第十一話
倒れてから三日休んだサラは、いつもの探索用装備に加え、普段は付けていない腕輪を身に着けて迷宮の前にいた。
寝ながら三日間掛けて、サラは『動く山』攻略に十時間も掛けてしまった理由に答えを出していた。考えてみれば簡単な話だ。単に、この迷宮をなめすぎていただけの話である。
加減が効くよう、普段は素手で戦っていたため、武器を持ち歩くという発想のなかったサラは迷宮攻略時もほとんど身一つの状態で挑んでいた。武器の扱いは師に叩き込まれていたというのに、持ち歩かずに大打撃を受けるというのは醜態と言える。
だから、サラはもう油断することなく武器を携えている。身に着けた腕輪はサラが全力で戦う時のみに使用するいくつかの武器を収納している神器なのだ。
いつもならさっさと迷宮へと入っていくサラだが、今日は様子が違う。サラの方に問題があるのではなく、イーリスがサラの裾を掴んで離さないのだ。
「大丈夫ですから、ね? 大丈夫、わたくしはそう簡単に死んだりしません」
「でも、だって、だって……」
「んー、分かりました。では、こうしましょうか」
泣きじゃくるイーリスをあやしながら、サラは手近なところにあった花を摘み取り、それにある魔術を掛ける。
わずかに明滅する花をイーリスに手渡し、優しく笑いかけた。
「これにわたくしの命を分け与えました。わたくしが生きている限りは、この花が枯れることはありません。萎れたりしたら、弱っている証拠ということになります。
だから、これを持ってわたくしの帰りを待っていてください。大丈夫、わたくしは絶対に死にませんから」
それはいつもの笑みだ。余裕をにじませた、強者の笑み。
あの弱り切った顔ではない。いつもより、むしろ大きな余裕を持っているかのような――。
「お姉ちゃん」
だから、イーリスも決める。笑顔で送り出すことを。
この危険な迷宮に入るサラに、不安を抱かせないように。
「いってらっしゃい」
「ええ、行ってきます。早ければ、明日の晩には帰ってきます。それまで、オリオールと一緒に頑張ってくださいね?」
「うん」
いい子、とサラはイーリスの頭を撫で、ゆっくりと歩き出す。
その歩みには、一切の油断も隙も存在しなかった。
千変の樹海その第一階層は緑で覆われた森林だ。
だが、よくよく考えると、なぜ千変などという大層な名がついているのか。
その理由は、第二階層以降に進出したものしかわからない。
第一階層を飛行魔術で駆け抜けたサラは、第二階層への階段へと足を踏み入れる。
上りではなく、下りの階段だ。数百段に及ぶ階段を抜ければ、まず誰もがそのむせ返るほどの甘い花の香りに驚くだろう。
そう、第二階層に存在する植物は全てが花を結ぶものであり、常に満開の状態で咲き誇っているのだ。
更に言うならばその攻略難度は第一階層の比ではない。魔物を無視したとしても、その舞い散る花びらが常に視界を遮り、異常を知らせる匂いは花の香りで全て掻き消えてしまう。また、無作為に漂う花粉は判断力を著しく鈍らせ、帰り道を忘れさせる。つまり、この第二階層は幻惑の迷宮なのだ。
加えて、潜む魔物も第一階層よりも厄介だ。何が厄介かと言うと、本体の強さ自体は第一階層よりも下だが、常に花木に擬態しているため目視での確認は困難を極め、魔術などを使わず毒の粉などで攻撃してくるため知らぬ間に全滅の危機に陥らされてしまう。
安全に進むには移動型の防御障壁を常に展開し続けるか、サラのように自前の各種抵抗力で毒などを無効化するほかない。
とはいえ、広域の索敵魔術を常時展開できるサラにとっては第一階層よりも楽に進める場所だ。敵の肉体は弱いので、遠距離からの先制攻撃を加えればそれで終わる。毒などを持っていたとしても、触らずにリバース・スペースへと落とし込むため関係ない。
