第三十七話
一週間ほど外を出歩けない、それはサラにとって大きな苦痛だ。
なので、歩けるようになり、多少体力の戻ったサラは自分の家の周辺をぐるっと散歩してみた。
今までの強者としての視点ではない、というのは存外新鮮なものだ。自分が手弱女にでもなった気がして、大分楽しめたし。
そうして小一時間ほど散策を楽しんで家に戻ると、今の床が抜けていた。正確に言うなら、今の床をぶち抜いて水晶のような結晶状の何かが突き出ているのだ。
何かは分かる。何故かも分かる。だが、どうして家の床をぶち抜いたのかは分からない。だから、サラは。
「ルンさん」
にこりと、笑う。
笑顔というのが本来攻撃的な表情であったと、よく分かる表情だ。
力の大半をまだ回復できていないサラだが、世の中には使い手の力を使わない神器が存在する。腕輪から神器『偽神・円環蛇』を取り出し、サラは自分の腕にそれを這わせた。
『偽神・円環蛇』は金属的な蛇を模した神器で、持ち主の意思通りに動くとんでもないものだ。他の神器と違い、超絶的に頑丈な以外の他に能力がないので今までは使わなかったが、現状の弱体化した状態なら最高に近い武器であり防具となる。
ルンの纏う結晶は神化銀に匹敵する防御性能を持つが、純粋に格の違う神器の前ではただの石と同じだ。問答無用で粉砕できる力をちらつかされ、ルンは嘆息しながら結晶から出てきた。
「ごめん。顕現位置をちょっと間違えた」
「直してくださるなら、大丈夫です。ええ、出来れば今日中に」
「簡単」
結晶が砕け散って消えた後、ルンは軽く指を弾く。と、砕け散った後、僅かに残された結晶が床板に吸い込まれ、そこから床板が生長して元通りに戻る。意味が分からない。サラが試しにその場所を踏んでみるが、今までと変わらない感触が返ってくる。
本当に意味が分からない。復元などの上位魔術などではなく、死んで数十年以上経過しているはずの板を『生長させて』元に戻したのだ。すごいのかすごくないのかさえ分からない。素直に流石は精霊王と感心しておくべきなのだろうか。
とりあえず家が直ったのならば文句はないので、サラは嘆息しながら『偽神・円環蛇』を腕輪に還す。
「……それにしても、随分と早く来られたのですね。わたくしがある程度動けるようになってから来るものだと思っていたのですけれど」
「心配だった。それに、久しぶりにサラの料理を食べたくなった」
「心配はありがたくお受け取りしますが、わたくし、そこまで料理は上手ではありませんけど……」
何故かイーリスなどの数名に異常な気に入り方をされるサラの手料理だが、実際にはそれほど上手ではないし、そこまで美味しいものでもない。サラ自身が基本的に何でも食べられるうえ、味に頓着しない性格のためだ。栄養さえ取れればそれで構わないと割り切っているせいでもある。
一応、自分以外が食べるものに関してはそれなりに味に気を付けるものの、それなりの範疇を出ない。が、家庭料理とはそういうものだろう。
ルンなどは半分鉱物みたいなものなので、数年ぐらいなら飲まず食わずでも大丈夫だが、やはり家庭のようなものに憧れでもあるのかもしれない。もしくは、単純にサラの作る安定しない味の料理を楽しんでいるのかもしれないが。
「大丈夫。協会幹部級の女性陣に料理上手はいない。フロウが唯一お菓子作りが上手いだけ。サラは上等な部類に入る」
「…………そういえばそうでしたね。食べるのに凝るくらいなら、その分仕事をする、という男らしい方ばかりでした。わたくしを含めてですが」
「吾も料理は無理。だから、作って」
ルンは端的に言いながら、どっかりと食卓に着いてしまった。鉱物に匹敵する気の長さを持つため、もう料理を作って出すまではてこでも動かないだろう。頑張ってどかそうとしても、ルンの重量は同量の鉄に匹敵する。残念ながら、現在のサラではどうあがいてもどかせない。魔術で質量を誤魔化しているために普通に動いているし、建物などに損傷を与えていないが、他者が動かそうとする場合は重量がしっかり掛かる仕組みになっているのだ。
