第十五話
第一階層を夏、第二階層を春の森だとするならば第三階層は冬の森だ。全ての木々が枯れ果て、申し訳程度の背の高い草が緑を添えるだけに過ぎない。
死の森、とでも言えば恰好が付くだろうか。魔物の数も第一、第二階層とは比較にならないほど少なく、弱い。鉱物類は豊富に存在するが、それぐらいだ。踏破のみを目的とするなら、これ以上なく簡単に見える階層である。
だが、勘違いしてはいけない。それは単純に魔物などの存在が不要だというだけに過ぎない。何故ならば、この階層には他を不要とするだけの守り手が存在するのだから。
山と見紛うほどの巨大さを誇る亀。甲羅のしわに見える模様は一つ一つの全てが超高密度の魔法陣であり、体内に地脈さえもを備える移動要塞。それがこの第一層千変の樹海の最強の守護者、『動く山』である。
ただ歩く一歩が既に攻城兵器を遥か超越した破壊力を持つ。地上に出ることがあれば、それはもう一国で対処できる段階を越えている。この巨大亀を越える生物は伝説にある魔界の魔物のベヒーモスやミズガルズオルム以外にはないだろう。
そんな絶望的な戦闘能力を有する存在と対峙するのはちっぽけな人間だ。
金の髪を風に揺らす、美しい少女。本来ならば家で読書でもしているのが似合いそうな、面立ちだ。だが、少女の目は静かな闘志で満ちており、その容姿とは裏腹に鉄火場を常の場とすることを示している。
着ているのは魔術師協会が戦闘服として指定している服の内の一つで、同色で揃えた頑強な革製の上着と綾織の下衣を合わせたものだ。上着は幾つかのボタンと革の帯を組み合わせて服を固定し、動きを阻害しないように作られている。上下ともに関節部が複合素材で補強されており、見るからに近接戦闘を主軸に据えた構造になっている。また、革や布で出来ているが、着用者本人が自分に合わせた付与魔術を施しており、強度は鎧にも劣らない。
巨大な戦鎚を携えたサラ・セイファートは、二度目となる『動く山』との戦闘を前に戦意を高めていた。
この守護者達は彼らの守る領域に侵入さえしなければ襲ってくることはない。また、領域に入っても出れば襲ってこない。
それは逆に言うのなら、守護領域内に用があるのならば避けては通れない存在だということだ。
そして、この『動く山』の守護領域には第四階層へと続く階段が入っている。撃破しなければ、進むことは出来ない。
あと一歩でも前に出れば、サラは『動く山』の守護領域へと入ることになるだろう。怖気付いて帰るなら、もう今しかない。
苦笑し、サラは躊躇することなく、その一歩を踏み出す。
同時にサラへといくつもの魔術の照準が合わせられる。凄まじい数だ。恐らくは百を下らない。しかも、これはサラのいる地点を狙っているのではなく、サラという存在そのものを狙っているため、どう動いても必ず当ててくる。
故に、避けるのはただの無駄骨だ。サラはそれを前回の戦闘で嫌と言うほど思い知らされた。
獰猛な笑みを浮かべ、サラは次の一歩から凄まじい加速を始める。急激な肉体強化と、理想的な足場の作成、纏わりついてくる風圧の除去など、多様な術式を使い、ただ速度だけを求める。
『動く山』の恐ろしいところは他の守護者の数倍を誇る守護領域の広さであり、その射程距離だ。なんと『動く山』は実に二マイルも先から強力な魔術を連打してくるのである。その攻撃魔術の雨に晒されながら、どうやって距離を詰めるかが攻略の要だ。
サラが選んだのは最も愚かで、最も効果的な方法である。つまり、最速の疾走で一直線に距離を詰めることだ。