第二階層で最大の問題は『喰らう大樹』という名の付いた巨大な食獣植物だ。第二階層に存在する石碑の守護者で、自分を中心とした直径約三百ヤードに侵入した動物へと触手を伸ばして攻撃する。触手の速度、威力は図抜けていて、下手に近寄れば障壁ごと砕かれ、捕食されてしまうだろう。
だが、現在『喰らう大樹』は存在しない。一週間前にサラが全て撃破したため、あと三日は出現しないのだ。
そう、だから。今の最大の問題は。
「クハ、クハハハハハハハハッ! みぃぃいつぅぅけたぁぁぁぁっ!」
声が聞こえると同時に、サラは腕輪から一本の巨大な戦鎚を取り出して握りしめた。
索敵魔術に反応はない。だが、オリオールの協力を得て、サラはこういった手合いに対する感知魔術を構築していた。
魔力を無効化するなら、魔力以外で感知すればいいのだ。
意識を拡張し、サラは魔力以外で自分の体に眠る力を引き出す。それは生物が本来持つ力。生命力そのもの。氣と呼ばれていた力だ。
氣は魔力と相性が悪いため、サラはあまり上手く操作することは出来ないが、微量の氣を周囲に展開して敵の存在を感知することくらいは出来る。
そして、いくら魔力を透過すると言っても、その存在を認識してしまえばサラならいくらでも位置を知る手段を持っているのだ。
敵は真後ろからサラを斬り付ける。だが、それを戦鎚で弾き飛ばし、サラはそれを見た。
全体的な印象はタキシードを着た痩身の青年。ただし、顔のデッサンが崩れていなければ。本来白目の部分が血のように朱く、瞳は夜のように黒い。そんな目が満月のように丸く見開かているのは冗談にしか思えない。鼻も高い、というか鷲鼻を越えて五インチぐらいの高さだ。口も頬までバックリと裂けている。
怖気を誘う外見。そして、内包する魔力の禍々しさ。
分かる。これは敵だ。生きとし生けるもの全ての敵だ。
「イィッヒヒヒヒヒヒヒ、お前だな、お前だな、お前だなァァァア!? かの巨獣を、山の如きものを、『動く山』を滅ぼしたものは! あひゃ、ヒャヒャヒャハハハハハハハハッ!!!
殺すよ、殺そう、殺して犯すぜ、アギヒヒヒヒヒィィイ!」
「そうですか、わたくしも貴方を殺しに来ました」
何が楽しいのか笑い続ける敵と、あくまでも冷徹に告げるサラ。
そして、問答はそれで終わり。両者はほぼ同時に動きだし、同時に必殺の一撃を繰り出した。
戦鎚と剣が打ち合わされ、大気が震え、周囲の木々の花が散る。その凄まじい衝撃は、しかしサラとその敵を傷つけるには足りない。
このたった一合の打ち合いで、サラは相手の実力を正確に読み切った。速度は互角、だが膂力は相手の方が圧倒的に上ということを。しかも、恐らく長き時を生きてきているはずの相手だ。技量でも負けているだろう。
だから、サラは笑う。
己が全力を振るうことに躊躇いを覚えない存在に、久方ぶりに出会えたことに。
およそ淑女らしくない、獰猛な笑みを浮かべたサラは戦鎚の持ち方を変える。それは習い覚えてきた構えではない。悠然と戦鎚を肩に担いだ、相手を見下ろす構え。
戦鎚の柄の長さはサラの身長をゆうに超え、鎚の部分はサラの胴体部分ほどもある。そんな巨大な代物を軽く担ぐ。
サラの構えを見た敵は笑みを潜めてジリ、と僅かに後ろに下がった。
気圧されたのだ。サラに、ではない。サラの持つ戦鎚にだ。
嘆息し、敵は持っていた剣を己の心の臓へと突き立てる。一瞬だけサラは動揺しかけるが、すぐに跳ねた鼓動を抑えた。
理由は簡単だ。敵は自殺したわけではない。己の半身である剣を身に取り込むことにより、本来の姿を取り戻しているのだ。
今攻撃すれば勝てる、そう思いながらもサラは動けない。攻撃すべきと言う理性を、本能が押しとどめている。
動けば、死ぬ、と。
高密度の魔力に覆われ、姿を変えていく敵。その姿はまさに悪魔。古の魔族の内でも、特に忌むべき存在。
変化が終わったその姿は、殺戮のみに特化したかのようにも見える。
「……その戦鎚はかの『破壊神』様の武器の似姿。狂気に身を浸しているとはいえ、我は、俺は、私は破壊するもの。殺すもの。戦鎚に敬意を表し、我が真なる姿と名を教えよう。
