第十七話
ある日の酒場で、いくつかの冒険者部隊が集まって酒を酌み交わしていた。酒を飲める者、飲めない者、酒より食べる派などに分かれてはいるが、大枠で見れば同じまとまりで歓談している。
冒険者は基本的に五から七人ほどの少人数部隊で動くことが多いが、たまにこうして大人数になることがある。大体は大物の獲物を狙ったりする時だ。今回集まったのは食肉として人気のある鎧猪や質のいい毛皮とやはり肉の美味い黒毛羊を仕留めるためで、首尾よく狙い以上の獲物を手にすることが出来たため、祝賀の宴会が開かれたのである。
ちらほらと一般の冒険者だけでなく騎士や魔術師の姿も見えるのは、今回の作戦を行った人物の人脈の広さを示す。随分と顔の広い人物なのだろう。
「いやー、魔術師協会から一部隊五人参加してくれて助かったわ。鎧猪は弓効かないからなぁ」
「えらい速さで突進してくる上に、鋼鉄級の固さの甲殻だもん。平気で受け止めてた騎士様にも万歳だわ」
「それを言うなら黒毛羊を追い込むあんたらの連携も見事だったぜ? 羊を仕留めたのは魔道具だよな。毛皮を汚さずに仕留めるとか、神業だろう」
「騎士様に言われると照れるなぁ」
ワイワイと和やかに宴会は進む。今回仕留めた獲物は鎧猪六頭、黒毛羊七頭で、その肉や甲殻、羊毛で得ることの出来る金額は彼ら全員で分けても半年は遊んで暮らせるほどになる。また、自分達で使う分の武具の素材を確保しても充分以上に他の冒険者にも大きな恩恵がもたらされるほどの大収穫。今晩のこの酒場の代金は全部彼らが支払う大盤振る舞いだ。
贅沢をあまりしない騎士達も今日ばかりはハメを外す。目的を同じくして死線を越えたのだ、遠慮するのは逆に失礼なのだから。
「うーん、そういえば今ここには結構色んな国や地域から集まってる連中がいるよな。みんなが知ってる一番強え奴って誰なんだろ」
そんな中、酔った男がぽつりとそんなことを漏らした。
男はあまり気にすることなく言ったのだろう。だが、周囲の反応は非常に大きかった。
「一番! そりゃまずラウドラントの聖騎士長じゃねぇか? なんと言っても竜殺し! 竜の山を単騎で超える強さは凄すぎるだろ」
「ばっか、おめえ。んなもん、帝国の親衛隊隊長もアレだろ。百を超えるオーガを一人で殺し尽くした腕前に勝てるかよ」
「いやいや、うちの『雷帝』が一番だ。何せ、美談付きだぜ? 没落した貴族の令嬢や使用人を守るために万の軍勢と大立ち回り! 一人も殺さず、三日三晩戦い抜いたってんだから」
喧々諤々と一人の思い付きから始まった話が周囲に波紋を広げていく。
話が白熱していくが、殴り合いなどは起こらず、平和に話は進む。
そして、やはり誰かが呟く。この手の話題で、荒くれが集まっているならば必ず到達する疑問へと。
「じゃあ、あれだ。この街で、今誰が一番強いんだろうな」
第四階層、それは燃えるような赤が特徴の紅葉の樹海だ。
季節でたとえるなら秋というべきか。圧倒的なまでの実り、恐るべきほどの多種多様な果実が存在し、第四階層全体を踏破したサラでさえも把握できていない種類は数多く存在する。そう、第三階層の『動く山』を打倒しえた者にとってはご褒美のような場所だ。
だが、良いことばかりではない。当然、実りが多ければそれを喰らって魔物も強くなる。そして、この階層の守護者は恐るべきことに特定の守護領域を持たない。そう、この第四階層の守護者との戦闘は常に遭遇戦。今までのように準備を整えて撃破するということが出来ないのだ。
そして、その第四階層の最後、第五階層へと続く階段の前にサラは立っていた。
ここまで徹底的に戦闘を避け、余計な力を消費せず、第五階層へと到達するために。
「……分かります。この先に、わたくしが経験したことのない圧倒的な敵がいることが。距離が大きく離れているはずなのに、感じ取れてしまうほどに絶大な力の持ち主。これが、上級魔族。これが、この第一層の真の主……」
思わず、サラはごくりと唾を飲み下す。
恐らく、力の量だけなら『動く山』よりも遥か下だろう。当然のことだ。大地に流れるはずの地脈さえも体内に宿す『動く山』は個としての力の総量はサラの数十倍以上だ。
しかし、質は別。感じ取れる力の質、密度は『動く山』が塵以下に思えるほどだ。『動く山』の怖さが桁外れの持久力だとするならば、この気配の持ち主の怖さは絶対的なまでの瞬発力。階段を一歩降りたら、百分の一秒でも気を抜くだけで死ぬ。
