第三十六話
果てしなく高い世界樹の根元に一人の少女がある。
ある、というのはそのままの意味だ。人間大の水晶のような結晶の中に、少女が入っている。どう見ても中までみっちりと詰まった結晶なのに、中の少女は平然と動いてるのが不思議だ。外から見た年齢は十代半ばから後半ほどか。吸い込まれそうなほどに黒く長い髪で、落ち着いた黒いワンピースを着ている。髪や服とは対照的に肌が雪のように白いのも特徴だろう。
少女はぼけーっと世界樹を見上げながら、時折右手に持った本に魔力を流し込んでいる。魔力型の情報記述書だ。使用には高度な熟練が必要だが、百年単位で経年劣化しないうえに記述にインクを必要としないなどの利点がある。ただし、作るのに物凄い手間と時間と金が掛かるので、一般には全く流通していない。
少女の入っている結晶の近くには数冊の同じ本が転がっている。非常に無造作に転がされているが、これらの本と中の情報に値を付けると小さめの屋敷なら使用人ごと買えるだろう。逆に言うなら、そんな高価なものを無造作に扱えるという証拠でもある。
そんな風に世界樹を眺め続けていた少女だが、不意に目を鋭くして後ろを振り向く。巨大な水晶の中からは出られないので、振り向くだけだが。
と、後ろには世界樹を見上げているゼイヘムトがいた。自分の危険度を知りながら平然と無抵抗の少女の前に姿を現すあたり、少々頭がカッ飛んでいる。
「『森羅の魔王』。何か用?」
「うむ。ルン、貴様、余がここの調査を引き受けたらティエの街へと行けるか?」
「行ける。けれど、理由が分からない。最初から説明して」
静かに、ルン・ルン・レイノはゼイヘムトを見据える。
世界樹の元に常在するルンは世の情勢に疎い。まれに妙な変化を起こすことのある世界樹を常に調査し続けなければいけないため、それは仕方のないことだ。
また、この場所はある意味で最前線だ。世界樹は極々まれに途方もない強さの魔物を生み出すことがある。それを調査し、また粉砕できる戦力でなければこの場所には留まれない。
かつて、一度だけこの二人は対峙したことがあるが、そのときには感じ取れなかった底知れない何かをゼイヘムトは見て取っていた。
精霊王の格、というのは間違いなく真実だろう。万を超える年月を生きてきた風格を持っている。また、内包する魔力の量はサラでさえ比較にならない。地脈を三つ四つまとめて内包しているに等しい。
この分だと、数千年ほど地面に埋まっていたか。聞いた話では二千年ほど前に掘り起こされたらしいし、大地が内包している魔力を永いときを掛けて取り込んできたのだろう。
見事の一言だ。戦闘に向いた能力なら是非とも手合わせ願いたいとゼイヘムトでさえ思うほどだが、残念ながら戦闘能力はサラの半分以下だという。それでも充分化け物だが。
「そうだな。説明しよう」
湧き上がる残念な気持ちを抑えつつ、ゼイヘムトは説明を始める。
大体半年前に迷宮が出てきたことから始まり、中に強大で敵対的な魔族神族がわんさかいて、それらとの戦闘でサラが重傷を負ったことなどまで、とりあえず時系列順にまとめて。その後で、やってほしいことや注意点などを微に入り細に渡って。
話を聞き終わったルンは、一つ頷いて手を前に差し出した。
「これ、使って」
「ん? 記述書か。良い物を使っているな」
何もない中空からドサドサと山のように落ちてくる白紙の記述書を全て自分のリバース・スペースに収めるゼイヘムト。見ただけで渡された本が何かを看破してしまうあたり、やはり化け物だ。
全ての記述書を譲渡し終えたルンは、硬質な砕ける音を響かせて自分の周囲の結晶を内側から破砕して外に出る。あの結晶の中にいるのが最も自然な姿なのだが、多少使える能力が減るだけで結晶の外での活動も可能なのだ。
「行く。世界樹の種の観察もしたいし、サラも心配」
「観察が先に来る辺り、やはり貴様も余と同じ穴のムジナだな」
「余計なお世話」
茶々を入れたゼイヘムトの言葉をぴしゃりと切って捨てる。
「これの観察は任せた。たまにひょろいのが来て記述書を持っていくから、定期的に記録だけはしておいて」
