第二十話
意識を取り戻したサラは、久しぶりに訓練室で自分を見つめ直していた。
僅かな光さえ差し込まない完全な闇の中、一切の外界からの情報を断ち、自分の内へ内へと沈み込んでいく。恐ろしく深い域の瞑想だ。
自分自身の魂の記憶、血の系譜をたどる危険な行為。意識という大海へと自分自身を果てしなく沈める。それは素潜りで深海を目指すのと変わらない。限りない自問自答と、つい先日体験した死の息遣いがサラの正気を蝕んでいく。常人ではここまで深く自分を沈めることは出来ないだろう。
先のマンティコアとの戦闘は倒すことは出来たものの、実質的には敗北だ。神器を用い、己の積み重ねた全てを以ってしても敗れた。サラが倒せたのは己の体に流れる血と、一族として継ぎ、代を追うごとに重ねられてきた呪刻の力のおかげに他ならない。制御しきれない力で倒したというのは、それはつまりマンティコアと次に戦ったとしても勝てるとは言えないということになる。
今、サラが思うのはせめて一人でも一族の大人が生き残っていてくれたら、ということだ。セイファートの一族が己らの力を発揮し尽くすために編み出してきた数々の秘儀秘法は、全て一族以外には伝わっていない。サラも実家に存在した書物は全て読破しているが、そのほとんど九割九分九厘までがさわりの部分を口伝としている。実際に見て、失敗して、どこがダメかを教えてもらって初めて使えるようになる類の技術なのだ。
だが、一族の判断を責めることは出来ない。当時の状況を鑑みれば、僅かな戦力を残すことさえ出来なかったのが理解できてしまうからだ。歴代でも最強に近いと誉れ高かったサラの父親が、一族最強の神器の力を極限まで絞り尽くしても足止めにしかならなかったという次元の違う相手。放つ魔術の全てが都市や山を破壊できるような、まさに神代の存在が敵だったのだ。よくもまあ相打ちに持ち込めたものだ、と感心してしまう。とはいえ、完全に滅することは出来ず、今もなお『森羅の魔王』ゼイヘムトは魂のみで生存しているのだが。サラも一度だが接触を持ったことがある。通信術式越しで、しかも全魔力の九割以上を失っている状態でなお凄まじい存在感を持つゼイヘムトに圧倒されてしまったが。
サラが今、瞑想で自分の奥底深くまで潜っているのはそんなゼイヘムトとの戦いで失われた、セイファートの技術を発掘するためだ。サラがセイファートの技術を目に出来たのは僅か五歳の時まで。そして、習得できているのは僅か一系統の魔術のみ。セイファート家の正嫡として自分の呪刻を解放することぐらいはできるが、それ以上を望めないサラは一縷の希望にすがるかのように自分の源流へと、技を求める。
セイファートの業は何代も何十代にも渡って磨かれてきたものだ。自分の血が、魂がそれを記憶している可能性は否定できない。僅かでもいいのだ。ほんの少しの取っ掛かり、それがあればどれだけ難しい工程でもこなすことは不可能ではない。どんな断崖絶壁でも、手を掛ける僅かな突起があるだけで上る希望が見えてくるのだから。
だが、サラがどれほどに深くまで潜っても手掛かりになりそうなものは見えてこない。いや、実際にはちゃんと見えているはずなのだ。見えているはずなのだが、サラが読んできた書物と同じくさわりの部分が霞んでぼやけている。
まるで、封印でも施されているかのように。――恐らく、これも血の因業だろう。セイファート一族の継いできたある程度以上の技術は肉体が伴っていなければ危険極まる。肉体を破壊しないための防衛機能だ。
これではどれだけ深く潜っても一緒だ、とサラは諦めて、一度意識を浮上させる。
真っ暗な空間で、サラは一度ため息をつく。
もっと力が必要だ。正確には、この暴れ馬のような魔力を全開で振るっても肉体を傷つけないだけの技術が。練磨し尽くした技術が必要だ。