どうしようもないものをどうにかする気はないので、サラは軽く嘆息して台所へと移る。まだ長時間の歩行はきついので、家にある食材はフロウが持ってきてくれる差し入れと乾物が主だ。
仕方ないので適当に自分も食べる分を作ってしまう。多少時間が掛かるが、ルンにとって並の待ち時間などないに等しい。サラの知る限りだと最大三日放置されても微動だにせず、日数が経過したことにも気付いていなかったという事例があったらしいし。
常軌を逸しているが、鉱物系の高位精霊などこんなものだ。まだルンはまともな感性を持っている方である。
「さて、とりあえず出来ました、っと」
ベーコンから煮出した出汁に塩で味を付けたものでカラスムギを煮た粥だ。大したものではないが、体調がどん底の時にいきなり訪ねてきた人物に出すには充分だろう。厚切りのベーコン付きだし。
と、サラはそこで一つ気付く。
どう運んだものか。
現状の体調だと、ルン仕様の大皿は運べない。無理すればいけるが、下手すると転ぶ。
まぁ、必要なら手を追加するだけでいいのだが。
「ルンさーん、出来ましたので、運んでくださーい」
「! 今行く!」
声が聞こえるや否や、ルンが台所へと出現する。速い遅いではない。転移だ。空間転移の即時発動。人間が使うとするなら、空間転移に完全に特化したうえで数十年以上の修練と経験を積まねば手も届かない魔術だが、高位精霊でしかも万単位の年月を超えているルンにとっては手足の延長に近い。
瞬時に現れ、そのまま大皿を手に取り、再び一瞬で消える。泥棒でもやれば普通なら絶対にばれないため、天下無敵の大泥棒になれるだろう。それを実行した場合はサラが全力で殺しに行くため、割に合わないどころではないが。ルンは元よりそんなことを考えてもいないだろうが、サラは一応の場合を考えて知り合い全員に対する殺害手段を常に頭の片隅に置いていたりする。
実際問題として、ルンのように即時瞬間転移を間を置かずに連続で使える存在が相手になるとかなり厄介だ。これからはそういう存在が敵に回る可能性があることを考えると、ルンに手合わせしてもらうのも一つの手だろう。
まぁ、今は体の回復に努めるのが一番なのだが。下手に体が動かせる分、妙なことを考えてしまっていけない。
ともあれサラは自分の分の皿を持って食卓へと運ぶ。重さが大したことなければ、問題はないのだ。
食卓では、既にルンは食べ始めていた。いや、食べる勢い的に貪るの方が正しいか。何をどうしたら音も立てず、品位を損なわずに超高速で食事が出来るのかは分からないが。
「ルンさん、せめてわたくしが食卓に着くまでは我慢してください」
「無理。待ってたら冷める」
サラの苦言を一蹴し、ルンは顔さえ上げずに食べ続ける。食べる動きが一秒たりとも止まらなかったように見えたのは気のせいだろうか。
とはいえ、この格の存在の行動をいちいち気にしていても仕方がない。鉱物に近い肉体を利用して、体の一部を振動させることで口を介さずに声を出せるとか言われても納得できるからだ。
とりあえずサラがテーブルに着いて食べ始めると、もう食べ終わったらしいルンがじっと見つめてきた。
「えっと、あげませんよ?」
「もう必要ない。また明日貰う。それよりも、うん。氣の修行、始めた?」
「?」
匙で粥を口にしながら、サラは首を傾げる。
まだ氣を使うには体調がイマイチのため、呼吸を安定させようとしているだけだ。修行を始めた、などと言える段階ではない。だが、観察や調査については人智を超えるルンの言を無視はできない。
なんとなく見返していると、ルンは二度三度と頷く。
「前に会った時よりも色々な能力が上昇している。氣の呼吸法を練習し始めたみたいだけど、それだけでもかなり変わる。
