第三十三話
闘技場全体が恐ろしく濃密な魔力によって包まれている。
蘇生魔法に使われる桁外れの魔力のせいだ。ゼイヘムトが魔力を制御し、統制下に置いていなければ一桁では済まない人数が魔力酔いで倒れてしまっているだろう。
魔法という強大極まる力の維持。儀式と魔法陣を使い、また負担をフロウ一柱が背負っているとはいえ、それに参加する魔術師に掛かる負荷は生半可なものではない。不平さえ言わずに耐えている彼ら彼女らには頭が下がる。
そのおかげで、サラの魂を肉体とつなぐことには成功した。あとは、戻ってくるのを待つだけ、なのだが。
「そう長くはもたないわよ。どれぐらい掛かるの?」
『さて、な。サラの精神次第だろう。『楽園の守護者』の問答は相手の心の殻を砕き、自分と言う存在の芯を見せつけられるものだ。サラの本性が年頃の少女と変わらなかった場合は、そのまま死ぬだろうな』
「……ちょっと、勝算があってやってることじゃないの? あの子だって、普通の……」
『正直、余にもアレの心の芯は分からん。そもそも、アレは物心つく前から血に塗れた人生を送ってきたのだろう。表面を取り繕う術には長けていて当然だし、捩じくれ曲がって反吐が出る本性を隠している可能性さえある。
それに、だ。サラが何を考えて行動しているのか、など理解できるものは存在するまい。余が推察するに、アレはもう『セイファート家』という一族の体現だ。
誰よりも強くなるために、誰よりも修練を積む。己が最強であるから、理不尽に対して己が立ち向かう。結果、自分が死ぬことになろうと、被害を自分だけで抑えられるのなら最良。そんな感じか。
そんなことを本気で考えているのだとしたら、恐らくは蘇生させては貰えんだろうな。どうせまたいつか同じように死ぬだろうからな。ならば、いっそこのまま死なせてやろう、と『楽園の守護者』ならそう考える。
サラが抵抗しても無意味だ。次元の違う性能差の前では技術など些細なもの。そのまま捕まえられて意識のない、冥界へ行くまでの一時の安らぎを得るだろう』
聞いてないことまで答えるゼイヘムト。本当に話したがり屋だ。
ともかく、ゼイヘムトの言葉の中には無視できないことがいくつもある。それを聞き逃すほど、フロウは鈍くはない。
「サラちゃんの本心、か。あの子、本当は自分の人生をどう思ってたのかしら。自分で決めたって言っても、私達がそれを押し付けてるのは変わらないんだし」
『さて、な。問答の決着はこちらの時間で数分と掛からぬ。それまでは、見ているほかない』
頭を抱えるフロウと、冷淡に言い捨てるゼイヘムト。
そして――
「貴女は、生き返りたいですか?」
ギルフィーは笑みで問いかける。
人に非ざる美しさを持つ青年は、神の優しさと神の非情さで語りかける。
サラは思考が凍りついていくのを自覚した。頭が回らない。何も考えられない。ただ、余計な全てをそぎ落とした己の本心が出てくるのを感じ取ってしまう。
「生き、たいです」
口が勝手に動く。自分の意志とは無関係に。
そう、サラは生きたい。まだ死ぬわけにはいかない。
「貴女は、死にたいですか?」
笑み。一切表情を変えず、神はサラの内心へと踏み込む。
抗えない。一切の抵抗が出来ない。ある程度、こういう精神耐性には自信のあったサラだが、何をどうしても思考を止められるのを避けられない。
ならば。ならば。
抵抗など、やめてしまえ。全てを、本心を曝け出してしまえ。
どうせ相手は神だ。ここに知り合いはいない。この神に全てをぶちまけても、誰かに伝わることもない。
だから。
何を言ったとしても、問題なんて、ない。
「いえ、死にたくありません」
「どうしてですか? 貴女の送ってきた人生は幸福とは言い難い物でした。生きたいと思うその理由は?」
「ええ、幸せではありませんでした。――少し前までは」
働かない頭で、サラはぼんやりと思い返す。
ほぼ義務感のみで動き、己を鍛え抜いてきた日々。辛かったとは思わない。けれど、楽しいとか幸せという感情からは程遠かった。いつでも自分を使い潰せるようにする、そんな生活が幸せであったわけがない。