マンティコアの用いていた技術は非常に優秀な手本だ。だが、あれらは元々強靭な肉体を持っているマンティコアに最適化された技術のため、サラがそのまま用いることは出来ない。自分の体を実験台にしてある程度の期間を使って、人間に使える域まで質を落とす必要がある。
そこで、サラは一つ思いついた。ちょうど少し前にその存在のことを考えていたこともある。
サラの持つ魔力は現代の人間の枠を超えている。なら、その枠の外の存在に教えを請えばいいのだ。
たとえば、そうゼイヘムトのような強大な存在に。
「……まぁ、今それを考えても意味がありませんが」
軽く笑い、サラは三日後まで迫る決闘のことへと意識を移す。
十中八九で相手はあのイャルの助力を得ている。下手をすれば『覚醒』または『加護』を得た状態の相手と戦闘を行うことになるだろう。嘘をつかないというイャルは『覚醒』と『加護』があれば、今の人間でも迷宮を攻略することが可能となる、と言った。つまり、最低でも一部隊でサラに匹敵するだけの戦力に至るということだろう。下手をすれば単騎でサラと戦えるだけの力を得る可能性もある。
勝てるのだろうか。
果たし状という形で冒険者協会に届けられた、サラへの決闘申し込み。どこの馬鹿かは調べるまでもなく、果たし状に書いてあった。この街の教会を代表する高司祭だ。ただ、高司祭は事前に本国へと辞表を送っており、後任への仕事の引き継ぎなどを完全に終えた上で、個人として決闘を挑んできている。
個人として挑まれている以上、サラが、セイファートの嫡子が断るわけにもいかない。そもそも、決闘を断ったり、行かなかったら街へと襲撃を掛けるなどという物騒な文言が付記されていた。受けないわけにはいかない。
だが、受けることと勝ち負けは別だ。サラが勝てるかどうか、というと正直なところ完全に分からない。相手が何も対策せずに真正面から来てくれるのなら絶対に勝てると断言できるが、高司祭まで上り詰めたような人物がそんな愚を犯すはずがない。
勝算があるから、挑む。これは当然のことだ。
なら、その想定を超えることが第一となる。
一応、サラは相手が人間ならばどれだけ強かろうと確実に殺せる魔術を習得している。現代の人間なら、魔族、神族、人族、龍族、高位精霊、獣人、エルフ、ドワーフその他、一切をどんな強固な守りに包まれていたとしても一瞬で細切れに変えることは可能だ。それがサラが唯一使えるセイファートとしての魔術なのだから。
しかし、サラは今回その魔術を使うことを己に禁じている。人間が人間として決闘を挑んできているのに、古代の魔族や神族などの常識を超えた存在に対抗するための魔術を使うなどあってはいけないことだ。ついでに言うなら、同じ理由で神器も使えない。神器はあくまでも人間が越えられない脅威を排除するための手段に過ぎないのだから。
勝てるかは分からない。だが、勝たなければならない。
以前のサラと違い、今は守りたいと、一緒にいたいと思える存在がいる。それにこの迷宮の奥底に眠る存在はセイファートが討ち果たすべき存在だ。こんなところで死んでいては、話にもならない。
――なら、禁じ手を使うべきか。
サラの周辺の空間が、その瞬間に間違いなく凍りついた。
それは殺気。純粋で濃密な、それだけで生物非生物を問わず絶命に至らしめるほどの。
『金色の颶風』とは呪刻解放時にサラが描く軌跡のみを指すのではない。もう一つ、サラが独自に編み出したとある魔術系統のことをも指す。一族の力とはまた別の、忌まれるべき力。あまりにも多くを殺してきたがために身に付いてしまった、呪いと全く変わらない性質の魔術だ。
迷宮内の魔物には一切通じないし、迷宮の奥にいる古い魔族神族は心身ともに鍛え抜かれているために通じないため、迷宮内ではまるで役に立たないが、人間相手ならばこれ以上なくよく効く類の術。
