第二十五話
夕方、学園の寮にある訓練室で。
金の髪をなびかせ、一人の少年が修練をする。
黙々と、ただひたすらに剣を振り続けるその姿は、誰であろうと貶めることなど出来ない。
同年代の者と比較するなら、その剣はまっすぐで良い研鑽が見受けられる。だが、足りない。絶対的に全てが足りない。
少年はただ焦っていた。先日、見せつけられたサラの実力に。自分達と同じ年代ながらも、隔絶した技量を持っている"少女"に。
慢心していた、と言っても過言ではないだろう。
素手で、棒で、剣で、槍で、鎚で、弓で、ありとあらゆる武器で。正確に言うなら一回目は相手と同じ武器を使用して、サラは学園生の男子全員を完全に叩きのめしたのだ。しかも、魔力を一切使わず、ほとんど動くことすらせずに。
差がある、なんて言葉では追いつかない。次元が違う。一つの武器ならともかく、ありとあらゆる武器を極める段階まで習熟しているなど、あり得るわけがないのだから。
しかし、現実には存在した。その事実がただ少年を焦らせる。
また、もう一つ焦らせる要素がある。それはサラに二度立ち向かった唯一の人物のことだ。
ただ一人、圧倒的な差を見せつけられてなお、立ち上がることの出来た者。次元の違う相手に、ただ一人立ち向かうことが出来た者。
本来は、少年も同じことをしなければいけなかったはずだ。どれほどに差があろうとも、どれほどに隔絶していようとも、挑戦する気概を忘れてはいけなかった。
それなのに、立てなかった。確かに痛みなどはあったが、それでも立てないほどではなかったはずなのだから。
事実が、彼を焦らせる。サラと違い、所詮は普通の人間である彼に過剰な修練は身の毒である。サラは常に自身を治癒、回復し続けることで、魔力の続く限りは有効な修練を積み続けることが出来るが、そんなもの普通は無理なのだから。
焦りは視野を狭くさせる。そう、たとえばすぐ近くに人がいても気付かなくなったりするほどに。
「素振りしてるところ悪いが、ちょっといいか?」
急に声を掛けられ、少年は思わず振り向きざまに剣を一閃してしまう。
それを事もなげに避け、何事もなかったかのようにその人物は言葉を続ける。
「えーっと、なんだったか。あんた、名前はクレール・バルデュワンであってるか?」
声を掛けたのは黒髪の少年、ジンだ。
その顔を見て、少年はビクッと身を震わせる。当然か。ジンの影を消すために剣を振っていたら、その当人が目の前に現れたのだから。
「……ああ、合ってる。それが、何か?」
「こっちはジンだ。家名はない。んで、あんたがまだ誰とも組んでないって聞いてな。実習の時に組んでもらおうかと思ってきたんだが」
「迷宮探索の班か。確かにボクはまだ誰とも組めていない。だが、君と組む必要も認められない。ボクは一人でも合格を叩き出して見せる」
少年、クレールは覚悟をうかがわせる声音で言う。
固い決意の込められた言葉を聞き、しかしジンは苦笑する。
「死ぬよ」
「なに?」
「あの迷宮、一人で攻略するには最低でもかなり広い索敵術式を常時使い続ける必要があるんだぜ。それに、見た限りあんたの技量じゃ、あそこの魔物と対峙した時点で死が確定する。
たくさんの冒険者がいるからって、あの場所をなめてるんじゃないか?」
それはただの忠告だ。
知らずに吐ける台詞ではない。知らずに吐いていい言葉ではない。
つまり、ジンは、知っているのだ。迷宮の惨状を。
「もしかして、入ったことがあるのか? 迷宮に」
「あるよ。魔術師協会が本格的に乗り出した後だけど。いや、凄かった。鍛え抜かれた元騎士団の六人が、一時間でボロボロになっちまう。確かに当時公開されてた幾つかの情報で死人や再起不能だけは避けられたけど、それは相応の実力があったからだ。
俺と大差ない実力しかないあんたじゃ、一人で潜れば死ぬ。忘れてるかもしれないが、今現在でも第一階層で死ぬ奴は後を絶たないんだぜ? 第二階層なんて、攻略法を確立できた連中以外は全滅する場所らしいし」
苦笑と自嘲を同時にするという器用な芸当をしながら、ジンは独白するように言う。
そんな彼を見て、クレールは剣を強く握りしめた。
「……手合わせを願いたい」
「いいよ。今の俺では一人じゃ死ぬ、それがどれくらいか見せてやる」
言って、ジンとクレールは同時に動き出した。
構えのない自然体のジンと、教科書通りに正眼の構えを取るクレール。これは二人が身を置いてきた環境の違いを意味する。
先手を取るのはクレールだ。ただ真っ直ぐに、しかし最速最短の軌道で以ってジンを断たんと剣が走る。
教科書通り、とはこのことだ。間違いではない。教科書は基礎であり、奥義。それを極めた者はそれ一つで天下を取れる。だが、極めるに至らねば意味はない。教科書には対応策まで載っているのだから。
真っ直ぐに振り下ろされる剣を払い、返す刀で袈裟切りにする。後の先。そう簡単に防げるものではない。これが熟練者同士ならばここで終わっていただろう。
だが、彼らはまだ未熟。有無を言わせぬ剣速も、切り返しの速さも持っていない。
