第三十九話
常に深く一定の呼吸をし、全身の隅々まで神経を行き渡らせる。髪の先端から足のつま先まで、今どういう状態でどう動かすかを全て意識する。
己の肉体に対する深い理解。己の心臓の鼓動がどれぐらいの速さなのか、手を足を動かすときはどうやっているのか、目を動かすときは、口を動かすときは、歩くとどこの筋肉がどう動いているのか。
普段は意識しない全てを、一つ一つ理解し、自分の支配下へと置いていく。
氣の修行の第二段階だ。自分の肉体の動きを理解すること。熟睡時でさえ、己の動きを理解して把握し、掌握する。そこまで出来て、ようやく氣……否、その先である魔導練氣術へと手が届く。
無意識にやっていることを意識的に行い、無駄を排して効率化し、余計な動きや流れをなくさなければいけないのだ。
通常、この修練には数年を要する。
普通はいちいち自分の動きのことなんぞ意識して理解するなんてことはやらないからだ。まばたきをするときにどこの筋肉がどう動く、なんて考えたりするわけがない。歩くことだって、手と足を動かせるならとりあえず出来るだろう。そもそも、そんなことを考えることが無駄だ。
むしろ、考えて意識しながら動く方が無駄が多くなるだろう。
そう、普通なら。常識的な修行をしてきた者であるのならば。
サラにそんな常識など関係ない。というか、この修行の簡易版を常日頃から行っている怪物だ。どこをどう動かせばどうなるかなど、今更意識し直す必要すらない。自分の重量を遥かに超える戦鎚『砕くもの』を自在に振るうためには、己の全てを理解する必要があったからだ。むしろ神器の中にこういう理解を不要とするものなんてない。どれもこれも制御をしくじれば死に繋がる仕様なので、否が応にも理解する必要がある。
そもそも、とサラは思う。
自分の体を理解するなんて、基礎の基礎ではないか、と。
戦闘をする、つまり命の取り合いをする以上、自分の手札を全て把握しておかなければ動きようがない。
速度は、威力は、消費は、自分の限界はどこか、何をどれだけ使えるのか。今まで限界まで動かなければならないような事態がほぼなかったため、限界点を見極められたのはつい最近だが、それ以外は大体把握し終わっている。
戦闘に特化し尽くした一族の末裔であるサラにとって、この修行は最早日常に近いものだった。
「……呆れた。流石はセイファートの裔。この普通は投げ出す修行を日常化しているとか、バカみたい」
「あの、もう少し歯に衣を着せてください。いくらわたくしでも、少しは傷つきます」
「少しくらいならすぐ治るから大丈夫」
そう言って、ルンは柔軟体操をしているサラを見た。
何気なく体を伸ばしているように見えるが、実際には細心の注意を払っている。しばらく動いていなかった体をゆっくりと目覚めさせていく動きなのだが、さりげなく血流量や呼吸などを最適な状態にしているのだ。人間業ではない。
「この分なら、氣の制御法を覚えただけで魔導練氣術まで手が届きそう。頑張って」
ちなみに、一番難しいのは気と魔力の同時制御だ。違う制御法のものを同時に扱うという時点で狂っている。が、元々セイファートの一族自体が長年かけてその両立法を血に、魂に刻み込んでしまっているため問題は無いに等しい。
狂気の域にある施術と言っていい。普通の人間なら発狂、いや生まれ出でる時点で絶命しているだろう。
ルンが目覚めるよりも遥か以前より存在するこの一族の始祖は、一体何を考えてここまで戦闘へと特化し、させてきたのだろうか。
確かにある意味最も手っ取り早い方法ではある。自分を、子を、孫を、それから連なる全てを犠牲にして、より多くを生かす。それは正義と呼ぶにふさわしいかもしれない。
最大多数の最大幸福。十を助けるために一を捨て、百を助けるために十を殺す。その少数派に常に自分達を入れ、他を守るというのは理にかなっている。ただし、理にかなっていても情は通っていない。
何故。そこまで。
考えても答えの出ないことで、今となっては誰も知らないことでもある。だが、理由を考える意味はある。こういう歪んだことをするということは、必ず理由があるからだ。狂人の理屈で理解できないとしても、そこには必ず理由がある。
