第五十二話
風が吹く。
自然現象としての風ではない。
サラ・セイファートという一個の存在が放つ強大な威圧によって、大気が動いているのだ。
僅か三日と言う期間で、想像を超えて成長したサラを見て、ユーフェミアは嘆息を漏らすことしか出来なかった。
どれだけの無茶を重ねれば、これほどまでに自分を苛め抜けるのだろうか。大きく成長することが出来る、それが人間の最大の武器だとはいえ、度が過ぎている。
いえ、とユーフェミアは自分の思考を否定した。
成長度は、目で見えている者よりもかなり低い。三日前に戦った時点で、今と同じ力量は備えていたのだ。強くなっているように見えるのは力の使い方を覚えたからに過ぎない。
人間――世界に汎用的に存在する霊長としての限界を完全に凌駕している。未だにヒトの形を保っているのが不思議なほどだ。
どれほどの自制心を有しているのか。どれほどに精神が強いのか。最早驚異としか言いようがない。
力を振るう快感を知り、自分の強さを知り、他の脆弱さを知りながら、滅私で人々のために力を使う。その在り方は、聖者とでも呼ぶべきだろうか。それとも狂人と呼ぶべきだろうか。いや、本質的に両者は同じものだ。誰かのためだけに動く、などという生き方は、どこか狂っていなければ出来ないのだから。
自覚しなければ、どちらも幸せだ。だが、それを自覚してしまえば、全ては壊れる。自分が狂っていることを受け入れて生きる、そんな真似がどれほどの苦痛なのかなど、理解しようもない。
――そして、サラは自分の狂気を理解しているだろう。誰よりも深く静かに狂う少女は、己の異常性を誰よりも理解している。そうでなければ、これほどまでに生き延びれるわけがない。
「では、始めましょうか」
だから、今のユーフェミアに出来るのはより生き延びられるよう、知恵を貸すことぐらいだ。それ以上のことは、サラ自身が望まないだろう。
意識を集中し、ユーフェミアはサラの動きを見る。
近接戦闘の心得はないが、しかしユーフェミアは戦闘経験ならサラとは比べ物にならないほどに多い。ついでに、術者としての歴史の長さもあるため、体の動きではなく周辺全体の動きから全てを読み取るのだ。
ユーフェミアと同じ読み取り方を、全ての最上級魔人が用いるわけではない。だが、基本的には似たようなものだ。読み取り方に差異はあっても、見ているものは同じなのだから。
しっかりと目を離さずに、サラを見ていたユーフェミアは、背筋に冷たいものが走るのを感じて咄嗟に右へと跳ぶ。
直後、ほとんど前兆なくサラの拳がユーフェミアのいた場所を貫く。
これは、とユーフェミアは歯噛みした。まさか、三日でこれを使えるようになるとは。
ユーフェミアは軽く笑いながら、走査深度を二段階上昇させる。今は、まだこの程度で充分だろう。そう、『今』は。
得られる情報が増え、サラの行動とどうやって周囲への影響を排除しているかが分かるようになる。本当に久しぶりに見る、面白い魔術だ。
それこそ、概念付与魔術。自分自身に『行動を阻害されない』という概念を付与しているのだ。まだ未熟で付与が甘いため誤魔化し切れない部分があるが、もっと上達したら手が付けられなくなるだろう。
末恐ろしい、と胸中でひとりごちながら、ユーフェミアはサラの攻撃を躱す。
一つ避けるたびに背中を流れる汗が一つずつ増えていくのは、全ての攻撃が一撃必殺の威力を帯びているからだろうか。それとも、一発ごとにこちらの動きを認識し直し、紙一重まで迫ってくるからだろうか。
――それとも、思わず身が竦むほどの覇気と殺気を以って攻撃してくるからだろうか。
攻撃をしない、という自分に課した制限が、これほどまでに重くのしかかってくることがあるとは思ってもいなかった。