全ての障害物を無視し、ただ走る。しかし、サラの行方を阻むのは木々や草だけでなく、雨霰と降り注ぐ驚異的な数の攻撃魔術。それも種類は多岐に渡り、単純な火球、水弾、光球、風の刃、石の槍などばかりでなく、絡みついてくる蔦や視界を遮るように放たれる高熱の炎の幕、正確な位置へ設置される底なし沼、体力を急速に奪う闇などの嫌らしい魔術も多い。加えて、魔術的攻撃だけでなく、『動く山』の周囲に存在する石や岩、木の破片などを念動力で動かし、高速で飛ばしてくるものまである。
魔術防壁だけでなく、物理防壁まで同時展開することを強いられる難敵だ。サラでさえもこの『動く山』の攻撃を防ぐにはかなりの魔力を使う必要がある。一般的な魔術師では数十人がかりでも、五分も防ぎ続けられれば御の字だろう。
サラはある程度まで近付くと、今度は上を目指し始める。飛翔魔術の応用で空中に足場を作り、飛ぶよりも速く空を駆け上がっていく。
それを嫌がっているのか、『動く山』は凄まじい咆哮を上げながら攻撃を激しくする。火力や妨害だけではなく、『恐なる劣竜』の咆哮さえ超える凄まじい神経攻撃が混じり始めた。『恐なる劣竜』の咆哮を完全に無効化したサラでも、僅かに手足が痺れてくる。常人では咆哮の効果だけで即死しかねない。更に恐るべきことに、空中に移動した途端に一方向からの攻撃だけでなく四方八方全方位から飽和攻撃が加えられ始めた。
近付く速度が遅くなってしまうが、しかしサラは笑みを崩さない。
これほどに苛烈な対空迎撃能力を持っているのなら空中の敵などゆっくり始末すればいい物を、何を焦っているのか『動く山』は無意味とさえ言える超絶の火力をサラに、向けているからだ。それが何を意味するか、理解しているサラは全ての攻撃を障壁だけで防いでただ先を急ぐ。
サラも前回の戦闘で空中、それも高い高度ほど苛烈な攻撃を仕掛けられることは理解していた。その理由を考えたとき、サラはこの圧倒的に強すぎる守護者が第一階層などに存在する理由に思い至ったのだ。
つまり高い場所、甲羅の頂点付近に弱点が存在するということだ。それもそこを突かれれば一撃で死にかねないほどに致命的な弱点が。
その可能性に思い至らず、真っ向から勝負を挑んでしまったのが無様を晒した原因の一つだろう。
空中を疾走しつつ、サラは魔術を準備し始める。現在使用できる魔力の大半を消費し尽くすほどの大魔術。精緻極まる術式によって制御される探知系魔術の最高峰。かつて第一階層でも使った術だ。
「全ての智をここに。我は智の蒐集者。我の目の届かぬ場所はなく、我の手の届かぬ場所はない。 ――神眼!」
凄まじいほどの情報が一気に目に飛び込んでくる。殺到する攻撃魔術の情報などではない。生存している守護者を見ているが故の情報量。ただの魔物ではないとは分かっていたが、神眼からもたらされる情報を全て信じるのならば守護者は魔物ではない。
そう、この迷宮に根差し、迷宮の重要な地点を守護するだけの存在。桁外れの精度で一から創造された、驚異の神造生物だ。
色々と考えることがあるが、今はその思考を全て停止し、サラは加速しながら攻撃の雨を振り切る。そして、甲羅の頂点の上までたどり着き、戦鎚を構え、その場所へと全力で突っ込んだ。
神眼で位置は完全に把握している。一切の模様がなく、平たい一枚のうろこ状になっている場所だ。弱点ではあっても、その場所の強度は生半可なものではない。むしろ、物理的な強度だけに絞れば、魔法陣で保護されている他の部分よりも遥かに上だ。
だが、サラはただ一直線にそこを狙う。
己が腕と、神器『砕くもの』ならば粉砕できぬものなどないと、信じて。
魔術や石などの攻撃を引き裂き、サラはただ全力を振り絞って戦鎚を振り下ろす。