体が震える。寒さではない。サラにとっては久しく覚えることのなかった感情によるもの。
すなわち、恐怖。
心臓を握りつぶされるような迫力。このまま回れ右して帰りたくなるような、それほどまでの力だ。
帰還して、報告しても怒られるようなことはないだろう。いや、サラぐらいの少女がこんな地に挑む方が間違っている。家で大人しくしていても、誰も何も言わない。
――そう、誰も、何も責めたりなどしない。
だから。
サラは。サラ・セイファートは。
足を、前へと踏み出す。迷いなく、躊躇なく、真っ直ぐに。
サラは既に決めている。決意している。
セイファートの一族に生まれた者として。己らで行ってきた千年以上の交配による人間兵器、その最高傑作として。
『守る者』として。
この先に人類の脅威が存在するのなら、それを排除するのが自分の役割だと。
誰に言われるでもなく、血に従うのでもなく、精神干渉によるのでもなく。
誰でもない、自分自身がそう決めたのだ。
そう、だから進むのだ。強い敵がいるのなら、真っ向から打ち砕けばいい。それだけの力がサラにはある。
魔術師協会協会長直属、十二使徒『金色の颶風』サラ・セイファートには、まだ誰にも見せていない、開けていない領域が存在するのだから。
長い長い階段を越える。
暗い階段の先に広がるのは、新緑の緑。第一階層を彷彿とさせる、美しい緑だ。
その中で最も目を引くのは中央に座す巨大極まる大樹だろう。その高さは巨大を誇る『動く山』さえ小さく見えるほど。
第一層千変の樹海、その最後を飾るに相応しい威容である。
そして、第五階層の構造もそれまでとは一線を画す。今までは迷いやすく作られていたが、ここは迷うことがあり得ない。真っ直ぐ行けば階段があるのだ。そう、大樹の根元に階段がある。
下へ行くだけなら、何よりも簡単な階層と言えるだろう。ただし、番人がいなければの話だが。
大樹の根元、階段の前にそれは存在する。
オオカミのような、しかし全身の至る所に鎧のような甲殻を纏った大きな獣。細身で黒と灰の縞模様が特徴と言えるだろう。小屋くらいの大きさがあるが、鈍重な印象などかけらもない。
まるで騎士であるかのように毅然として、それは直立してサラを見据えている。まだ大分距離が離れているにもかかわらず、サラから目を離すことはない。
サラも既に戦闘の準備を終えている。神器『砕くもの』を携え、自己魔力を活性化させる。支配領域を徐々に広げ、いつでも、どんな魔術でも使えるようにしていく。
近くまで行くと、その獣がサラに向けて口を開いた。ただ、口で話すわけではない。念話による思念伝達だ。
『小さきものよ。何故、ここへ挑む?』
「第一に、分からないからです。分からないものは怖いです。だから、それを解くために。第二に、ここには多くの物があります。地上には存在しない様々なものが。だから、それが欲しいのですよ。誰しも強欲なのですよ。
そして、最後に」
『最後に、なんだね?』
「災厄が眠っているそうなので。その災厄を討ち滅ぼすために」
『――なるほど。小さきものよ、お前は我らが主の敵か。我らが主が目覚め、世界を手にするのを阻むものか』
「そうです。何千年も前の遺物が、地上を征服しようとは笑止千万。わたくしが滅してくれます」
『クハ、クハハハハハハッ! よかろう、我が敵よ。美しき敵よ。貴様の喉笛食い破り、我らが主復活のための贄としてくれよう。それを、貴様は望んだのだッ!』
ザリ、と大地を踏みしめ、獣は凄まじい魔力を解き放つ。桁外れに高い質の魔力。それが一切の無駄なく獣の肉体を包み、元々人智を超えているであろう身体能力を更に上昇させていく。
『我は魔獣の王! マンティコア・ジェヴォーダンである!』
言うと同時に、凄まじい咆哮が階層全体を揺らす。
特別な効果のあるものではない。だが、その咆哮は物理的な圧力で周囲を根こそぎ吹き飛ばす。
サラも負けてはいない。戦鎚を振るって咆哮を破砕し、全身を魔力で満たしながら言い返す。
「わたくしはサラ・セイファート。全てを打ち砕いて進んで見せます!」
そこからは、最早言葉などない。
桁外れの速度と膂力で繰り出される前足による叩き付け。爪など必要ない。凄まじい頑強さを誇る前足とその甲殻の重量は、相手が竜種であろうと問題なく粉砕するだろう。人間などかすっただけでも挽き肉と化す。
だが、サラはそれを避けることなく真っ向から打ち返す。超重量の戦鎚とサラの戦闘技術ならば、不可能ではない!
