第五十一話
走って、走って、寮までたどり着いたイーリス達は、肩で息をしながら顔を見合わせた。
ここまで思いっきり全速力で走ってきたが、よくよく考えると何で逃げさせられたのか。
というか、あのサラがいて逃げなければいけない事態とはいったい、どれほどのものなのか。
そんなことを考え、三人が三人とも首を傾げた時だった。
『――うん、逃げたのは正解だったねぇ。あの御二方の神気に当てられると、今のみんなじゃ倒れちゃうから』
全員の頭に、そんな言葉が浮かび上がる。
ジンとクレールは思わず周囲を見回すが、当然ながら誰もいない。そもそも、この寮に間延びした言葉を話すような大人の女性がいるわけもない。
声の正体を知っているイーリスは、軽く首を傾げて肩口を見る。
「オリオール?」
『とりあえず、人のいないとこに行こーか。見えない誰かとお話しする不思議さんに見られちゃうよぉ?』
「!」
言われて気付き、不審がられる前に三人は移動する。
そりゃ見えない誰かと話すやつなんて、ちょっと怖い。また遠隔地への通信魔術は使い手が極めて限られているため、学園で教えることはないため、奇異の目で見られることは間違いない。
そういう目で見られる前に忠告できるオリオールは、流石に人生経験を積んでいると言えるだろうか。それとも、そんなことにさえ思い至らない彼らを子供だと言うべきだろうか。
とにもかくにも、彼らは寮にいくつも用意されている談話室へと向かう。この談話室、班ごとで使えるようになっているため、誰かに聞かれたりする心配がなくて安心なのだ。
とはいえ、所詮は寮の談話室。大した設備があるわけでもないし、お菓子やお茶などの類もない。普段なら持ち込んでいるが、今回はちょっと急な話だったので持ち込めなかった。
しかし別にそういうものが必須かと言われると、そうでもない。ただ、お茶などの類があれば、長時間にも耐えられるし、話も弾むというだけだ。
とりあえず席に着いた三人は、テーブルの真ん中に止まったオリオールへと目を向ける。
「えーっと、で、なんだっけ?」
「まずはこの蝶――オリオールが何者か、からだろう」
素で忘れたらしいジンを小突きながら、クレールがオリオールを指す。
オリオールは軽く羽を開閉してから、ゆっくりと念波を飛ばし始めた。
『あたしはオリオールだよぉ。かつてフェルミエールと呼ばれた種族の最後の生き残り。『城塞の蝶』、または『魂運ぶ要塞』と呼ばれていた、古い古い魔界の生き物かな』
なつかしむように、オリオールは言う。
己と同じ種族が完全に潰えていることを知っているが故の、寂寥を感じているのだろう。
クレールも何かを感じ取ったようだが、しかし話を進めなければ、時間の無駄だ。意を決して、口を開く。
「それで、ボク達が逃げて正解だったっていうのは……」
『うん。さっき感じた力は、神様たちの頂点に立つ十二柱の内の御二方だからねぇ。他の方がたよりはマシだけど、それでも有する力は魔王級だから。
あたしやサラちゃんはともかく、精神防壁のないみんなだと、目にしただけでぶっ倒れちゃうんだ』
「……サラさん、大丈夫なのか? なんか思いっきり殴りかかってたっぽいけど」
『だいじょーぶだいじょーぶ。その程度で怒るほど狭量な方々じゃないから。むしろ、殺す気で殴りかかった方が評価の上がるような方々だよぉ』
「どんな神様だよ……」
明るい調子で言うオリオールに、ジンが肩を落とす。クレールはもう呆れて声も出ない様子だ。
まぁ、確かに殴りかかられた方が評価が上がると言われても意味が分からないだろう。正確に言うと、自分にさえ一か八かで立ち向かってくるような強靭な精神の持ち主に対しての評価が高いというだけなのだから。
オリオールはそのことを思い返しつつ、話を続ける。
『それに、来てたもう御一方がいるから。向こうが力を隠さずに来た以上、迎撃程度で怒られる心配はない、かな。それにあたし達が報告するまでもなく、サラちゃんかご本人が協会に出向いてるはずだからねぇ。
とりあえず、今、あの方々について言えるのはそれぐらいかなぁ? 他に何か聞きたいことあるぅ?』
この三人に言えることはこの程度か。
サラになら言えることが幾つもあるが、流石に第一階層も踏破出来ない三人に色々告げることは出来ない。
が、まぁ他の事なら言うことは出来る。迷宮にどんな植物や鉱石があるかの情報の先出しや、まだ見つかっていないと思われる第一階層の植物程度なら構わないだろう。
第三層以降にこの三人がたどり着けるとは思えないし。
「おお、そうだ。オリオール、迷宮のことに詳しいのか?」
『詳しいよぉ~』
「じゃあ、ちょっとズルだが、第一階層で珍しいもん教えてもらいたいな。場所は大まかで、採れるかどうかは運次第な感じな奴を」
『運次第で採れる、珍しいもの……色々あるねぇ。ほんのちょっとでも藪に分け入れるならたくさん手に入るちょっと珍しい薬草とか、迷宮内にある小川にしかない苔の類とか……。
ああ、そういえばある意味すごく希少なものもあったよ。木のうろにしか生えない茸とか。うろのある木なんてほとんど見つからないけど、もし見つけることさえ出来れば……』
