれた。
果てまで切り裂かんばかりの広範囲殲滅術。剣の向いている方向によっては大地すら寸断するほどの超火力だ。恐らく、個人が編み出した魔術として攻撃範囲に関しては歴史上をひも解いても、神代までさかのぼっても十指に入るだろう。
地平線の彼方まで切り裂く超絶の乱斬撃。それは、億の敵を切り裂き、そして――
「まだいるのですか!?」
大地が復元すると同時に湧き出てくる木偶どもに驚愕の声を上げる。
億では足りない、恐らくは兆、いや、それ以上。
あまりにも多すぎる数。――確かに、これに勝つ方法は人間にはない。
そう、人間には。
「ですが、準備は整いました。スカーレット! 全てを薙ぎ払ってください!」
だが、サラの背後に控える大天使は、人間ではない。
今しがた放たれたサラの全力にさえ匹敵、凌駕する魔力球が、幾百、幾千、幾万と形成されていく。
なるほど、数は力だろう。ならば、最上級の魔人――それも魔王級の存在が放つ砲撃の数を重ねればどうなるだろうか。
一撃で都市を、国家を吹き飛ばすほどの絶望的超絶火力。それを、億千万重ね、恒常的に放つとするならば、どうなるだろうか。
その答えは、今分かる。
歌うように大天使が囀ると、サラは世界剣全てを手元に戻して防御に全力を注ぐ。
次の瞬間、階層そのものを粉砕するかのような衝撃が全てを襲った。
危険な音が階層全体から響き渡る。それは小世界であるこの階層が悲鳴を上げているのだ。
しかし、砕けない。どこからか供給される魔力により、小世界は砕けぬままに維持される。
衝撃が収まった後、そこにはもう視界を遮るものは消え去っていた。
後はもう、無人の野を進み、本当の敵と相対するだけである。
「ありがとうございました、スカーレット」
サラが礼を言うと、鋼鉄の大天使は再び空間を割って、消えていく。
使い慣れない『世界剣・百式』もしまい、サラは現状最も手に馴染む『砕くもの』を手にする。
重い。しかし、先まで神経が通っているかのように手足の如く動かせる。
サラは無人の野を歩く。
しばらく歩き続けると、それは姿を現した。
――レギオン。
最上級の魔人は最早一切の加減なく、全ての力を解放している。
強い。間違いなく先ほどの群勢よりも遥かに。
「わたくしはサラ・セイファートです。お名前をうかがってもよろしかったですか?」
眼前の存在から放たれる凄まじい威圧を前に、サラはただ笑みで問う。
神の力を目の当たりにした以上、レギオン――最上級の魔人とて恐れることはない。目指す高みは遥か遠いのだから。
全力を解放しているにもかかわらず、全く臆することもないサラを見て、レギオンは佇まいを直す。そこに侮りはない。単純にサラを倒すべき敵と認めたようだ。
「――我が名は『地を覆うもの』レギオン。たくさんであるがゆえに」
静かに、レギオンはサラを睨み据える。
精神の弱い者なら、それだけで即死する圧を持つが、サラは笑みのままで一礼する。
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは『金色の颶風』の名を頂いております」
サラもお返しのつもりか、周辺の魔力を活性化させ、金色の粒子を展開し始める。今までよりも強い力を湛える粒子が、徐々に空間を侵食して範囲を広げていく。
両者ともに戦闘を避けようとする気配はない。きっかけさえあれば今すぐにでも殺し合いを始めるだろう。
しかし、静かに睨み合いは続く。
「問おう、『金色の颶風』。お前達は、見つけたのか?」
「何を、と聞いておきましょう」
「――こことは違う場所に点在する、迷宮だ」
レギオンの言葉に、サラは笑みを消して目を伏せる。
その反応が何を意味するのか。レギオンはただ動かず注視するのみ。
ややあって、サラは一つ頷いた。しっかりと、レギオンに知らせるように。
「見つけました。現在で、既に四カ所、当たりを付けています。もう少し手を伸ばせるようになれば、もっと見つかるでしょう」
「素晴らしい。流石だ。見事だと言っていい。――誰かに示唆されたか?」
「いいえ。単純に気付いた方がいたのです。この迷宮のある草原と、似た地形が他の国々にもある、と。そこで探知特化の方を向かわせて調査したところ、地中深くに何か強大な魔力を持った構造体があることを見つけたらしいんです。
ここが迷宮である以上、その地中深くにある構造体が迷宮でない理由はありませんから」
サラの言葉を、嬉しそうに、楽しそうにレギオンは聞く。
そして、一つ頷いた。――何か、決心を固めたかのように。
「『金色の颶風』サラ・セイファート。貴様を試金石としよう。我々を――最上級の魔人を、人は打倒し得るや? その上に到達し得るや?
年月を、血を重ねれば、最上級の魔人と相対し得る場所に到達し得るや? 貴様は我々を倒すことで、殺すことでそれを証明せよ。証明してくれ。人は、遥かな高みへと到達できるのだと」
言葉と同時に、人型を保っていたレギオンの背中から無数の腕が飛びだして来る。腕だけではない。頭部や鋭利な突起などが全身から飛び出してくる。
最早正視に耐えない姿と化したレギオンを真っ向から見返し、サラはゆっくりと戦鎚を構えた。
「貴方のために証明はしません。ただ、わたくしは貴方と言う壁を越えていきます」
それを聞いて、レギオンは微かに笑みを漏らし、ありがとうと呟いた。
「では始めよう。数以外の力を、『増殖』の力を見せてくれる!」
レギオンが咆哮する。
それが合図となり、戦闘が始まる。
先の戦いより遥かに凄惨で、もっと破壊を撒き散らす本当の死闘が。