だが。
「けれど、イーリスちゃんが来てからは、幸せでしたよ」
あの少女と生活するようになって、一変した。
今までは顔も知らない“誰か”を守るため、という義務感だった。それはただ淡々と日々をこなすだけのものだ。
けれど、イーリスと共に生活するようになり、ころころと表情を変える彼女を見ていて少し周りを見る余裕が出来た。今まで義務と使命感で突き進んできたが、そこでようやく周りを、その義務と使命の対象を見ることが出来た。
きっと、それは本来なら小さな変化だったのだろう。誰でもやっていることだ。だが、物心つく前に強大な力を御する術を得、それを使うに値する存在となるための修練の日々だったサラにとっては小さくて大きな変化である。
市場で、店で、街中で、どこかで笑っている、怒っている、泣いている人々。幸せそうに、不幸せそうに、楽しそうに、悲しそうにしている人々。
かけがえのないものだ。
「そうですか。では続けましょう。生き返るということはもう一度死ぬということですが、辛くはありませんか?」
「辛いし、怖いです。ですが、それだけです。充分、耐えられる範疇です」
「本当ですか? 生き返れば同じ死に方をすることもあります。もっと悲惨な運命を辿る可能性もあるのですよ?」
「望むところです。わたくしが苦難を一つ背負えば、誰かの苦難が一つ減ります。その事実があれば、どんなことにでも耐えられます」
本心だ。
全て。
ここで語ることは全てが本心となる。偽ることは出来ない。神の力は偽りを否定する。
「しかし、貴女がいることで他の人が苦しい思いをすることもあるでしょう。それをどうしますか?」
「それについては何もできません。わたくしに出来るのは、わたくしの手の届く範囲だけ。出来る限り手を広げていますが、それでもこぼれるものは多いですから」
自分のせいで失われるもの。それは数多い。
サラが迷宮を異常な速さで進んだために、それに対抗しようとして命を落とした騎士達。サラ自身を除こうと、矜持を懸けて挑んできた司祭達。迷宮について攻略法を見つけてしまったために、無謀にも迷宮に挑み、散った者。それ以外にも無数にいる。
サラが自身で手を下した者も多い。数多くの命を、サラ自身も奪ってきたのだ。
しかし、だからこそ。
「だからこそ、わたくしは生きたいと思います。わたくしが奪ってきた命が、誇れるように。こんなところで終われば、彼らは小石につまづいたようなものです。それでは駄目です。
誰かを蹴落としたのならば、希望を砕いたのならば、わたくしは何よりも大きな壁でなければいけない。小石につまづいたのではなく、巨大な山脈にぶつかってしまったのだと言っていただけるように」
そうでなければ、意味がない。
自分にぶつかった誰かにとって、己こそが最大の障害であったと思わせられるほどに強く、大きくならなければ。
「分かりました。では、最後の質問です」
笑う青年が、凄味を増す。にじみ出す力が世界を犯す。
桁外れの力。次元の違う魔力。恐怖を、心の底から、存在の全てから恐怖を引き出す。
何があろうとも勝ち目はない。全ての神器を自在に操れたとしても。
「私が世界を滅ぼすと言ったら、どうしますか?」
ただの冗談だろう。それをする意味も価値もない。
とはいえ、冗談であったとしても出来るだけの実力をこの神は持ち合わせている。それこそ、今の世界を即時に両断できるほどの能力を。
そう。サラであっても、これに敵対すれば一秒ともつまい。否、敵対したその瞬間に死ぬ。
だが――
「立ちふさがります。そんなことは絶対にさせません。いかなる方法を使ってでも、石にかじりついてでも、絶対に」
――それがどうしたというのだろうか。
遥か格上を相手にするのならば死ぬのは当然。一秒でも、一瞬でも長く世界を保てるのならば。理不尽を遠ざけられるのならば。
サラ・セイファートは戦うのみ。
「そうですか。分かりました」
恐怖で震えながらも、毅然とするサラを見て、青年は笑みを深める。
ここでは嘘をつけない。本心を偽ることは出来ない。