後の先を取られる前にクレールも体勢を立て直し、剣に剣をぶつける。しかし鍔競ることはなく、互いに距離を取った。
ここで手を休めるのならば、迷宮に潜る資格などない。ジンは即座に大地を蹴り、上段から強烈な一撃を放つ。
受けられることを前提とした攻撃、受けやすい軌道で放たれた一撃。避けられることさえも、念頭に置いている。
ジンの攻撃から気迫を読み取ったクレールは、あえてその攻撃を受ける。剣の腹に手を添え、剛剣を真っ向から受け止めた。
甲高い金属音が響く。今度は両者ともに離れない。渾身の押し合いが始まる。
これはただの試合だ。お互いの実力を測るだけの試合。にもかかわらず、二人は全力で殺し合っている。
なにせ、使っているのは真剣だ。よく切れるよう整備されているし、そもそもこの二人なら刃引きしてあっても人体を切断できる技量がある。下手しなくとも、直撃すれば、死ぬ。
強引に剣を押し込もうとするジンと、それを何とか跳ね除けようとするクレール。両者は拮抗しているように見えて、実際には違う。
クレールは両手を使っているが、ジンはほぼ片手だ。右手一本で拮抗させているのだ。つまり、左手はある程度自由に動かせる。
その恐るべき事実にクレールは気付けていない。押し合いをすることに必死で、意識を向けられていないのだ。
つまり、この勝負は。
既に決着していると言ってもいい。
「震える風。伝える大気。砕けよ、砕けよ、砕けよ。衝波」
「!」
左手で印を切り、ジンは魔術を発動させる。
風属性の下級術。常人が全力で殴るぐらいの衝撃を対象に叩き込む魔術だ。致命的ではない。そう、普段ならば。
だが、この状況下でそんなものを叩き込まれれば、どうなるかは言うまでもない。
腹部に叩き込まれた衝撃に耐えかね、クレールが身を折る。そして、その体に剣が吸い込まれ――
不可視の障壁に阻まれ、硬質な音を響かせて弾かれた。
「誰だ!」
ジンは油断なく剣を構え直しながら振り向く。
そこにいたのは一人の帽子を被った少女。植物を思わせる緑色の髪を持つ幼い少女が、ジン達に手を向けて立っていた。
「そこまで、だよ。ただの試合、だよね?」
「……ああ。ありがとう。少し、熱くなりすぎてた」
少女、イーリスは蝶を肩に止めたまま二人に近寄る。その歩みは自然ではあるが、重心が正中線から動くことはない。サラの元での修練は、イーリスをその領域にまで引き上げていた。
自分達より幼い少女が相当な鍛錬を積んでいる、そのことはジンとクレールに警戒心を抱かせるに充分なものだった。
「大丈夫?」
しかし、一切の敵意を感じさせないイーリスを警戒し続けるというのは、彼らには困難だ。元より、イーリスに害意など一切ないのだから。
少々動揺しつつも、クレールはゆっくりと立ち上がる。尻もちをついているような状態だったため、尻を軽く払ってから軽くイーリスに頭を下げた。
「ああ、大丈夫。しかし、剣の試合だと思ってたら魔術が飛んでくるとは」
「そんなもん、そっちが勝手に勘違いしただけだろうに。こういうのは手札をある程度は切らないと試験にならんだろ」
「それもそう、なのか?」
「え、どうよ。班決めの試験の結果は」
ジンの言葉に、クレールが少し考え込むようなしぐさをする。
正直な話、ジンの戦闘能力――機転を利かせることを含めた実戦能力はクレールを上回っていることが分かった。一人だったクレールにとっては望むべくもない相手だ。
が、即座に返答するのも安く見られそうで嫌なのは事実。なので、十秒ほど迷う仕草を見せた後、クレールは答えた。
「いいよ。むしろ、こっちからお願いする。君の能力なら、問題なんて全くない」
「そりゃどうも」
言い合い、がっちりと握手するジンとクレール。
そんな彼らをぼけーっと見ていたイーリスは、ハッと気付いたように口元を押さえた。――正確に言うのなら、今まで散々オリオールに言われていたことを、今になって思い出した、だが。
「あの、まだ、班の席って空いて、る?」
「へ? そりゃまぁ、俺達、ようやく二人組になったところだし」
「もしかして、君も一人なのか?」
訝しげな二人の言葉に、イーリスは恥ずかしそうに頷く。
それを見たジンとクレールは、顔を見合わせた後、ニィと笑った。
「じゃあ、試験か」
「ああ。いっそ、納得いくまで模擬戦でもしようか。今度は負けないぞ」
「望むところだ。あ、嬢ちゃんは武器持ってるか?」
「う、うん」
急に調子を上げだした二人にちょっと驚きながらも、イーリスは腰の鞘から剣を抜き出す。双剣。逆手持ちの二刀流だ。
「いいね。面白そうだ。まず、どの組み合わせでやるよ」
「そりゃジン、君と……あ、名前、なんていうんだ?」
それは、始まりだ。
今までサラの庇護下で籠の中の鳥であったイーリスにとっての、最初の一歩。
籠から出て、羽ばたくための。サラに並び立つための。
この世界で人として生きる、その一歩目を踏み出した。
「イーリス、だよ。家名はなくて、イーリスだけ」
「そうか、良い名前だ。んじゃ、俺とイーリスが始めだ。ジャッジ、頼むぜ」
「ああ。存分に楽しめ」
「うん、楽しませてね?」
そして、再び剣の共演が始まった。