また、神々の持つ武器の複製という途方もない神器を何故有しているのかという疑問もある。戦闘に特化しているからと言って、そんなものを手に入れられるのか。そもそも、複製ということは本物を知らなければ創れない代物だ。そんなものがどこぞに転がっているものだろうか。そんなわけがない。
つまり、始祖か始まりに近い代で神々と接触したことがあるということになる。この数千年間、地上に顕現した記録や痕跡のない存在と、だ。そんなことがあり得るのだろうか。ついでに言うなら、神器の中には神々の武器の本物まで混じっている。それをどうやって入手したのかも、全く不明である。
よくよく考えると、疑問だらけの一族だ。ここまで謎だらけだと、いっそ清々しい。
まぁ、それらはともあれ、サラはサラだ。今更扱いを変える理由にはならない。
ルンは幸運なことにセイファート一族の当主が記してきた日記の類を閲覧できる立場にいるし、暇なときに読み漁ってみるのも悪くないだろう。
などと言うことを考えつつも、ルンは一切表に出すことなく話を続ける。
「それで、いつくらいから氣の修行を始められそう?」
「体力がまだ戻りきっていませんので……そうですね、三日も回復に集中すれば何とかいけそうです」
「じゃあ、五日後から始める。サラの試算はギリギリを読み過ぎる。少し長めにとっておかないと駄目」
「……そんなに、ギリギリのつもりはないんですけどね」
言い訳がましくサラが言うが、最近は限界丁度か僅かな余力を残す程度まで自分を削ることの多い人物がそんなこと言っても説得力はない。というか、現状弱体化している理由が限界を軽くぶっちぎった末に死の淵を超えたからなのだし。
そんなサラの珍しい姿を見て、ルンは微かに笑う。無理、無茶だと自分でも分かっているときにしか、サラはこういう表情をしない。
自覚しているのかしていないのかは不明だが、流してあげるのが優しさというものだろう。
「じゃ、とりあえず五日後を目安に、準備を進めておく。くれぐれも、無茶はしないこと」
「はい、分かりました。軽く体を動かすぐらいは良いですよね?」
「神器を使わない、魔力による強化と回復が前提の動きをしない、無闇に体力を使わない、この三点を守れるなら」
「了解です。では、軽く腕立て腹筋背筋を各千回ほど」
「寝てなさい」
サラの言葉を一顧だにせず切り伏せ、ルンはそのまま姿を消す。
その姿を見送り、サラは肩を落とす。どうやら本気で各千回をやるつもりだったらしい。だから無茶するなと釘を刺されるのだが、根っからの修行好きのためどうにもならない。
まぁ、ダメと言われたものは仕方ないので、サラは柔軟体操の続きを行う。
もっと鍛えたい気持ちを抑え、万全になった時に行う訓練の内容を考えるのだった。
自分がある程度強いと分かると、図に乗る者は結構多い。特に元の性格が荒いと酷いことになる。
とはいえ、街中でそういうことをすると明日の朝を迎える頃には首が胴体に別れを告げることになるので、おおっぴらにはしない。魔術師協会の暗部や各騎士団が連れてきている諜報部は、そういう治安を乱すものには情けも容赦もないからだ。
では、どういう行動に出るのか。
簡単だ。合法的手段で、力を見せつけるというだけである。
「で、現在の冒険者で一番強いのと戦わせろ、という陳情が来た、と」
報告を受け、ブリジットは嘆息する。
何故、冒険者協会に来た陳情が、魔術師協会の協会長である自分のところへ来るのか、と。
最初こそはほぼ魔術師協会の下位組織みたいなものとして作ったが、今はもう会長は魔術師協会とはほとんど関係ない人物だし、荒事も他の騎士団と協同してことにあたっている。つまり、もう違う組織なのだ。
一番強い冒険者であるサラは魔術師協会の一員だが、だからと言ってわざわざこっちに許可を取る必要などないのだ。闘技場という戦闘専用の施設を作ったのだし、好きなだけ戦わせればいいのだ。
サラの体調が整っていないのなら、少々日にちをずらせばいいのだし、どうしてまたこちらに寄越したのか。
「で? なんで、こっちに?」