暗い笑みを浮かべるサラ。
今の彼女を見ることが出来る存在がいたら気付いただろう。
普段は青いサラの瞳が、まるで月のように金色に――
イーリスが拳を前に突き出す。
その速度、練度は練習の期間からすれば瞠目すべきものだ。しっかりと体重が乗っており、威力も年齢を考えれば充分以上と言える。
だが、それでは不十分。サラと共に迷宮を潜ろうと思うのなら、この程度では軽すぎる。
必死で頑張ってはいるものの、サラという壁はあまりにも大きい。肉体の強度、魔力の大きさを置いておいたとしても、サラが積み上げてきた鍛錬の量とそれに裏打ちされた技術は常識の埒外だ。短い期間で追いつくことなどできるはずもない。
ほんの少しとはいえ修練を積み、イーリスはようやくそのことを理解できてきた。
「でも、追いつかないと。少しでも早く、追いつかないと……!」
『無茶はだめぇ。サラちゃんの域に辿り着くのは並大抵のことじゃ無理だもの。焦る気持ちは分かるけど、今無理をし過ぎたら、逆にサラちゃんに心配かけちゃうよぉ?』
「でも、だって、だってっ……お姉ちゃん、あんなに、あんなにぃっ! ぼろ、ぼろに、なって、もう、わたし、もう……」
膝からくずおれ、イーリスは涙をこぼして地面を叩く。
サラが第六階層から帰還して二日、イーリスはほとんど泣きっぱなしだ。泣きはらした顔はとても人に見せられるものではない。しかし、家の中にいることは出来ない。サラの血の匂いが未だに消えない家の中にいると、本当に涙が止まらないからだ。
イーリスの心を苛むのはサラの痛ましい姿だけではない。どれだけ傷ついても一切の弱音を吐かず、自分の体すら顧みずに前を見続けるサラの姿勢も、イーリスを苦しめる。
鋼のような、という言葉では足りないほどの頑強すぎる精神。一体どんな経験を積めばあの域に至れるというのか。ついでとばかりに、また数日後には下手をしたら勝てない相手と決闘するという。間違いなく万全の状態で戦うことは出来ないのに、日程を伸ばす申し出さえせず、唯々諾々とサラはその決闘を受けて立っている。
わざわざ自分を死地へ死地へと追いやっているようさえ見えてしまう。地獄こそが自分の居場所だと、そう言っているように見えてしまうのだ。
そんなことはないはずだ、とイーリスはその思考を振り払おうとする。一緒に食事をしているときや、遊んでいるときにはサラも本当に楽しそうにしているのだ。
そう。何かを噛み締めるように、心に刻みつけるかのように。
――今まで、そんな生活をしたことがないかのように。
涙が、零れ落ちる。
どうして、とイーリスは問う。答える者の存在しない問いは、ただ空気に溶けて消えてしまった。
オリオールは考察する。サラと言う少女のことを。
イーリスとは違い、永き時を生きてきたオリオールにとってもサラのような存在は希有ではあるが、しかし皆無ではない。地獄の業火で自らを鍛え上げ、誰かを守ろうとする者。それはあまり多くはないうえ、大体は短命だ。
理由は簡単。自分の身の優先順位が低く、何かを守るために命を投げ出してしまうからだ。少し調べたが、サラの一族は十年前に総出で魔王に挑んで死んだという。サラ以外に一人でも残しておけば、今のような惨状はなかっただろう。それでも全員で出なければいけない事情があったのだろうが、それをさておいても一人も残さず全滅というのは普通ではない。
しかも、驚愕すべきはサラ自身、その結果に特に不満を抱いていないということだ。問いをぶつけた時は、むしろ当然という顔をしていた。
そう、つまりサラの一族は根本的に自分達の保身というものが欠けているのだ。恐らくは自分達という小が消えても、他の大が生きるのならそれで構わないという思想なのだろう。永い時間を、何十代もの世代を掛けて築き上げた超絶の技術や魔術でさえも、受け継がせることが出来ないならそれで構わないとでも思っていたのだろう。いや、サラならば僅かな情報からでも自分達の築き上げた域にまで自力で到達できると思っていたのか。