舌打ちし、ユーフェミアは一度距離を取るために大きく飛び退き、己の失策を悟って目を見開く。
サラはその瞬間を待っていたのだろう。一切の挙動なく腕輪から槍を出現させ、ユーフェミアに向かって思いっきり突き出す。
槍。それはすなわち、神殺し特化の神器『神葬真理』だ。
胸を貫かれる直前でぴたりと止められたその槍を見て、ユーフェミアは嘆息しながら肩を落とした。
「負けかぁ。まさか手加減してたとはいえ、私に勝てる人間が出てくるなんて……」
「ありがとう、ございました」
ちょっと愕然としているユーフェミアと、今まで元気に動いていたのに『神葬真理』を杖代わりにしなければ立っていられないほどに疲弊し尽くしているサラ。一見だとどっちが勝ったのか分からない。
実際、ただの手合わせで勝ったに過ぎないのだが、それでも驚愕すべきことだ。
うん、とユーフェミアは一つ頷く。
もう少しぐらい、肩入れしてもいいだろう。
「……貴女に、頂点の力を見せましょう。そして、法の一端を、差し上げます」
ユーフェミアがそう言って笑うのと同時に、周辺の世界が歪む。
それは魔なる法に属する力。
『世界創造』。
僅か一瞬の間を置いて、サラとユーフェミアは無辺の広さを持つ何もない荒野のみが広がる世界へと転移していた。
何の生命もいない、果てしなく広がる荒涼とした大地。
そんなところにサラを連れてきたユーフェミアは、ゆっくりと口を開く。
「どうですか? 何一切の気兼ねなく力を振るうことのできる場所です。誰かに見られる心配も、誰かを傷つける心配もありません。
思う存分、何も考えずに力を振るうことの出来る場所。誰かに迷惑を掛けることなく、魔術の修練を積める場所を求めてはいませんでしたか?」
「それは……」
ユーフェミアは優しく問う。
それはサラが長年悩み続けていたことだ。
サラの習得している魔術で、普段の訓練で使えるものは限られる。それも威力を絞って使う必要があるのだ。精密な操作の練習ならともかく、最大火力がどの程度になるのかを正確に把握することが出来ずにいた。
だが、ここならば。
純粋に広く、他に生命の存在しないこの場所ならば。
サラの有する最大最強の魔術である『スーパーノヴァ』や、セイファートに伝わる『滅・乱閃刃』を始めとした超強力な魔術を自由に使うことが出来る。
魔術もそうだが、技術とは使わなければ発達しない。理論だけこねまわしていても、実践して見なければ問題点は見えてこないのだ。
静かに、サラが笑う。
どれだけの歓喜を彼女が胸に抱くのかは、ユーフェミアには知るよしもない。だが、先人として、サラに先を見せておく必要はある。
「では、見せますよ? 神、そう呼ばれる存在の力を」
ユーフェミアは抑えていた魔力を解放する。
膨大な魔力が渦を巻き、ただの威圧感だけでサラの体を数ヤードも吹き飛ばす。
魔王級の戦闘能力、その一端が今解き放たれる。
「終われ」
ただ一言。
白き翼の神族が発したその一言を鍵とし、遥か離れた場所にあった大きな山に天から光が降り注ぐ。
光は山に着いたかと思うと、恐るべき大爆発を起こして山そのものを消し飛ばした。
否、それだけにとどまらない。
少なくとも百マイルは離れたところに着弾したというのに、その爆発の衝撃が確かな致命の威力を以ってサラ達に襲い掛かる。
咄嗟に魔術で防壁を張らなければ、ユーフェミアが最初から強力な障壁で二人を覆っていなければ、たとえサラと言えども死は避けられなかっただろう。爆発による衝撃はサラ達のいる場所を遥か通り越して破壊を振りまき、実に数分以上に渡って世界全体を振動させ続けた。
「今のが何か、分かりますか?」
爆発の衝撃が収まったあと、ユーフェミアが問う。
それに対し、サラは見たままのことを答えた。
「……超広域殲滅用の魔術、に見えましたけど」