「陳情してきた方々が、どうも本当に一番強い人と戦いたい、と言っているそうで……十二使徒の戦闘に制限を掛けられるのは魔術師協会の長たるブリジット様しかいませんし」
「……そいつらはアホなの? サラちゃんが全力で人間殴ったら、跡形も残らないのに。
いいわ。じゃあ、サラちゃんに伝えなさい。出来る限りド派手にブッ飛ばせ、と。殺さない程度に手加減し、その上でド派手に、余裕を持ってブッ飛ばせと」
「り、了解しました。一言一句欠かさずに伝えます」
話をしに来た女性事務官がちょっと引いているのを見て、ブリジットは頷く。
やはりこれぐらいはしておかないと、後々面倒なことになるだろう。サラのような歩く天災に常人が突っかかっていった場合、真面目に天下の往来で途方もなくえげつない光景が広がることになる。全力を出すと巣の身体能力だけ使った拳の一発で人間を爆砕できるし、魔力を併用するなら挽き肉どころかもっと細かい霧状にまで粉砕できるからだ。ちなみに魔術を使うなら、粉砕、細切れ、消し炭、消滅とどんな状態で自由自在だ。
よし、ともう一つ頷いたブリジットだが、事務官はまだ伝え忘れていたことがあったようだ。
「あの、それに関連していると思われるのですが、どうもルン様が見つけてきた第一階層の裏の存在が噂の形で漏れています。
どうもその情報と合わせて、自分たちは強いぞーと認めさせようとしているようで……」
「まぁ、あそこはまだ誰も調べてないから、危険度も分からないんだけどねぇ。というか、これも自分達で決めなさいよ。
私から出せる指針は、裏階層への侵入に条件を付けるってくらいね。とりあえず『動く山』と勝負できるくらいじゃないと死ぬだけだから、『動く山』を少数、一部隊から二部隊程度で撃破できた連中にのみ侵入を許可するとかすればいいんじゃない?
最低限、それくらいはできないと、死ににいくようなものだし」
「『動く山』を、ですか。交戦記録がサラさん以外に存在しない存在ですよ? 流石にその条件だと、誰も入れないことに……」
「入れないなら、それでいいじゃないの。中級の魔人でさえ戦力評価は『動く山』と同等よ。それが複数存在することが見込まれているうえ、それ以上である上級の魔人の存在まで示唆されている。下手に手を出せば死人が増えるだけでしょ。
せめて自力である程度魔人と戦えないと、話にもなりゃしないわよ」
言って、ブリジットは現在、魔術師教会の中で魔人達と戦える戦闘力の持ち主を数える。
まずブリジット本人。あとは『雷帝』セヴァルを筆頭とした、サラを含む十二使徒の大半。十二使徒には入らない、戦闘関係の隊長が結集すれば、ある程度はいけるか。
そもそも、今の十二使徒は基本的にサラが基準になっている。全体的に超絶性能のサラに準じる万能性を持ち、各々の得意分野では軽く圧倒できるが故の十二使徒なのだから。
「報告と相談はこれだけ? なら、私の言葉を持ち帰って、ちゃんと話し合いなさいな」
「はい、了解しました。では、転移室をお借りします」
「魔力の代金は置いていきなさいよ。ミストのおじいちゃんが創りためてたものなんだから」
肯定の返事ととも、事務官が部屋から去っていく。
それを見送って、ブリジットは軽く肩を回す。ちょっと肩こりが来ていたのだ。
もう少し冒険者協会には自立してほしいところだが、まだ出来て半年も経っていないため仕方なくもある。ただ、相談するならこっちでなく、地元に駐留している騎士団の団長辺りに相談してほしいものだ。いくつかの国から来ているため、しがらみなどもあるのかもしれないが、それでもわざわざ多くの魔力を消耗する転移室を使うよりはマシだろうし。
ともあれ、色々と状況が動き始めている。いい結果が出るにしろ、悪い結果が出るにしろ、即応できる態勢だけは整えておいた方がいいだろう。この街から動かせない『雷帝』はともかく、『氷結の姫騎士』や『海鳴り』、『翔天』辺りはいつでも動かせる準備をしておくべきか。
そんなことを考えつつ、ブリジットは大きく伸びをして、憂鬱そうに肩を落とす。
これでまた仕事が増える。そう思うと、ため息が出て仕方ないブリジットだった。