射線上に存在する全てを粉砕し、戦鎚は弱点を直撃する。その圧倒的なまでの衝撃は弱点を破砕すると同時に『動く山』の甲羅全体へと波及し、一撃を以ってその命を粉砕した。
断末魔の悲鳴が上がる。しかし、守護者の意地なのか、その悲鳴さえもが凄まじい神経攻撃だ。今までの攻撃よりも更に深い深度の神経攻撃だが、サラはただ戦鎚を一振りするだけで動じる様子もない。
実際には全身に麻痺の症状が出ている。サラの回復力をもってしても、短時間では完全に治りきらないだろう。数分で動けるようにはなるだろうが、完全に麻痺が抜けるには一時間は掛かる。
とはいえ、それは特に問題にはならない。この場所は守護者の守護領域内だ。近寄る魔物などいないし、唯一の脅威である守護者は今、粉砕した。
今はまず休むべきだ。急速回復に必要なだけの魔力は使用せずに取っておいてある。前回のような長時間の戦闘ではなかったし、覚悟していたよりも短い時間で済んだので余裕はかなりあるのだ。この分なら、第四階層の守護者もついでに撃破して帰れるだろうか。
大きく息を吐き、サラはその場にあった甲羅の破片に腰を下ろす。体に少々の不具合が出ていても、サラの魔術行使には何ら支障はないため、索敵魔術は展開したままだ。どうせ動けないので、最近練習しているワイド・テレスコープを実地で使ってみるのも悪くないだろう。最初は高い場所からの俯瞰視のみの魔術だと勘違いしていたが、ワイド・テレスコープは視点を複数へと分割でき、目的の物を見つけたならそれを他の魔術に連動させることもできる。移動しながら使うには熟練が必要だが、固定点で使う分にはもう少し練習すれば実用段階に達せるだろう。
至近の目標に手が届きそうだというのは、もどかしくもあり、しかし嬉しいものだ。サラはワイド・テレスコープを使うのを止め、僅かに微笑みながら、なんとなく『動く山』の中心部付近を見てみる。
一撃で粉砕したため、前回よりも遥かに使えそうな部位が多い。『動く山』は火に弱いのだが、火に当たった部分の甲羅は強度が著しく落ちるため、良い材料にはならない。だが、今回は魔術による攻撃を一切していないので、この散らばる甲羅は全て何かの材料に使えるだろう。ただ、量が量なので、サラが全力でリバース・スペースを展開しても全部は入りきらない。特に良質な部分を選ぶ必要がある。
そして、甲羅の真ん中付近は非常に硬く出来ているので、研究の試料としても、武具の素材としても最適だ。
などと考えていた時だった。
キラリ、と何かが光る。金属的ながらも有機的な光。しかも、かなり強大な魔力を秘めているようにも見える。
非常に気になる物体だ。サラは思うように動かない体に鞭打って、その物体の元へと急ぐ。
「……これは、まさか」
思わず目を見開いてしまうぐらいに、驚くべき発見だ。
真珠をそのまま一抱えほどの大きさにしたかのような、乳白色の真球。桁外れの魔力を内包しており、サラでさえも素手で触るのは危険極まる。恐らくこれは『動く山』の魔力の源だった器官だろう。
リバース・スペースから魔力を遮断する布を取り出し、サラは珠を慎重に包み込む。そして、何重にもいろいろなもので包み込み、リバース・スペースへと入れる。
かなりの発見だ。この魔力量は竜種の成体が抱え込んでいるとされる竜玉にさえ匹敵する。その上、上手いことやれば『動く山』から何度でも入手できる類の代物かも知れない。
今日はもうこの珠の入手だけでいいだろう。しばらく休んだら、甲羅の破片を取れるだけ集めて帰還すべきだ。
うんうんと頷き、サラはゆっくりと休み始めた。
この第三階層の時点でそんな代物を手に出来る、それが意味することを考えることを怠ったままに。