「いいえ。あれは一点への攻撃です。これぐらいの攻撃力がないと、魔王級を滅ぼすことは出来ません。トドメに持ってくるのはこれぐらいは最低でも必要です。
それに、隙を見て使わなければ、この程度は平然と無効化されますね。魔王級を魔術で倒すことは難しい、そう思っておくといいですよ」
「でも、ユーフェミアさんは倒せるんですよね?」
サラの言葉に、ユーフェミアは微笑む。
倒せるか倒せないかでいえば、当然倒せる。
が、倒せるのと勝てるのはまた別の話だ。どんな強力な攻撃も、当たらなければ意味はないのだから。
「まぁ、同格相手でしたら。もっとも、この世界で私達より上と言うと、『覇刃帝』『破壊神』『堕龍神』『魔導神』『楽園の守護者』『万物の覇王』だけですけれど。
この六柱は隔絶した強さを持ってるから、正直関わり合いになりたくない連中ですねぇ。精神性もちょっと理解し辛いし」
「はぁ」
「とりあえず、この場所に転移できるよう、術式をあげる。ここは『不変』の概念を刻まれた世界だから、どれだけ壊しても一日あれば元通りになるの。だから、とりあえずひとしきり壊したら、一度外に出て、世界を休ませてあげてください。
私達の暮らすような大きな――様々な要素を内包する世界と違って、小さな世界だから壊れやすいの」
分かるような、分からないようなことを言いながら、ユーフェミアは軽く周囲へ手を差し伸べた。
見るも無残に地盤を剥がされ抉られた荒野が、手をかざされるだけで見る見るうちに元通りになっていく。
復元の魔術か、――魔法『世界干渉』によるものかは、ユーフェミア以外に知る者はない。だが、事実として、ボロボロになった地形を数秒で直している。
神の座にある者の力は、やはり底知れない。
「で、はい、術式」
言いながら、ユーフェミアはサラの額をちょんとつつく。
ただそれだけで、サラの脳裏にこの世界への転移するための術式が刻み込まれる。頭痛も吐き気も、サラは感じない。相手の記憶に手を出しておきながら、一切の不快感を覚えさせないというのは、常軌を逸した技術だと言えるだろう。
「それでこの世界に出入り自由になりました。私は一度外に出て、偉い方々と神殿のことについて話してきます。ですので、どうぞ、自由に魔術なり神器の修練を積んでください」
言い残し、ユーフェミアは消える。どこかへ転移したのだろう。
残されたサラは、ぐるりと周囲を見渡して大きく息を吐く。
本当に、素晴らしい場所だ。
「遠き空を揺蕩いて、雲遠き空より降りたもう。
滅びを謳い、嘆きを詠い、天の涙と共にこの地上へ降りたもう。
我が意、我が理によりて、滅びをもたらさんがためにここへと来たれ。其は穿ち貫く天の槌」
歌うようにサラは詠唱を行う。
ちょっと前に家の古い文献から発掘できた、神代の魔術。その試し撃ちだ。
まだ制御が甘いため、サラの周囲が帯電してしまっているが、まぁ問題はないだろう。
「ライトニング・ジャスティス」
サラの言葉と同時に、凄まじい落雷が大地を貫き、鳴動させる。
サラから百ヤードほど離れた地点に着弾させたのだが、ちょっと半径二十ヤードほどの大穴が出来てしまった。物理的な衝撃などほとんど伴わない雷で、これだ。生物に直撃させたらどうなるのか、ちょっと怖い。
威力は充分。だが、これに満足は出来ない。いや、しない。
なにせ、これからは何かに遠慮する必要もないのだ。神器を併用した魔術や、禁断兵器の修練を好きなだけできる。なんてすばらしいことなのか。
もう、笑みを崩すことも出来ない。
「さぁ、始めますか」
言って、サラは全ての力を解放した。
最早何も気にすることなく、サラはその強大な力を存分に揮う。
――二時間後、良い笑顔でぶっ倒れるまで、サラは全力で魔術を使い続けるのだった。