ちなみに、現時点でこの茸、ほぼ市場流通していない代物である。超絶的に希少なため、相場というものが存在せず、ほぼ言い値で売りつけることが可能だ。参考価格は前回の競りで出た金額として大銀貨五百枚。安価な神器ぐらいなら余裕で買える。
「ふーん、どういう茸で、どんな感じの効能があるんだ?」
『これぞ茸、って感じの大きめの茸だよ。効能はねー、若返り。一本でねぇ、十年は若返る薬が出来るのぉ。寿命も同じだけ延びるよ?』
「…………そりゃ超高い値が付くわ」
古今東西、若返りと延命は権力者にとっては永遠の命題だ。それが希少とはいえ普通に採れる辺り、洒落にすらなっていない。
こういうとんでもない代物が平然とそこらに転がっているため、各国が注目しているのだ。独り占めしようとする国も無きにしも非ずだが、天候魔術を極めた『雷帝』セヴァルのいる王国を攻められる国など存在し得ない。
何せ、侵攻すれば嵐、竜巻、雷が常に軍を襲い続けるのだ。一握りの英雄なら突破できるかもしれないが、そういう連中には似たような連中が相対する。ちなみに多数同時に天候操作可能なので、どんなに多方面作戦を取っても『軍』である限りセヴァルの守りを抜くことは出来ない。
また、王国自体も特に独占するつもりはないらしい。むしろ、迷宮があるおかげで他の国の戦力が常駐することになるので、面倒は多くなっても脅威が減ることを利点と考えているようだ。
のんきなものだが、それは仕方のないことでもある。何せ、鉄壁の守りである魔術師協会が外敵を排除してくれるのだ。それでいて国政に干渉してくることはほぼないため、好きなだけ内部抗争を行えるというわけだ。ただし、民から過剰に搾取しようとすると、そっと首を落とされるため、そう大きな争いは起こらないが。
「木のうろが見つかったら、それを覚えておこうか。じゃあ、他のもちょっとずつ教えてくれるかな?」
軽く頭を抱えたジンに代わり、クレールが後のことを引き継ぐ。
それらの会話を見ながら、イーリスはにこにこと笑い続ける。
今の幸せを、かみしめるように。
研ぎ澄ます。
体の動きの全てに意識を通し、その動きの全てで起こりうるあらゆる影響を排除する。
後から潰すのではない。先に、先に、先に全てを行っていく。
対症療法を行うから、やることが増えていくのだ。先に潰せば、問題が起こる前に対処しておけば何も問題は起こらない。
そのためには先を読む必要がある。自分の動きだけではない。相手の動きを読み切らなければならない。読みが外れても即座に体勢を立て直せるだけの備えをしておかなければならない。
そのためには相手の攻撃などの出を読むだけでは駄目だ。何故そこを攻撃するのか。その攻撃にはどんな意図があるのか。次はどう動くのか。
先へ。ただひたすらに先を読む。
相手の体を見るだけでは駄目だ。周囲を、敵を構成するあらゆる要素を視て、自分がどう動くかも計算に入れ、ただ先を予測し続ける。
今、サラが仮想として相手にしているのはユーフェミアだ。
正確に言うなら、自分と同程度の動きを出来、魔術を使えるユーフェミアか。
ほぼ自分と同じ強さの相手を想定し、しかしサラは奥歯を噛み締めた。
――当たらない。
前回と比べて、それなりに成長している自信のあるサラだが、攻撃が一切当たらない。
自分の想定であり、実際とはまた違うのかもしれないが、しかし当たらない。全く当たらない。掠りすらしない。
どこが違うのか。回避に専念しているからか、それとも自分に避けられる印象しかないからか。
恐らく、どちらでもあり、どちらでもない。
まだ足りないのだ。何かが。
先を読み、攻撃を当てに行くのでは、ダメ。
一旦足を止め、サラはふと考える。そういえば、当たらないことばかりを気にして、ちょっと攻撃に気迫が足りなかったかもしれない。
当たれば一撃で全てを粉砕できるぐらいの気迫、それがなかった。
足りない物が一つ分かり、サラはにこりと笑ってから全てを戦闘用に書き換える。
避けられる? それがどうした。
回避なんて気合が足りないからされるのだ。気合と根性で全て叩き潰せばいい。
そう、当てればいい、などという負け犬思考だから避けられるのだ。避けられたなら、もう一歩無理やりにでも踏み込んで巻き込んで粉砕してしまえばいい。紙一重で回避された? 避けられた後で体ごとぶつかれば問題ない。
かなり危険な思考に辿り着いたサラだが、間違いではない。
何故なら、各々で得意分野が大幅に違う最上級の魔人の行動など、読み切ることは元々不可能なのだ。どうせ読めないなら大雑把でいい。後は自分の技が相手に届くかの勝負になる。
そこで問題になってくるのが気迫だ。相手に絶対に当てる、殺すという気迫。技が余人よりかけ離れた段階に達してしまえば、後はもう精神の問題だ。一方がよほど隔絶した力でも持っていない限りは、蹂躙という結果は生まれない。
それに気づいたわけではない。
だが、サラはただひたすらに拳を、蹴りを放ち続ける。
限界などとうに超えた。全身が悲鳴を上げる段階など、軽く通り越えた。
もう動きがだいぶ鈍っていることを自覚している。
けれど、それでも。
サラ・セイファートは動きを止めることはない。
誰にも知られることはなく、少女はただ上を目指し続ける。
――その果てに待つ終焉が近づいてくるのを、知りながら。