我は、俺は、私は中級魔族グ・ランデル・オルゴーン。グレンデルの悪魔と呼ぶがいい。この我が姿をさらすのだ。貴様もその全霊で以って戦うがいい」
右手そのものを巨大な剣とし、左手が巨大な盾のようになっているが、それ以外は人間の形を保っているのが恐ろしい。
しかも、その肉体は先ほどの痩身からは考えられないほどの筋肉で覆われており、速さも力も格段に上がっていることを想像させる。
それを見て、感じて、サラはほっと息を吐く。
よかった、と。本当によかった、と。
きっと、このグレンデルの悪魔とやらはサラが『動く山』を殺したところを見て動き出したのだろう。少しの間、第三階層でサラを探し、今まで第二階層を探していて、次は第一階層へと向かうところだったのだろう。
第二、第三階層に到達できている冒険者は、サラを含めてさえ僅か三組。合計十二人。しかも、数日前からはサラ以外第二階層へと潜っていない。つまり、誰ひとりとして被害が出ていないということだ。
これはかなりの僥倖といえるだろう。
サラが今相対している存在は、自分で言っていた通り何かを殺すために生きている。その実力は先ほどの痩身の状態でさえ平常時のサラと互角以上。おそらく、上の階層にいる者達では認識することさえ出来ずに瞬殺される。
だが、今なら。
この瞬間ならば、この化け物はサラ以外に目を向けてはいない。
今、この時に殺してしまえば、それで他の被害を出さずに済むのだ。
キッ、とサラは敵を睨み据える。グレンデルの悪魔、その呼び名にふさわしい威容と能力を持つ化け物を、真っ直ぐに。
中級魔族と、こいつは言った。常識的に考えるのならば、上級だのそういうもっと上の存在がいるのだろう。なら、こいつ程度に手間取っていては話にならない。
「ギャヒャアッ!」
奇声を上げ、凄まじい速度でグレンデルの悪魔はサラへと襲い掛かる。
速い。目では追えない。強大な魔力を背景に人外の域にまで強化しているサラでさえ、その動きは捉えきれない。
だが、分かる。今のサラは目で見るよりも魔術によって拡張した空間識で物を認識しているのだ。強化の度合いを引き上げつつ、サラは戦鎚を斜めに構えることで大上段からの一撃を受け流す。
甲高い耳障りな音が響く。金属がこすれる音は不快だが、そんなものを気にするほどサラの精神はやわではない。
攻撃を受け流されて体勢を崩したグレンデルの悪魔に、反撃として体のバネのみで戦鎚を鋭く叩きつける。長い戦鎚を器用に振るい、至近距離の相手に恐ろしく重い一撃を叩き込んだ。
本来の威力は出ないが、しかしその一撃の重さは桁外れといえる。巨岩をも叩き砕く威力で振るわれた戦鎚は、グレンデルの悪魔の強靭な盾をたやすく陥没させて吹き飛ばした。
そして、サラは吹き飛んでいく敵に容赦をするほど甘くはない。
瞬間的に鋭い術式を編み上げ、強力な魔術を発動させる。
「雷鳴よ、引き裂け。雷閃刃」
雷光の速さで放たれる紫電の一閃。切れ味は圧水刃に劣るものの、速度では比べるべくもない。放たれれば回避不可能。それが常識だ。
だが、敵対するは遥か太古に眠りにつきし古の魔族。地面と水平に吹き飛んでいるため、並の存在ならば回避どころか防御さえもできない困難だろう。
しかし、それを覆すからこそ、悪魔と名乗ることが出来るのだ。
強烈な魔力の集中を悟ったグレンデルの悪魔は、慣性相殺の術を発動させる。人と交わり本来の力を失った魔族とは違い、存在そのものが魔である彼にとって、魔術とは手足の一部に等しい。一切の詠唱も起動呪もなく、高速の魔術発動を終えた。
加えて、サラの魔術発動の瞬間とその時期を完全に読み切り、その時にどの地点に自分がいるかを誤差を含めて解析し、その場所の空気を固めて足場を作る。そして、サラの魔術発動よりほんの僅か、一瞬前に自分の体を右へと弾き飛ばした。