「任されよう」
「じゃあ、またいつか」
ルンはそれだけ言い残し、地面の中へと吸い込まれて消える。鉱物系の高位精霊のみが自在に出来る地脈を介した移動だ。一日もあればルンはティエの街に着いているだろう。ここからだと数千マイルは離れているというのに。
何はともあれ、ルンを見送ったゼイヘムトは世界樹に解析魔術を掛ける。一つの生物や構成物を長期に渡って調査し続ける、魔王独特の魔術だ。しかも、術式を修正しつつ書き加えることで、全自動で記述書へ情報を記し続けるようになっている。化け物という形容以外、表現のしようもない。
他にも一つの記述書がいっぱいになったらこの辺りの地面に転移するように設定して、次の記述書へ移るようにしたりと世界樹登りに後の憂いを残さないよう色々と行う。
そして。
全ての準備を終えたゼイヘムトは、世界樹に足を掛けて猛烈な速度で登り始めた。待ち受ける地獄のような連戦を覚悟し、それでもなお天へと至るために。
酒場と言うのは色々なものが集まってくる場所だ。普通の街でもごろつきから兵士まで集まって来るし、迷宮のおひざ元のティエの街ならば更に多くが集まってくる。
その中でも悪目立ちする連中は割と多い。具体的には街に来てすぐの、あまり街の暗黙の了解を知らない連中だ。
迷宮などという危険極まりない場所に入ろうという馬鹿は基本的に脳ミソまで筋肉で出来ているか、元いた場所で負け知らずだった井の中の蛙が多い。一獲千金を狙える、という触れ込みで情報を流しまくっているので食い詰め者が来ることもままある。
で、そんな連中が現実を知らずに来て、他の街よりも大人しい感じの酒場で何をやるかは大体同じだ。ティエの街の酒場もやかましいことはやかましいが、喧嘩その他はまず起こらないし、意外と和気あいあいとしている。つまり、新入りからは少々舐められやすい環境なのだ。
だから、注文を聞きに来たりした従業員の女性を無理やり口説いたり、尻を触ったりと少々見とがめる行為が多い。
それを他の連中がしない理由に考えも至らずに。
「ヘヘ、姉ちゃん、良いケツしてんじゃねえか。ちょっとこっちで酌でもしろや」
今日も繁盛している酒場の一つで、そんな勘違いした新入りが従業員にちょっかいを掛ける。
酔っているのなら救いようもあるが、残念なことにほぼ素面だ。コワモテ数人が囲めば、気弱な女性従業員にはどうしようもない。
「え? きゃあっ! な、嫌です!」
「嫌よ嫌よも好きの内ってな。ほれ、さっさと――」
とそんなときだった。
女性従業員に絡んでいた男の一人が、消える。正確に言うなら、目にすら映らない速さで店から叩き出されたのだ。
へ? と囲んでいる他の男が呆けた声を漏らすと同時に、新入り達は全員が店の外に放り出されてしまう。
それを行ったのは酒場にいた三人の騎士だ。この酒場を行きつけにしている、熟練の冒険者である。第四階層までならたった三人で探索できる彼らは、苦笑しながら酒場の外に出て、何が起こっているのか分からずに狼狽している新入り達の前に立つ。
「君達、面白いことをしているな。だから、教えてやるよ三下。いいか、一度しか言わないから、耳かっぽじってよーく聞け。聞いてませんでしたは通らんぞ。
酒場で騒ぎを起こすな。街の住人に迷惑を掛けるな。冒険者に課せられるたった二つの鉄の規律だ。次にこれを破れば、君達は問答無用で迷宮で魔物の餌になる。分かったな? 返事はどうしたッ!?」
死地を潜り抜けてきた凄味を滲ませながら、騎士達は言う。
大きな声ではない。ただし、声に込められた殺気と覇気は、新入り達を怯えさえて縮こまらせるのに充分すぎる物だ。
「ちなみに言っておく。我々は冒険者の中では強い部類に入らない。分かるか? 迷宮に入る連中は大体これぐらいに強いってことだ。自分達が強いなんて勘違いをしているなら、早々に改めろ。お前達は、冒険者の中ではゴミ以下だ」
「ひ、ひゃい。すみませんでした」
「よろしい。では、さっさと冒険者協会に行って説明を受けてこい。駆け足で行かんかッ!」