体が壊れているようだけど、かなりの早さでそれを治せるようになるはず。その練習をちゃんと続けて、寝ているときでも出来るようになれば回復の効率をかなり上げられる。
本格的な修行を始めるときは、先に言って。吾が準備を手伝う」
それだけ言い、ルンは目を閉じて静止する。寝ているのではない。完全に止まっているのだ。
言いたいことを言って、外界を拒絶するのはいつものことなので、サラも特に気にすることなく食事をする。
自分でも分からないぐらいの微細な変化を、ほんの僅かな時間で察知されたことを流石だ、と思いながら。
世界樹を登ったことのある存在はいない。
これは単純に世界樹が高いから、という理由ではない。高いものを見ればその頂上からの眺めを見たいと思う連中は必ずいるからだ。
だが、登頂した者はいない。出来た者が存在しない。
それはなぜか。
「チィッ!」
舌打ちし、ゼイヘムトは人間では視認不可能な速度で三次元機動を行う。
床、壁、天井の全てを使い、空中までもを足場にしつつ、猛烈な密度で放たれる光の雨を避けていく。
一度でも掠れば、それで終わる。世界樹以外の全てを消滅させる超高密度の魔術群は、防ぐことすら許さない。常軌を逸した防衛機構は、圧倒的な火力で侵入者を滅ぼし尽くす。
その強力な魔術を展開しているのは、一つの人形だ。『魔導神』が手ずから作った、意思持たぬ石の人形。世界樹という無限の魔力源から魔力をくみ上げているため、その魔術に終わりはない。また、膨大な魔力を使用しながらも、即座に使用した魔力を全て世界樹自体が還元して吸収するために、使用魔力は実質上ゼロに等しいというありえない超効率を誇る。
通常の戦力であれば、一秒ともたずに完全に壊滅するだろう。人形の魔術の射程距離は三万マイル四方に及ぶ。文字通り、逃げ場など存在しない。
そう、通常の戦力であるのなら。
だが。だがしかし、ゼイヘムト・アーグ・ライングラッツェは並大抵の存在ではない。
超音速駆動と術式からの逆算により、百分の一秒単位で存在する僅かな隙間を縫って人形へと一歩、また一歩と近づいていく。
世界樹内部に存在するこの対侵入者用滅殺空間の広さからして、音の速度を超えてもなお七日以上の時を重ねなければたどり着けないが、しかしゼイヘムトはそれを成し遂げる。
百時間以上に渡り、極限の集中を続け、しかし一切の憔悴を見せることなく、魔王は人形を打ち砕き――
人形の粉砕と共に放たれた全周囲への自爆消滅波を逆位層の魔力を同威力、同波長で叩き込むことで相殺してみせた。
「――ク、これで、百七十。あと幾つだ。どれだけの防備を敷いているというのだ、奴らは」
通常空間に戻り、ゼイヘムトはがっくりと膝をつく。
ゼイヘムトの主観で、既に十五年が経過している。今回の人形はまだ易しい方で、あれよりも難易度の高い防衛機構も数多い。
世界樹内部からでないと神々の座す場所へはいけないとはいえ、少々これはキツイ。世界樹から魔力その他を奪うことで己の力を大分取り戻してきてはいるものの、まだ全盛にはほど遠い。力を消費しながらなので、効率が悪いのだ。
ついでに、世界樹の外側にはより鬱陶しい防衛手段がばら撒かれている。単純に数億マイルの時間圧縮空間を一ヤードごとに設置してあるだけなのだが、時間が掛かってしょうがない。
一体、どんな化け物の襲来を想定してこんな死ぬほど厄介な防衛機構を敷いているのだろうか。
「とはいえ、ここまで来て逃げ出すのも癪だ。あのクソ野郎ども、余がたどり着いたら覚えておれよ……」
とりあえず絶対に一発ぶん殴ると心に決め、ゼイヘムトは立ち上がる。
秘めたる決意は二つ。
ただ己の戦闘欲と。
己を討ち果たせし英雄との契約。
それだけあれば、魔の王にして神の格を持つ者はどこまでも進めるのだ。
「さて、来るがいい。余の進軍を止められると思うなよ」
『森羅の魔王』は王者の覇気と共に前へと進む。
その歩みを止められるものはなく――