右方向、つまり木々が多くある森林部だ。いかにサラの雷閃刃が鋭い切れ味を誇ろうとも、本来の威力を発揮できる距離から外れた上、頑強な大樹を切り裂けば切れ味は激減する。そう、グレンデルの悪魔ならば容易に抵抗できる強さまで。
舌打ちし、サラは自分の愚策を悟る。
何のためにこの戦鎚を握ったのか。この戦鎚の名がなんだったのかを忘れていたのか。
求めなければいけないものは一撃。この『砕くもの』を握ったからには、かの破壊神の力を振るうからには、様子見の攻撃などするべきではなかったのだ。
ギリリ、と握る手に力がこもる。技などない。ただ、上から振り下ろすだけ。それ以外の攻撃など必要ではない。
サラが一撃に賭けることを見て取ったのだろう。グレンデルの悪魔は森林部から出てきてわざわざ真っ向から直線でサラへと迫る。
十ヤードほどあった距離が一瞬で縮まる。目で見える速度ではない。風よりも速く地を掛けたグレンデルの悪魔は、一撃のもとにサラを斬ろうとし――。
「……ヒャハッ」
それよりも更に速く振り下ろされた戦鎚の一撃により、剣や盾ごと肉体を完膚なきまでに破壊されていた。
戦鎚の一撃を放ったサラは、自分の足で立てないほどに疲弊し尽くしていた。
極度の集中と、一瞬に凝縮して放出した魔力の多さ。そして、知らないうちに引き出していた戦鎚の巨大な力の負担が大きすぎたのだ。
「あ、く、うぅ……」
唸り、なんとか倒れないよう戦鎚を杖にして立つ。
そんなサラの背に、からかうような声が掛けられた。
「ヒャハッ、小鹿みてえだな。だが、よくやった。我の、俺の、私のような存在、すなわち魔人を、よくぞ無傷で倒した。褒美だ。この千変の樹海の最奥に封じられし者について、少しだけ教えてやろう」
それは、頭部以外の全てが粉砕された、死者からの最後の言葉だ。
遮る術をサラは持たず、遮る理由もまたサラは持っていなかった。
「我は、俺は、私は中級魔族だった。だが、この千変の迷宮に封じられているのは上級魔族、つまり我より、俺より、私よりも一階級上の存在だ。ああ、ちなみに最上級魔族とかいうやつらもいるぜぇ、この迷宮の奥にはなぁ。ヒャハ、ヒャハハ。
死ぬなよ、死なずに地獄を見るがいい。我を、俺を、私を殺した者よ、壊したものよ。この迷宮、その最奥にある地獄を、天国を、果てを知るがいい。ギヒャ、ヒャハハハハハハハハハッ!!」
哄笑と共に灰と化し、消え去っていくグレンデルの悪魔。それを見ながら、サラはぽつりと漏らす。
「……ええ、死にませんとも。わたくしは、わたくしの使命を果たすまでは、絶対に死にませんわ」
言って、サラは花びらの吹き飛んだ石畳へと腰を下ろす。
グレンデルの悪魔の灰がちょっと残っているため不愉快だが、しかし反動が大きくてしばらくは立てそうにない。
引き出した力を使ったのが、瞬間的なものでよかった、とサラは吐息する。今のサラを蝕むのは肉体的苦痛だけで、魔力を使うには特に問題はない。だから広域の索敵もできるし、近づいてくる魔物に対処もできる。
だから、と言うわけでもないが。
サラは一戦終えた清々しい気分で舞い散る花びらを見る。いつもは休むことなく動いているし、色々気にしすぎてこの美しい景色をゆっくりと眺めたことなどなかったことを思い出す。
「いつか、イーリスちゃんがちゃんと戦えるようになったら、お花見でもしましょうか。わたくしも、ちゃんと神器を扱えるように鍛え直さなきゃいけませんし」
苦笑し、動けるようになった体に鞭打って立ち上がる。
折角第二階層に来たのだ。この第二階層でしか採れないものをたくさん持って帰るべきだろう。協会へ提出する試料のほかに、イーリスやオリオールのために何か持って帰るのも悪くはない。
悩むべきことはいくつも出てきたが、それはまたあとで悩めばいいのだから。
ゆっくりと、しかし確実に迷宮攻略は進んでいく。
迷宮の奥底で、何かが僅かにうごめいていた。
第一章 了