甲高い金属音と共に、猛烈な衝撃波が互いを吹き飛ばす。木の葉のように吹き飛ばされるサラだが、しかし空中に足場を形成することで即座に体勢を立て直し、再び突っ込む。
一撃必殺。雷光の如き速度で突っ込み、最強の一撃を叩き込のだ。
そう、相手が並の相手ならば、中級魔族程度が相手ならばそれも可能だっただろう。しかし、相手は上級魔族。それも戦闘能力に完全特化した存在だ。冷静に、冷徹に、呆れるほどの判断力は常に十手、二十手先を読み続ける。
マンティコアは吐息と間違うほどの小さな吠声を上げ、猛烈な数の魔弾を作り上げた。その数、二百強。一発一発が必殺に近い威力を誇るという次元違いの業だ。
当然、サラと言えども障壁に任せるなら防ぎきることなど不可能。そして、回避を許してくれるような相手でもない。
舌打ちし、サラは自分も最速で同等の強さの魔弾を作り上げる。流石に数は劣る。幾らサラが強いとはいえ、その器は人間の少女なのだ。一瞬で引き出せる魔力は、鍛え抜かれた上級魔族には二歩も三歩も劣る。
作り出せた魔弾は七十が限界。全てを相殺することは不可能。まだ障壁ごとサラを殺して余りある数だ。それでもサラは前へと進む。
僅かにサラの速度が遅くなったところで、マンティコアは迎撃態勢を整える。魔弾を飛ばすと同時に魔力を四肢の爪へと集中し、バク転するようにしながら四肢を振り回すことで不可視の刃を飛ばす。
防御、回避不可能の連続攻撃。加え、それらを突破することを見越してマンティコア本体が後詰として必殺の瞬間を狙い澄ます。
一秒後の死がそこにある。この一秒、生き残ることなど出来はしない。
死、それは確定事項である。サラがいかに強かろうと、所詮は人間なのだから。
「それが――」
古代の血が薄まり、大気中の魔力が減少した現代の人間では死ぬ以外にはない。
そう、それが運命だ。
しかし。だが、しかし。
「――どうしたッ!」
魔弾と障壁で稼いだ一瞬で、サラは戦鎚に魔力を込め、全てを打ち砕く。
飛翔する魔弾も、襲い来る不可視の刃もまとめて一撃で。
サラは運命さえも砕いて進む。そうとも、その手にある物こそが神器『砕くもの』。破壊神――全てを腕力のみで打ち砕いてきた存在の半身たる戦鎚を模したものだ。
死の運命如き、打ち砕けずして何が神器か。何が『砕くもの』か。
そうとも、人間とは滅びの運命を幾度となく乗り越えてきた存在なのだから。
『ッ!?』
マンティコアが見せた一瞬の隙。それを突き、サラは一気に距離を詰める。
一挙手一投足の距離。お互いの身体能力ならば全てを必殺と出来る間合いだ。
この距離で小細工など不要。どちらが速いか、どちらの一撃が重いのか。それが全てとなる。
開幕の口火を切るのはサラだ。一歩踏み出すと同じくして繰り出される横薙ぎ。それに対し、マンティコアは一直線の体当たりで応じた。
見た目よりも遥かに重量のあるマンティコアの体当たり、それがサラに接触するより僅か一瞬早く戦鎚がその体を打ち据える。
その一撃の重さは以前にグレンデルの悪魔を粉砕したものと同じかそれ以上。自己魔力の活性化を行ったサラの強化魔術は平常時とは比べ物にならないほどに全能力を向上させるのだ。
生半可な存在ならば一撃でその肉体を消失させるだろう。耐えられる存在など、考えられない。
そう、そのはずなのに。
マンティコアは、その一撃を苦にすることさえなく突き進みサラを彼方へと吹き飛ばした。
瞬時に展開した七層の強力な防御障壁など硝子よりも脆く崩れ去り、サラの肉体に多大な損傷を与える。
空中を吹き飛ばされつつも、サラは己の状況を把握する。胸骨粉砕、肋骨が七本完全骨折し内三本が肺を突き破っている。臓器にはそれ以上の損傷はないが、鎖骨、上腕などの広範囲に渡って骨折と筋肉断裂、および裂傷が広がっているのだ。
即死しなかったのが奇跡。否、サラ以外ならば完全に即死していただろう。だが、あの戦鎚の一撃が僅かにマンティコアの勢いを弱め、軌道を逸らしていたのだ。