「ヒィィ、すんませんでしたー!」
喝を叩き込まれ、新入り達は見た目のごつさに似合わぬ半泣きの顔で協会の建物の方へと全力で走っていく。
それを見送った騎士達は嘆息しながら酒場の中へと戻る。迷宮探索の始まった最初期の冒険者は騎士や魔術師、どこぞの貴族の三男坊辺りが多く、こういう光景はあまり見られなかったが、最近は少々目に余るようになってきた。
というのも、外から冒険者志望が増えて来たためだ。ああいう馬鹿は存外に多い。度が過ぎれば先ほど騎士達三人が言ったように迷宮の魔物の餌になるが、度が過ぎるということは被害者が出てしまうということだ。
まとめ役である冒険者協会にはその辺りの対策を取ってもらわなければならない時期が来ている。騎士団長を通して、一度要望を送ってみるべきだろう。または従業員として女性騎士を送り込むのも手の一つか。
そんなことを考えつつ、彼らは席に戻り、酒盛りの続きをするのだった。
サラは、セイファートの屋敷から持ち出した本をパラパラと読む。
ようやく自由に歩けるようになったので、書庫に篭っているのだ。以前は魔術ばかりに目を向けていて気付かなかったが、魔術以外の技術を記した書は意外と多い。魔術書の量に隠れているが、百冊ほどはあるだろうか。
恐ろしくいやらしいことに、どれも生半可な語学力では読めないものばかりだ。上位古代語で書かれているのは当然で、下手をすればそれに神代言語による並び替えの暗号にしていたり、しれっと段落ごとに下位古代語と入れ替えたりしている本まである。物によってはセイファートの一族以外では本の存在自体を認識できないようになっているほど。
最初の内はそこまでするか、と呆れていたが、今ではそうした理由を理解できるようになった。
危険なのだ。外に漏れた場合が。
別に威力が危険だというわけではない。単純に、制御が果てしなく難しいだけだ。
己の生命力を使うことで自身の肉体を強化する氣という力。それは言ってしまえば体力をすり減らして戦うようなものだ。そもそも、解放させた時点で己の氣を制御できなければ数分で死ぬ。
寿命を使う、というような危険な術ではないものの、連続して戦える時間は確実に減少するうえ、魔力と反発する性質があるために下手な魔術師が使うと爆散する。
極めて取扱いの難しい技術だ。そして、現状のサラだと氣を使うよりも魔力で強化した方がいいぐらいに微妙な技術でもある。
ただし、これには更なる先が存在する。
相反する魔力と氣を均衡させて合成することで可能となる魔導練氣術という、特異な技術だ。どうも魔力と氣は等分に混ぜることで恐るべき出力を出せるらしく、これがセイファート一族の肉体系戦闘技術の奥義であるらしい。
同量の魔力や氣のみで肉体を強化した場合と比べ、その能力の上昇幅は数十倍に達するという。だが、それは取扱いの難度の高さをも意味する。それだけの出力を制御しつつ、かつ魔力や氣の量を等分に保ち続ける。片方ならともかく、両方を同時に行うなど常軌を逸しているとしか言いようがない。
現状のサラはまず氣を習得するところから始めなければならない。ただし、焦りは禁物だ。現在の体調だと確実に死ぬ。
なので、氣の習得につながる最も基礎の修練から始めるべきだ。
基礎は力。基礎こそが奥義。それがサラの至った答えの一つだ。ゆえに、サラは基礎を最も重要視する。今回も同じだ。
体を使う訓練はするなと言われているが、こればかりは別だ。何せ、動く必要がない。無理をする必要もない。
呼吸。息を吸って吐くこと。これが基礎の基礎なのだから。
「まずはいつ如何なるときでも呼吸を乱さないようにする。完全に一定の速さで、常に深く息をし続ける。他の体錬でも似たようなことはしましたが、やはり呼吸は大切なのですね」
ひとりごち、サラは呼吸法の本だけ持って自室へと足を向けた。
一歩一歩進もう。千里の道も一歩目を踏み出すことから始まるのだから。
サラはそう自分に言い聞かせ、歩いているときも呼吸を乱さないよう注意する。
今はまだ、全てが遠い。だからこそ、ゆっくり歩くのだと。