オリオールの見立てでは、サラは今、壁にぶつかっている。しかし、誰かに頼ろうなどとは考えていないようだ。誰かに力の使い方を教えてもらおうというぐらいは考えていても、他の誰かに任せればいいなどとは考えていない。あくまでも何かをするのはサラ自身で、他に手伝ってもらうのは準備までという感じか。
危険な考え方だ。それはつまり自分以外を不要とみなしているに等しいのだから。加えて、サラは自分のしていることがどれほどに重大かを理解していない。公式には発表されていないとはいえ、サラは他のどの勢力よりも圧倒的に早く迷宮を攻略している。人の口に戸は立てられないため、必ず彼女の功績に言及してしまうものは出てくるだろう。いや、もう冒険者の中では噂になっているきらいがある。
迷宮で名を上げようとしている者にとって、サラという存在は果てしなく大きな壁となる。決して敵わない差を見せつけられ続ける、それは心に闇を住まわせる原因となりかねない。多くの騎士団は名より実を取ることを優先し、着実に前へと進んでいるが、サラを排除しようとする動きもまた存在する。
その最たるものが今回、サラに決闘を挑んできた者達だ。古くから続く国であり、自分達が最も進んでいなければならない、という信念がサラとの決闘を選ばせた。
彼らは私情で決闘を申し込んできたわけではなく、あくまでも国への忠誠などの滅私の精神が底にあるため、わざわざ決闘などという正々堂々としたやり方をしている。汚いやり方を選べない立場で、また自分達がどれほどの覚悟を持っているかを周囲に示すための行い。潔いと言ってもいいだろう。
だが、次にサラを襲撃するものがこんな潔癖なやり方をしてくれるとは限らない。奇襲、毒殺などを当たり前に仕掛けてくるはずだ。下手をすれば迷宮内で、疲弊した瞬間を狙ってくることも考えられる。
サラが誰かと組んで潜ればそういう心配は小さくなるのだが、サラと同等の速度で迷宮攻略できるものなど考えられない。サラが一人でも圧倒的な速度で潜れているのは、桁外れの持久力を背景にするからだ。サラにとって低出力での魔術行使なら、戦闘しながらでも魔力を回復できるうえ、基礎体力も生半可なものではない。そんな化け物についていける存在など、そうはいないだろう。
なら――
『あたしが、一緒に潜れば……』
いいのだ。
だが、それには一つ大きな問題が立ちふさがる。オリオールの種族であるフェルミエールとは妖精と精霊と魔物を混ぜたような存在で、各々で特化させたもののほかに微弱ながら様々な能力を持つ。また、かなり希少な種であるため、偽装できるようになるまでは一緒に行くことは出来ない。
それは、つまり『覚醒』や『加護』による他の冒険者の強化が行われればいいということだ。詳細を語る役はオリオールではないため、何も伝えることは出来ない。伝えるのは、導くのはディルの役目だ。古い神族の中でも天使と呼ばれる種の彼女は、何かを誰かを導くことに特化している。試練を与え、それに見合った報酬を授けるのだ。
オリオールは歯がゆさに身を震わせる。オリオールを含む迷宮内で眠りについた存在は、例外なく全てを知っている。だが、それを語れるのは役目を背負ったものだけだ。かつて迷宮で眠りにつくときに、迷宮を創造した神がそう決めたのだから。
今はまだ蝶の姿から本来の姿へと戻ることを許されないオリオールは、自らの非力さを呪う。サラが自力でこの窮地を乗り越えなければ、手を貸すことも出来ないのだ。
未だ泣き続けるイーリスの声を聞きながら、オリオールも気分を沈ませる。
いつになく暗い雰囲気が、彼女たちの家を包み込む。
それを吹き散らす風は、まだ来ない。