通常ならばこの時点で生きることを諦める。それが普通。肉体に頼る現代の人間である限り、最早死のみが現実だ。
それでも、サラの頭に諦めるなどという言葉はない。
今まで絶対に使わなかった魔力回復用の内在魔力の封印を即座に解放する。それはサラの総魔力の七割。単純に解放するだけで肉体的に未熟なサラを蝕むほどに濃密で莫大な魔力だ。その全てを肉体の復元へと回す。なに、サラの一族はこういった強すぎる存在を滅するために千年以上もの時を費やして己らを人間兵器へと変えてきたのだ。この程度、苦境の内にも入らない。
吹き飛ばされ、大地に着く前にサラは全身の復元を完了し、残る魔力を自身の強化に充てる。その強化度合いは人類の耐えきれる段階を遥かに超え、サラの肉体さえ破壊しかねない諸刃の剣だ。
だが、そこまでしなければ勝てない相手である。今までの相手とは根本的に次元の違う存在なのだ。ここで仕留めなければ、もしも外にこれほどの暴力を出してしまったら、一体どれほどの被害が出るか分からない。
『ほう、耐えるか。だが、分かっただろう。我が力が。何故退かぬ? 我は我らが主の目覚めまでここを護る者。御方の目覚めまではここを動くことなどないというのに』
声で話しているのではないため、マンティコアの念話はかなり距離を隔てたサラにもはっきりと届く。
確かに肉体の強度ではマンティコアとサラでは比較にさえならない。そもそも素の肉体強度が違いすぎるため、強化の倍率が同じでは絶対に及ばないのだ。今でもサラは頑張っている方だが、それでもまだ足りない。
古の魔族、真なる魔族とはそれほどまでに強い。現行人類の中では規格外の強さを持つサラでさえも死闘を強いられるほどに。
あるいは一度ここから退却し、鍛錬を積んでからもう一度挑むのも手だろう。恐らく、それが最も正しい。
しかし、サラはそんな甘えた考えを鼻で笑う。
一度でも逃げた者は、逃げ場を得た者は、同じ状況になればまた逃げる。“逃げてもいいのだ”という思考が頭の片隅にこべりつく。
それでは駄目だ。この先にマンティコア以上の強さを持つ存在がいないと誰に分かる。そもそも、太古の人々が神に頼るほかなかったような存在がこの程度であるわけがない。このマンティコアは災厄とやらの手駒で最弱だと考えるべきだ。
なら、こんなところで退いてどうする。笑いながら倒せずして、どうして最奥まで進めようか。
「――不退転。それがわたくし達一族の合言葉です。敵の強さに屈して、どうするというのです。相手がどれほどに強かったとしても、それに挑まずして何が人間ですか。
戦うからには必ず勝敗を決します。わたくし達の辞典に、逃亡などという言葉はありません。やるからには玉砕か、勝利。それ以外は不要です」
静かにサラは敵を睨む。
その体から発せられる闘志は時を追うごとに強く、鋭くなっていく。
だから、というわけではないだろうが、マンティコアは一度大きく遠吠えをする。何とも機嫌良さそうに、地上まで届きそうなほどの遠吠えを。
『ハッハッハ、失礼した。いや、本当に無礼を働いていたようだ。あまりにも幼いが故、貴殿を敵として見ていなかった。ただ強さを持つだけの子供だと侮っていた。この無礼を許してほしい。
貴殿は戦士だ。つわものだ。認めよう、貴殿は強い。だから――』
言いながら、マンティコアは僅かに前傾姿勢を取る。
ただ、それだけで。
物理的な圧力かと見紛うような威圧感が放たれた。
『全霊をもって御相手仕ろう。我は上級魔族――その中でも階級越えをなせしもの。我こそが『鎧獣騎』マンティコア・ジェヴォーダンである!』
それが本当の意味での名乗りか。
底知れない桁外れの強さ。思わず身震いしてしまうほどに凄まじい迫力。
そう、今からが本当の勝負だ。先ほどまでの小競り合いなど、ただのじゃれ合いに過ぎない。
確実な死を前に、サラはしかし笑うのみ。
どれほどの窮地であったとしても。相手がどれほどに強かったとしても。それを理由にサラが退くことなどありえないのだから。
「行きます」
ただ、そんな一言を残し、サラは絶望へと駆けだした。