つまり、そういうことだ。
どれほどの恐怖にであったとしても、サラは真っ直ぐ敵に立ち向かえると。
「貴女の蘇生を認めます。貴女ならば、この先どれほどの困難が待ち受けようと、その心が折れることはないでしょう」
ならば、大丈夫だ。そう言うようにギルフィーはサラの頭に手を載せた。
「貴女を送り返す前に、二つ贈り物を。流石に貴女の前にある困難は少々大き過ぎます。魔王と第一階級神族、どちらも人の手には余る。ですので、私が与えた神器の封印を解きましょう」
え、とサラが何かを言う前に。
意識が急速に落ちていく。
「『神葬真理』。神格を持つ存在への特効。制限を解除しておきましたので、他の神器と同じように訓練しなさい。『砕くもの』だけで進めるほど、あの迷宮は甘くありません。
そして、迷宮についての情報を。第一階層を徹底的に調べなさい。道は一つではありません」
最後に聞こえた言葉は、何故か耳に残っていた。
『繋がった。そして――戻って来たな。よし、術式解除』
虚空を見ていたゼイヘムトはそう言って手を一つ叩く。と、パン、と弾けるような音と共に闘技場全体を包んでいた魔力が霧散し、緊張の切れた魔術師たちがバタバタと倒れた。
極度の緊張を三十分ほど強いられていたのだ。精神と肉体をすり減らし尽くしたのだろう。数日はゆっくり休むべきだ。
うんうんと頷くゼイヘムトを、フロウが見る。
「もういいの? サラちゃん、本当に生き返った?」
『ああ。問題ない。それにしても、アレの問答を耐え抜いたのか。見事な精神力だ』
「さっきも言ってたけど、そんなにすごいの?」
『アレの問答がなければ蘇生魔法の成功率は十割。だが、アレがいるから万分の一ぐらいまで落ち込む。
奴の能力は魔法すら弾くから、問答に合格できないとそれで終わりだ。しかも、嘘や偽りが一切不可能。相手は笑顔で意図が読めないし、そもそも思考能力を奪われた状態で、本音のみしか語れない。頑張って嘘を言っても心を読まれてるから意味ないしな。
そもそも合格の基準が奴の胸先三寸で、正答が存在しない。答えのない質問しかしてこないんだ。だから怖いが……無事生き返ったようだし、次を見据えよう』
そう言い、ゼイヘムトはひょいと学園の方を見る。
ほんのわずかな時間だ。一秒と見ていなかっただろう。だが、それだけの時間でゼイヘムトはやるべきことを終えていた。
『さて、撤収だな。フロウ、お前が小娘を家に送っていけ。余にも色々とやることがある』
「へ? いえ、まあ、構わないけど」
フロウの返事を聞き、ゼイヘムトは姿を消す。
その、一瞬前に。
『オリオールを連れて、サラの家で待つ。色々と迷宮について分かったことがある。ディルとやらに余が気付いたことを気取られるなよ』
フロウにだけ向けられた、念話。魔王の技術を凝らされた、完全かつ完璧な隠蔽を施されたそれは、フロウ以外の存在には気付かれることさえない。
そのあまりにも行き過ぎと言える念の入れように、フロウは悟る。自分の、魔術師協会の想定を遥かに超える何かがあるということを。
今までで最も情報を渡してきたディルに気付かれぬようにして、最も自分達の内側にいるオリオールと接触を取る。これが意味することは一つしかない。
なら、やるだけだ。永い年月を生きるフロウは腹芸も心得ている。もし、直接であったとしても、完全に煙に巻ける。
何があるのか、何を掴んだのか。今はまだ分からないが、それでもこれで大きく前進できるだろう。
「よっし、みんなお疲れ様。後の片づけは明日、力持ちの人に任せるから、今日はこれで終わり! サラちゃんは私が連れて行くから、ここで解散ねー。もし酒場行くなら、今日の分は私にツケといていいよ」
手伝ってくれた人々に声を掛け、フロウはサラを抱き上げて歩き出す。
疲れ切っていながらも、酒場での飲み放題に沸く背後に微笑みながら、フロウは今後のことに考えを巡らせる。
鬼が出るか、蛇が出るか。
ゼイヘムトの言った分かったこと、それがどんなことなのかを想像しながら、サラの家への道を行くのだった。